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中国語の普通話とは・・・中国百年の!歴史

2019-07-12 19:55:56 | 支那大陸論

小生のホームページ「日本の元気」の中の「支那論」に下記のような記事を載せた。小生のホームページ「日本の元気」アクセスするには、ここをクリックしてください。

 

北京語とは支那言語訛りの満洲語である
 2章の最初に述べたように、mandarinは北京官話と訳される。北京官話とは、北京の宮廷で使われる言語の事である。大雑把に言えば、現在の北京語すなわち、支那の標準語は北京官話をアレンジしたものであると言われている。北京官話が宮廷で使われている言葉であるとすれば、最後の北京官話は満洲語である。

これまでに論じてきたように、少なくとも康熙帝の時代には宮廷では漢人といえども満洲化して、満洲語を話していた。康熙帝伝の宮中では、使われている言語と言えば満洲語と漢文しか登場しない。漢文とは繰り返し述べたように、四書五経のような書き言葉であり、広東語のような話し言葉とは何の関係もない。そして乾隆帝の時代の公文書は満洲文字を使った満洲語で書かれていた。

 さらに難解な漢文の四書五経などの支那の古典は全て満洲語に翻訳されていた。この意味するところは明瞭であろう。現在の北京政府が普及しようと努めている標準語、普通話とは、満洲語を基礎としたものなのである。満洲語を話す漢人が、魯迅などの白話運動によって漢字表記ができるように改良されたものである。この事は日本でも明治期に、二葉亭四迷などによって、これまでの文語体しかなかった文章が、落語などの江戸言葉を基礎として口語文に改良され、これが基になって標準語が出来た経緯と似ている。いや、白話運動とは日本語の口語文成立の過程に触発されたものなのである。

 繰り返し述べたように被支配民族は強制であれ自発的であれ、支配民族の言語を習得するものなのである。しかし土着の言語があるから、その言葉は土着言語の訛りがある。例えばフィリピンやパキスタンの英語はフイリピングリッシュとかパキスタングリッシュとか揶揄される。これはフィリピン訛りあるいはパキスタン訛りの英語、と言う意味である。我々が現在中国語と称している支那の標準語とは、支那訛りの満洲語を改良したものなのである。英語で北京官話の事をmandarinと書くのは満の音をなぞったものと私は想像している。

 康熙帝より後の北京で満洲語が使われていたことを証明する資料はない。しかし康熙帝時代まで北京を首都として百年近く経つ。このころまでに北京の宮廷では満洲化した漢人が当たり前になるほど、満洲文化は普及したのである。当然満洲化した漢人や宮廷に出入りする漢人によって、これらの満洲文化は周辺地域に広く普及していった。この事は言語ばかりではなく、支那服や京劇が満洲文化オリジナルであることからも証明されるように、満洲化の傾向は康熙帝以後強まる事はあっても弱まる事はないと考えるのが自然である。さらにその後の乾隆帝の時代にも、公文書が満洲語で書かれていた事は「琉球貢表」で証明した。満洲人が漢化したと主張する人に聞きたい。支那服や京劇をあたかも漢民族文化であるごとく主張する現代中国人の倒錯をいかに説明したらいいのか、と。

 東洋で英国やフランスの植民地だった地域は言語や文化まで宗主国に染まっていたのと同じことが支那大陸ででも起きていたのである。そう。支那は満洲人の植民地だったのである。孫文らが滅満興漢と叫んだのは、彼らの独立運動である、との意識の表れである。独立を果たしてもインドが公用語として英語を採用しなければならなかったのと同じ事情か中華民国や中共にも起きた。インドやパキスタンあるいはフィリピンではそれぞれ、ヒンズー語やウルドゥー語あるいはタガログ語がメジャーであるとはいえ、多言語国家国家である。そこでどの民族語に属さずに、既に習得もなされている外国語たる英語も共通言語としての公用語に採用されたのである。

 このアナロジーが支那大陸でも発生した。漢民族といっぱひとからげにいっても、広東語、上海語といった多言語の地域である。そこで共通語として採用されたのが首都北京周辺で一般化していた支那訛りの満洲語を採用したのである。同時に、孫文などの辛亥革命の指導者はそれこそ満洲文化にどっぷり浸かっていたのである。袁世凱にしても漢人とは言え、清朝の軍人であったから、宮廷に出入りしていたから満洲文化が当然身に付いていたのであろう。同じく支那大陸を支配していたモンゴル人との違いは何か。モンゴル人は帰る土地を持っていたのである。すなわち朱元璋が反乱を起こして、元朝を倒すとハーンはゴビ砂漠の北方に逃げ、そこに王朝を移動した。明朝成立以後でもモンゴルの皇帝のハーンは存在した。モンゴル王朝は支那の支配を止めて故地に帰ったのであって、消滅したわけではなかったのである。

