毎日のできごとの反省

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日本文明は滅びる

2007-12-25 22:14:22 | 歴史

 日本文明は滅びるという予言は明治開国以来、何度も多くの人によってなされた。一見安っぽいこの予言は意外なことに、大筋において正しいのではないかと思えるようになってきた。明治開国時の国粋主義者の危惧は、日本は洋化によって古来の日本文明を失ってしまうという単純素朴なものであった

 この予感は素朴なだけ正しいと思える。彼らは日本人がただ日本語を喋るという日本人の特徴をかろうじて残し、洋服を着洋風の家に住み洋食を食べ、西洋の文明を楽しむというわけである。現代日本を見よ。おおむねそのようになっているではないか。

 さてここで文明を定義しなければならない。私は狭義の文明を普遍的なテクノロジーと考えられる。例えば自動車のように道を走行する技術は、実現する手段は各種の方法があるとはいうものの、同一の手順をふめば同一の結果が得られる。これを普遍的なテクノロジーという。

 明治維新において日本が西洋文明に圧倒されたのはこの点で日本文明が明らかに劣っていたからである。日本人が間違えたのは狭義の西洋文明すなわち機械技術が優れている故に、絵画や小説などの藝術といった文化方面まで劣っていると考えたことにある。油絵の即物的なリアリティー、技術方面の成果を系統的に取り入れた、洋画の遠近法などによって日本文化全体までが西洋に劣っていると誤解したことである。

 狭義の文明はテクノロジーであり、普遍性がある故に優劣をつけることが可能である。刀は鉄砲にかなわないのは明白である。しかし文化には優劣はない。レンブラントの絵画と浮世絵の優劣を比較するのは愚劣である。文化を支えるテクノロジーには優劣はある。しかし劣っていても、そのテクノロジーの限界に挑戦した文化の成果には優劣はない。

 しかし明治の日本人はそれを誤解した。そこで文化の方面まで西洋に劣るから洋風に乗り換えようとしたのである。明治の日本人は今の日本人が思うほど賢くはなかった。文明を定義しよう。狭義の文明とは普遍的テクノロジーである。ここで言う文明とは広義の文明であり、狭義の文明と文化を包含した民族の活動の全てである。

 日本の文明とは何か。全ての文明がそうであるように、日本の文明の中心は日本語である。次は天皇と神道である。天皇は神道の司祭である。まず日本に精神文明として神道が成立した。その後天皇は司祭の代表として現れた。だから順番は神道が先だが、千年以上も前から、天皇と神道はセットとなっている。これから生み出されるのが日本におけるコミュニティーのあり方である。以上が日本文明の基層である。

 それから周辺の文明の成果として歌舞伎や浮世絵といった伝統芸術がある。元号も同様である。最近では日本の芸術としてアニメをあげるむきもあるが、これは正しいのであろう。周辺の文明の成果であるといったのには意味がある。日本の文明は外来文明のコピーに過ぎないと言われる。しかし全ての文明はそれ以前に発達した文明のコピーから出発している。

 コピーから出発して、文明の基層により加工されて独自のものとなる。独自となったものはコピーとは言えない。全ての文明は先代文明のコピーである。ある文明の前の文明というように時代を遡っていくと、行き着く先はラッキョウと同じで何もないのであろう。オリジナルの原初文明などというものはないのである。

 それは時代を昔に遡っていくと、規模も深みも浅くなっていって限りなく無きに等しくなるからである。日本人は漢字を導入して独自の使い方と読みと仮名を生み出した。これらの成果は日本文明のものである。加工する手法は日本文明の基層が生みしたものである。現在の中国の漢字の用法を見るが良い。

 漢王朝までに成立した漢字の用法すなわち漢文とその読みは現在には全く継承されてはいない。現在の中国文は漢字を使っているだけで漢文ではない。現代支那人は論語などの漢文は読めない。それは源氏物語を現代日本人が読めないのとは異なり、異言語だからである。発音も全く異なる。

 しかも同じ中国文でも発音も用法も北京語や広東語などの地方言語では全く異なる。つまり現代中国文明は、漢王朝時代の文明の継承ではない。日本が異文明として漢字を受け入れたように現代シナ人は異文明として漢字を受け入れている。この点は多くの人が誤解している。現代支那人はDNAにおいても、文明的にもオリジナルの漢民族ではない。

 本論に戻ろう。文明の衰退とは何か。それは三種類ある。ひとつは文明のコピーからオリジナルを作る能力の退化である。次はそれを常に更新して新たなオリジナルを作り続ける能力である。致命的なものは基層の損傷による喪失である。私が日本文明が滅びつつあるといったのは、実にこの三つの現象が明治以降の日本に現れているからである。

 明治の日本は西洋のテクノロジーに圧倒された結果、前述のように日本文明全体を劣ったものとする傾向が蔓延した。その結果、西洋文明の正確なコピーこそが最善となる。実際にはあらゆるものを日本化して受け入れるのだが、あくまでも意識的目標は忠実な西洋の模倣である。

 衣服を見よ。西洋の衣服の直輸入であり、日本化はなされない。元号を見よ。かつて日本は支那の元号という制度を取り入れた。しかしシナと同じ元号は決して使わなかった。これが日本化である。日本は西暦に対して同じ事を試みた。西暦は支那や日本の元号と異なり、途中での変更がないため過去の事象間の時間間隔を計算しやすい。従って一見合理的である。

 実は年号のスタートをキリストという宗教者を使っているために不合理な面はあるが、とにかく便利である。そこで西暦のアナロジーから皇紀というものを発明した。神武天皇即位を起源とする通算年号である。昭和20年を皇紀2600年とする。しかしこれは大日本帝国の崩壊と共に放棄された。

