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平成24年の3月まで、連続ドラマで山崎豊子原作の「運命の人」がTBS系で放映されていた。このドラマは有名な外務省機密漏洩事件をかなり忠実に模しているとされている。主人公の弓成記者とは実在の毎日新聞の西山記者がモデルである。外務省の機密とは、沖縄返還の際に、当時の地権者に米国が支払うはずになっていた原状回復費を日本政府が肩代わりする、という密約をかわしていたものである。確かに戦争で奪った土地を返すのに、費用は奪われた側が払うということは世間一般の常識では理不尽なことである。
だが現実には世界にはこのような理不尽なことで溢れている。インドネシアは第二次大戦後、婦女子も含めた40万人の命を奪われる独立戦争を戦ってオランダから独立した。なんとオランダは独立の条件として、多額の賠償金を取ったのである。オランダの植民地支配は、他の欧米食国と同様に現地人を獣扱いした過酷なもので、その結果部族の争いや土地・産業の荒廃、多数の虐殺をもたらした。取り返しのつかない荒廃をインドネシア全土にもたらしたのである。それにもかかわらず、オランダは当然の如く賠償金を取ったのである。未だにアジアのかつての植民地国は白人の宗主国の過酷な支配の過去を公然と国民に教育する事さえ恐れてしていない。一方でありもしなかった日本による占領下の被害を声高に言うのに、である。
このことに思いを致すことができない現代日本人は何と愚かな人たちであろうか。歴史を見て欲しい。かつて戦争で奪われた土地が外交交渉で還ったことを寡聞にして私は知らない。沖縄は稀有な例外である。戦前はさておき、戦後米国は自由と民主主義の国で侵略戦争は悪である、と言う建前を主張する国になったから、戦争で沖縄が米国領になったとは口が裂けても言えなかったのである。しかし実態は当時沖縄に行くにはパスポートが必要であった、紛れもない米国領だった。
余談になるが、沖縄が交渉で還ってきたことから、多くの日本人は北方領土が交渉でかえってくるとの幻想を抱いている。断言する。ロシアが余程ひどいことにならない限り、北方領土が交渉で還ってくることはない。いや、ロシアが内乱でめちゃくちゃになろうと、外交より戦争で奪い返すしかない公算の方が高い。外交交渉では二島返還でさえありえない。かく考えれば西山記者の機密漏洩とは何だったのだろうか。日本政府が密約を結ぶのを拒否して沖縄返還が反故になれば良かったのだろうか。たとえ基地付きとは言え返還自体が歴史的なできごとである。西山記者はそれを妨害しかねないことをしていたのである。
言論の自由・報道の自由を守るとドラマは言っていた。確かにそれは恐ろしく勇気のいることであり犠牲を伴うことである。だがこのケースでは何のためにそれらの自由を守ると言うのだろうか。報道の自由が守られた結果、沖縄が返還されなくても良いと言うのだろうか。沖縄の人たちが米軍基地の犠牲になっている事は極めて遺憾なことである。しかし一方で沖縄の地政学的な位置の問題がある。さらに日本が米国に代わって自らを守る、あるいは東アジアの安定に寄与しようとはしない、という怠慢のせいでもある。沖縄から米軍基地を撤去して代替の軍事力を置かなければ、東アジアには大規模な動乱が起きる。