 当然北京周辺には、モンゴル化した漢人はいたのであろう。しかし彼らは漢人の報復を恐れて家族ごとモンゴル人について行ったのである。モンゴル化した漢人のモンゴルへの帰属意識がいかに強かったかについては、明朝に投降を呼びかけられた南方の漢民族出身の元朝の軍人の多くが投降を拒否して処刑されたことからも分かる。彼らは南方にいたために皇帝ハーンと共にモンゴルについて行くことが出来なかったのであろう。一方清朝最後の皇帝の愛新覚羅溥儀は袁世凱に騙されて北京の紫禁城に残る道を選んだ。恐らくは故地の満洲の地がロシアに軍事占領されていたり、漢人が入植していたりして、もはや帰るべき土地ではなくなっていたからでもあろう。こうして満洲人は満洲化した漢人に混じって支那北部に土着していった。それがモンゴル語が内モンゴルという一部地域に限定される地方言語になったのとは逆に、標準語として採用されるようになったのは皮肉である。

 インドやパキスタンで英語が公用語であるとはいっても、英語が通用するのは首都などの大都市周辺だけである。実際には香港では広東語が話されているように、標準語による統一が成立するとは私は思わない。現に日本で発行されている中国の反体制新聞の「大紀元時報」(平成22年8月12日付け)は、広東語擁護を掲げ市民抗議デモ、という記事を書いている。ここには「広東語は、海外の華僑圏でも広く使われている言語であるとともに、最も古い中国語の要素が残っている方言として、北京語を基礎とした普通話(標準語)が代表する文化とは大きく異なる固有の文化を育んできた」という興味深い記事がある。さらに「彭氏は、普通話は満洲族の言語の影響なども受けた北方方言の一つであるのに対して、広東語は二千数百年前の春秋戦国時代からすでに存在しており、文化的基盤が深淵である上、広東語のほうが真の中原文化を伝える言語であると述べた」と書く。私はこの主張を「普通話は北方方言の影響を受けた満洲族の言語である」とひっくり返しているのである。

 大紀元時報の主張はあたかも、たかだか数百年の支配の歴史しかない満洲族の言語文化を拒否しているようではないか。そして滅満興漢の主張のようではないか。話を基に戻すと、支那大陸では二千年続いた北方民族の侵入の繰り返しにも拘わらず、言語の分化は強くなっているように思われるのである。そして北方民族の侵入と土着化による多言語化はむしろ満洲王朝は例外ではなく、多くの異民族王朝の崩壊に伴う一般的な現象なのである。つまり広東語や上海語などのいくつかの言語のうちの多くは、かつて倒れた王朝の民族の残滓である。つまり支那大陸の言語の分布はかなり民族分布を代表していると考えられる。その事はヨーロッパの現在とのアナロジーがある。つまりドイツ語を話すドイツとオーストリーはゲルマン民族であり、フランス人はラテン系の民族であると言ったように、言語と民族の分布には、全くイコールではないにしても相関関係がある。

 こう考えると支那大陸に侵入した北方民族の興亡としては、満洲人は標準的な過程を経過したのであって、モンゴル人が例外なのである。現在漢民族と呼ばれる人たちのほとんどは漢字文化を成立させたオリジナルの漢民族からいえば、侵入者たる異民族だったのである。その点で満洲族が漢民族の一部である、と言われるのも逆の意味では当り前であろう。私がオリジナルの漢民族と考えているのは客家と呼ばれる人たちである。しかし客家語は必ずしも広東語など他の言語のようのような明瞭な地域分布がない。あるいは客家と呼ばれて中国各地に分布している場合が多い。つまりオリジナルの漢民族は外来民族に蹂躙されて、大陸の各地に分散したのである。このことは、ユダヤ人と似ているともいえる。外来民族が定住の地を得たのに対して本来土着とも言える民族が定住の地を持てないというのは皮肉である。

 ちなみにモンゴル語だけが明瞭に非漢語であるとされるのは単純な理由である。前述のように、ともかくも北方に逃亡して支那大陸以外に民族国家を維持し続けたからである。だから内蒙古と書こうとも、支那にいるモンゴル人はモンゴル人であり漢民族ではない、とされるのである。別項でも述べたように支那大陸の歴史や言語はやはりヨーロッパとのアナロジーで考えるのが正しいのである。

 10年近く前にアップした小生のホームページの記述は、以上であるが、補足すると「康熙帝伝」(東洋文庫)は康熙帝時代に清朝宮廷にいたフランス人宣教師が書いたものである。そこには「韃靼語」は宣教師皆が簡単に習得したが、「漢語」はたった一人だけが苦労して習得した、と書かれている。「韃靼語」は原文に何と書かれているか不明だが、小生は満洲語と解すべきと思う。また「漢語」を漢文と理解すれば、西洋人に習得が極めて困難なのも理解できる。

 当時の清朝の宮廷では、話し言葉は満洲語だけであり、広東語や福建語といった現在「漢民族」と呼ばれる人々の話し言葉は全く使用されていなかった。書くだけの文章である漢文だけが「漢語」として使われていたのである。康熙帝らの支配民族は漢文を読みあげたと、フランス人宣教師言った。漢字の読みは同じ漢字でも「呉音」「唐音」等いくつかの全く異なる発音がある。しかし、康熙帝の読み上げた漢文の発音はどの発音かは書かれていない。同じ漢字でも時代や民族により発音がちがうなどということは、表音文字しか知らない西洋人には想像もつかなかったのである。