 そして合理的であるとして、西暦をそのまま取り入れた。今、平成などの日本の元号が主力として使われているのは、役所の公文書くらいであり、新聞雑誌などは西暦が主である。これは明らかに文明のコピーからオリジナルを作る能力の喪失である。日本が支那の元号をそのまま使わなかったことに比べれば退化である。

 次は多くの日本固有の文化とされるものは何かを考えたい。歌舞伎、茶の湯、人形浄瑠璃などをあげてみよう。確かに日本独自の文化である。しかしこれらは完成された伝統芸能であって、現在演じられているのは過去の忠実な再現に過ぎない。歌舞伎は当初演じられたものの忠実な再現に過ぎない。演者も人間である以上個性というものは発揮される。しかしそれは伝統技能の枠内に過ぎない。

 現代の世相や事件というものを表現する歌舞伎は存在しない。つまり改良して更新する能力の喪失である。唯一気炎を掃いているのは落語であろう。落語には古典落語と現代落語がある。古典落語は過去の忠実なコピーである。しかし現代落語は必死に現代の世相や事件を表現しようとしている。

 あるいはその手法が既に落語からはみ出していると批判軽蔑し、古典落語に執着する者もいる。それは物事の本質を見ないのである。藝術はその時代を表現するために不断の改良がなされなければならない。それが停止したときは藝術の死である。改良がなされた結果、限界を超えて異質のものになるのは当然のことである。

 歌舞伎と名がついてもルーツの阿国歌舞伎と現代残っている歌舞伎とはあらゆる面において異なる。私の説の正しいことはかくのごとくに事実が証明している。阿国歌舞伎は阿国歌舞伎に止まらなかったために藝術としての、文化としての生命を保ちえたのである。しかし見よ。歌舞伎、茶の湯、人形浄瑠璃はその進歩を停止した。多くの日本独自と呼ばれる文化はこの体たらくにある。自己の文化の不断の更新の能力の喪失である。

 第三の基層の損傷による喪失を見よう。確かに多くの日本人が新年に初詣に訪れるように、神道の精神は日本人には失われてはいないように思われる。神道に教義はない。しかし、日本人の日頃の立ち居振る舞い、善悪の判定の根底には神道の精神がある。しかし問題は天皇に対する態度である。

 戦後急激に皇室に対する畏敬は喪失された。大江健三郎のごときは天皇はいないほうが良いとさえ思っている。このような者たちが急激に増えている。それは戦前からマルクス主義の蔓延から始まり、敗戦による米国の日本再教育の成果でもある。事態は敗戦により急激に悪化した。

 あるいは言う。江戸時代の庶民は天皇の存在さえしらなかったと。そうではない。勤皇の旗印をあげるや天皇の権威の下に幕末浪士や大名までが結束したのは何故か。明治になるや皇民化教育が容易に成功し、わずかな日月で日清日露の戦争に多くの犠牲をだしても闘う兵士ができたのは何故かと。

 客観的な知識がなくても、多くの民草には京都にありがたき人がおわしますということを感じていたのである。しかしながら、マルクス主義と米国の支配は着実にこれを破壊しつつある。時間はかかるであろう。しかし破壊しつつあるという傾向に変化はない。現に女性天皇の容認などという主張がなされている。奇妙なことに女性天皇の容認という主張は多くが天皇自体を否定する者がなしていることである。女性天皇の容認説は天皇自体の否定の陰謀ことの証明である。

 やはり大東亜戦争の敗戦は致命的であった。白村江の戦いの敗戦でも日本は占領されなかった。蒙古襲来でも本土上陸はされたが、最終的には撃退した。大東亜戦争の敗戦は本土の占領とそれに伴う法律等の諸制度を米国の言うがままにされ、マスコミや教育界は言論統制されるという未曾有の事態を引き起こした。これが天皇と神道という日本の基層を侵しつつある。そして日本に残るものは、日本語だけとなる。

 それに付帯するものはコミュニティーのあり方であると言った。それはさらに確実に崩壊しつつある。会社社会の普及による村落共同体の崩壊である。かつては冠婚葬祭から老人福祉までを村落共同体が荷なってきた。現代で、それがあるのは既に例外と言ってよかろう。

 ひどい落ちを言おう。かく村落共同体すなわちコミュニティーの崩壊が日本の文明の根幹を破壊すると私はいった。その私は子供のころから濃密な村落共同体に本能的恐怖を抱いていたのである。

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1 コメント

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日本文明=日本国ではない (やすなが)
2008-11-07 20:35:34
 戦前の日本は天皇=国家(すなわち日本文明=日本政府)の混同にあったせいで、不安定な社会になり戦争で負けてしまった。
 日本文明(国体)は日本政府(政体)とちがって、永続性があるという確信を天皇の神聖性や万世一系の性質に象徴させたものである。そのため日本の国体は様々な政体の変化を体験しながらも、高い安定性をもたらす結果となり欧米と違い革命を経ずして近代化を成し得た。
 「鉄は国家なり」ということが示すがごとく、日本全体には国家という唯一絶対のシステムしか存在しないような幻想に陥っているが、空間的広がりだけでなく時間的広がりも評価してその占有率を評価しないといけない。そうするとその占有率はごく一部でしかなく今の日本政府が日本文明であるとはいえないのである。
 そういった法治国家日本以外にも社会を形作っているものがあることを、特に歴史性において積極的に認める自覚がわれわれ日本人には必要だと思われる。
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