毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

書評・国民の文明史・中西輝政

2019-07-31 15:47:47 | 歴史

 中西氏は小生の尊敬する識者の一人である。その大著のひとつが国民の文明史である。その中でも注目すべきは、日本文明の基底としての「縄文」と「弥生」であり、もうひとつは、日本はアジアではない、ということであろう。

 氏は日本が繰り返す、縄文化と弥生化の発現について考察している。その考察は深い学識に支えられていると考える。ただひとつ気になるのは、氏ですら現代日本の表面的なできごとに過剰に反応し過ぎ、の感があることである。

 具体的にいえば、現代日本の政治状況は江藤淳が論考した「閉ざされた言語空間」に支配されている、特殊な状態にあるにも拘わらず、日本文明の基底より発しているが如き議論をしているように思われることである。もうひとつは、平成元年頃のバブルとその崩壊も日本文明の発現として考えていることである。

 過去の支那の例を見る。支那は①匪賊または周辺異民族による現王朝の崩壊②旧王朝の粛清③安定期④不満分子による混乱というサイクルを繰り返す。戦前の支那は④の時期だった。石原莞爾すらこの時の混乱を見て、支那人には統治能力なしとして、満洲国を作った。これは適正規模による国民国家成立という観点、あるいはモンゴル、ウイグル、満洲による防共国家を支那本土から切り離す、という観点から正しいのであって、支那人に統治能力なし、というのは間違いであることは明らかである。眼前の混乱に幻惑されて大局を誤ったのである。中西氏も現代日本史観察において大局観の間違いを犯している。

 例えば、「いまの日本はまさに『歴史の危機』に立っている(P65)」とか「治安大国から犯罪大国への転落(p67)」といった主張である。今の日本の危機とは、ほとんどが占領政策とそれへの埋没によるものである。憲法問題も変な平和主義もほとんどこれに起因するもので、日本文明の基底から発する要因は僅かである。もちろん江藤氏の業績を氏も大変評価しているのだから不思議である。

 他国による日本の全面的占領支配、といった状況は日本の歴史上かつてなかった特殊現象なのだから、その点も考慮されなければならないが、あまりなされていない。正確にいえば、「・・・チャーチルは、日本はこの約七年の連合国の占領によって、今後百年、大きな影響をうけるだろう(P384)」と言う言葉を引用しているのを始め、占領政策の恐ろしさを繰り返し述べている。にもかかわらず、具体的な現代の問題を論じる時、憲法以外、占領政策との関係はあまり述べられていないように思われる。日本の犯罪が悪質化し増えている、というのも他国と比較し相対化すれば、とてもそうは言えないであろう。マスコミ報道に過剰に反応し過ぎである、と思う。例えば、かつては尊属殺人という特殊な法律があった。これは、親殺しなどの悪質な犯罪が昔から、法律が必要なほど起きていたということである。

 言葉じりを捉えるようだが、戦後の平和主義も「換骨脱胎の超システム」の誤作動によるものである、という(P194)のも妙である。一方で日本の「フランス料理は」フランス人には、こんなものはフランス料理ではないと言わしめる程、換骨脱胎されたものであり、日本では外国の文化文明を取り入れる時、このような換骨脱胎が必ず行われる如く言う。

ところが「日本の戦後の『平和主義』の全貌を知るやいなや、『そんなものは平和主義ではない』と言う。自分の国を自分で守らない平和主義など、世界のどこにもないからである。」すると、平和主義とは世界各国で普遍的一義的であって、換骨脱胎が誤作動したのではなく、換骨脱胎はしてはならないものだと言っているに等しいのである。

これは矛盾である。しかも誤作動によって平和主義が日本で歪められたのは、単なる誤作動ではなく、占領政策によって人為的に作られたものである。つまり普遍的日本文明論を論じるには適切な例ではなく、より慎重に分析すべきと小生は考える。

トインビーの言葉を引用して「成功裏に成長が一定期間続いたあと『指導者たちが、追随者にかけた催眠術に、自分もかかってしまう』(P141)」として、「大東亜戦争やバブル期の日本のリーダーはまさにこの『文明の陥し穴』にはまっていったのである。」という。大東亜戦争とバブルごときを同列に並べる、というのはどうしても納得しかねる