他のドラマや映画にもあることだが、まだおかしなことはある。沖縄の人が、記者に米軍もひどかったが日本軍はもっとひどかった、と語るシーンである。実際にこう語る沖縄の人は多くいるのだろう。しかし「天王山」と言う米国人が書いた本に、沖縄における米軍の残虐行為が多数書かれている。戦時中の沖縄における強姦事件は一万件を超えていると言うのだ。投降した日本兵を殺害するのはほとんど当然のことだった。連れていた4人の沖縄女性を強姦した上に川に投げ込んで殺したと言うのもある。その他の恐ろしい残虐行為が多数書かれている。つまり米軍は人道的な軍隊などではなかったのである。何故現代の米軍兵士は小学生すら強姦する恐ろしい人たちなのに、沖縄戦当時の米軍が残虐非道な存在ではなかった、と言えるのであろうか。残虐な日本軍、と言う教育のために、日本兵は米軍よりひどかったと言い、反基地闘争のために、現代米兵はひどい、というのではないか。多くの目に監視されていた現代に比べ、やりたい放題だった沖縄戦当時の米軍の方がひどかったのは当然であろう。
「天王山」には疑問のある記述もある。ふらふらしている日本兵の胸に煙草の火で合衆国海兵隊という文字を焼き付けた上に、担架で運んでいる最中にわざと落として骨折させたと言う。だがこの日本兵は女性を強姦した後に二人の子供と一緒に咽喉を切って殺したと言うのだ。これは実に奇妙なことである。担架で運ばなければならないほど怪我などで衰弱していた人が、どうして強姦などできたのであろうか。米軍の強姦事件の大半は熾烈な戦闘が行われている地域ではなく、戦闘が収まって落ち着いた場所で起きたと言うのだから。多分このエピソードを語った米兵は、遊び半分に行った残虐行為の言い訳をしたのである。この本には、この手の遊び半分としか思われないような残虐行為が多数書かれている。後に日本通で有名になったドナルドキーンですら、当時の手紙で「アメリカ人が日本人をまだ人間として評価できないからだ」と書いた位だと紹介している。日本人は米国人にとって獣であったのである。獣が人道的な扱いを受けるはずがない。
この著者が自虐的日本人と違ってまともなのは、数々の米兵の残虐行為を書きながら一方的に断罪するのではなく、「武装していない住民に対する故意の残虐行為は、日本兵によるものよりはるかに少ない。」と一言だけ同胞のために弁明していることである。ただしこのことを著者はこの本では立証してはいないから勝手な自己正当化に過ぎない。主観的な弁解だけで、事実を立証していないのは、ノンフィクションとしては、重大な瑕疵である。米軍とソ連軍との相違はソ連軍が強姦略奪を上官までが推奨しているのに対して、米軍は公式には禁止していたのに過ぎない。やっていることに大差はないのである。しかも、この本に書かれている多数の強姦殺人、虐待などの戦時国際法に明白に違反する行為については、ただの1件でさえ処罰されたケースがあったとは書かれていない。日本軍では日本兵自身による、戦時国際法違反相当の行為について自ら処罰した例はある。日本軍の軍紀が厳正であったと言うゆえんである。
もうひとつは記者が報道の自由を権力から守ろうとした大義についてである。彼は当時の佐藤政権に対して戦ったのである。だがそれ以前にGHQによって日本は徹底的に言論統制が敷かれていた。西山氏はその時代に育ったはずである。言論の自由が奪われたから戦争になるのを止められなかった、と言う反省から、権力の弾圧から言論の自由を守ろうとした、と語る。しかし戦後行われていた米軍による厳しい言論統制については言及さえしない。米軍は自らへの批判を許さなかったばかりではない、公職追放によって、米軍に都合の悪い人物を政界、言論界、教育界から追放して米軍が去っても事実上言論統制の効果が継続するよう仕組んだ。
その結果戦前戦中の言論統制を声高に批判する人はいくらでもいるが、戦後の米軍の言論統制を批判するのは例外的である、という米国が望んだ事態が生まれた。西山記者の行為が個人として勇気のあるものだと言う事はそのとおりだろう。しかし米軍による徹底した言論弾圧に触れさえしないことに、その勇気に大きな疑問を持つのである。彼にとって戦前戦中の日本政府の弾圧は存在しても、戦後のGHQによる過酷な言論弾圧は存在しなかった如くである。ちなみに事件を起こしたのは毎日新聞の記者であったが、放送したTBSは毎日新聞の系列である。