大東亜戦争の原因は日本の国内的要因よりも、遥かに国際的要因があり、小生はマクロに見て大東亜戦争を戦ったのは決して間違いではなかった、と考えるからである。大東亜戦争の原因について左翼の史家と同様に、氏も軍部の国内政治支配などの国内的要因だけで見ているとは信じられないのである。

バブルなどというものは、景気変動のひとつに過ぎず、バブルといわれた好景気は、物の生産などの実体あるものではなく、金融や土地取引などと言う、架空のごときものから発した好景気だから、当時は泡のように中身のないという意味で「バブル」と称したのである。バブル崩壊以後はショックのせいか、マスコミなどでは「好景気」という言葉は使われなくなった。

バブル以後、失われた20年などといい、一度も好景気がなく、日本の経済は停滞していたごとく言うが、平成11年頃には「戦後最長の景気回復」と言われる「好景気」があったのである。最長と言う比較は「いざなぎ景気」のような戦後の「好景気」と比較してのことである。にもかかわらず、「好景気」とは言わず「景気回復」という消極的言葉しか使われなくなった。

この本で欠けているように思われるのは、大東亜戦争によって日本は人種平等という世界史的新天地を開いてしまったという観点である。それに対応する世界観が必要である。過去の経験もいい。しかしそれに匹敵する世界観を中西氏には提示していただきたいと考える次第である。ただ必ずしも文明論にはならないから、欲張り過ぎというものであろうか。

 疑問を桃うひとつ。いまの日本はまさに『歴史の危機』に立っている、と氏はいう。危機が来ると、日本は弥生の特性を発揮し、危機を劇的な手段で回避するというのだ。その典型が明治維新だと言うのだ。しかし、今の日本が本当に危機に立っているのなら、弥生的特性を発揮しているはずである。氏の説は間違っているのだろうか。

氏が正しいとすれば、恐ろしい話だが日本文明の弥生という基底が、占領政策によって破壊されてしまったのではなかろうか、とも考えられる。現実にGHQの政策で、多くの皇族が臣籍降下させられたために、天皇と皇室の継続すら怪しくなっているのに日本人は無策でいる。それどころか、保守を自称する小林よしのりですら、臣籍降下した皇族の皇籍の回復に猛烈に反対し、女系天皇に賛成している。しかも、それを指南している保守系識者がいる。

 だが氏の説により希望もある。日本を破壊したいと言う現代の一部の日本人の自己破壊的情念は、マルクス主義ないし、マルクス主義がソ連崩壊で公然と主張できなくなったことにある。そのマルクス主義は、必ずしもGHQによるものではなく、旧制の帝大において、外国の新奇な物なら何でも正しいと信じた知識人が、無批判に受け入れ大衆にまで拡散したことが淵源である。

そのようなことなら、氏の言うように日本の文明史で繰り返し起されていたことである。つまり、初めての事ではなく、何度も克服してきたことである。ならば、日本の現在は、その危機のレベルに達していない、とも考えられるのである。だが、日本がゆでガエルになる危険なしとは思えない節もあるから怖いのである。

この書評は大局的に氏の業績に納得しているのであって、例証したのはミクロのいちゃもんに過ぎない。だからここで、流石、と言いたい例を挙げる。元通産官僚が中西氏に語った言葉(P398)として「戦後の経済成長というものを、一人当たりGDPをいまの半分くらいにしておいて、もっと精神のしっかりした国をつくるようにすべきだった」と書く。

この対比として「明治の日本を訪れた多くの西洋人が書き残したのは、『たしかに貧しいが、精神の世界をしっかり持った国民だ』との言葉だった。それと比べ、日本の国柄・文明の本質が変わってしまった、ということなのであろうか。」と述べている。これを氏は戦後の日本がおそらく未曾有の経済成長をきっかけにして長い「縄文化」のプロセスに入ってしまったように思われる、と述べている。

確かに氏が指摘するように、「精神の世界をしっかり持った国民」ではなくなってしまっている、としたら、その主因を占領政策だけに帰するべきではないであろう。この指摘は我々が心に刻むべきものであると小生は考える。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