 確かに満洲人の支配者は「漢人」に比べ少ない。しかし、インド、パキスタン、フィリピンでも、宗主国の支配者はごく少なかった。しかし、被支配者の中でも地位の高い者は流暢な英語を話し、地方でも訛りはあるが英語を話す者は多い。あるインド映画を見たら高級軍人は英語だけを話すが、階級が下がると英語の割合が減っていって、末端の兵士に至っては、数字だけ英語だったのには驚きもし納得もした記憶がある。満洲人は少数でも支配者の満洲人の言語や文化を多くの被支配者が取り入れたことは不思議でも何でもない。

繰り返すが、西洋の宣教師にとっては、同じ漢字が時代や民族により読み方が違うなどと言うことは想像の埒外であったろう。アルファベットなら表音文字だから、英仏語間で、ジョージをジョルジュと読む程度の違いしかないが、文字により音が規定されているのは当然なのだ。康熙帝の読み上げた漢文はどの音だったか。宣教師たちには全く分からなかったのである。かの有名な李白杜甫の漢詩を、李白杜甫が読んだ音ではない、音で読んだとしたらひどいことになろう。しかし、日本人は漢詩を日本語読み下しを詩吟にしてけっこう悦に行っている。支那人が聞いたら滑稽なのかも知れないが、日本人には感動ものなのである。

 以上のような、北京語(普通話)とは満洲語がもとになっている、というのは「康熙帝伝」の記述と那覇で見た「琉球貢表」からひらめいた小生の仮説である。補足すると琉球貢表とは琉球王朝が乾隆帝に貢いだもののリストであり、清朝向けの公文書の言語として満洲文字が使われている。その文字は印刷したようにそろった美しい者だった。満洲文字とは、モンゴル文字によく似ていて漢字とは全く異なるものである。逆に琉球側の公用語である漢字が、下手くそな文字で書かれていた。

 この仮説と初めて同じ見解を述べた本を見つけた。正確にいえば小生が初めて出会ったのに過ぎないのかも知れない。

 その本は楊海英氏の「逆転の大中国史」である。この本の主たる主張は、支那大陸の歴史は、清や元などの例外的な異民族王朝の間に、連綿として宋や明といった漢民族王朝の歴史があった、というのは間違いで、宋や明といった「漢民族」王朝の時代にもイスラム系やモンゴルなどの諸民族の国家が並立していて、宋や明の時代ですら漢民族と呼ばれる人々による、広大な統一王朝はなかった、というのである。

 なるほど支那大陸が漢民族によって統一されていた時代は極めて短いという説は、最近珍しくはない。しかし、漢民族の統一王朝と言われた時代ですら、実はイスラム系やモンゴルなどの諸民族の国家が並立していて、漢民族王朝などはそのうちの一国に過ぎない、というのは初めて読んだ。考古学的、言語学的な証拠によれば、そもそも「漢民族」とよべるような人びとはいなかった、という壮大な説である。

 岡田英弘氏など東洋史の専門家によれば、漢字漢文を発明した「漢民族」は五胡十六国時代あたりに激減して、その文化やDNAを継ぐ者はほとんどいないと言う。オリジナル漢民族は絶滅したのである。それはローマ帝国とイタリア人の関係に似ている。単に同じところに住んでいるのに過ぎないのである。

しかし、支那の周辺から侵入した「非漢民族王朝」の随や唐王朝ですら、自らの支配を正当化する歴史の記述に、漢文による歴史の記述と言う共通した手法を用いたことにより、漢民族王朝神話は、継続した。小生の解釈であるが、ヨーロッパのように、いくつもの民族の国家が並立する中で、その中の一国に過ぎないのに、自国の歴史的正当性を主張するために、わざわざ漢文の歴史書を書いた。それが現在では、ある時代にはあたかもその一国しかなく宋や明のように、漢民族王朝が繰り返し再生したかのような偽史現在では「中国史」として流布している。「漢民族王朝」が分裂していたのは何も「南北朝」というような例外的な時期だけではなく、恒常的なものであったといえよう。

しかし小生が注目したのは楊氏の著書の言語である。次のように書かれている。

 「・・・いまの中国で使われている標準語は北京語をもとにしたものだが、北京語は英語でなんとよばれていたかというと、Mandarinである。このMandarinは、「満大人」から来ている。「満大人」とは「満洲の大人」「身分が高い人」のことをさす。つまり「旗人」だ。満洲旗人が話していた言葉が、いまの中国語「標準語」となったのだ。P267」と明快に言う。

 小生はかつてMandarinをManの音から満洲を意味すると想像したが、ほぼ当たっていたのだ。「中国の標準語(普通話)は満洲語が基だという小生の仮説と同じである。だが、その後奇妙な記述が続く。

 「いま現在、マンジュ語を話せる人、読める人は少なくなっている。中国(漢族)への同化がすすんだからだ。しかし新疆でくらす、中国がシボ族と称する数万の人びとは実は満洲人である。かれらは故宮博物院に眠る膨大な量のマンジュ語で書かれた文書の整理をおこなっている。・・・『チャイナドレス』のことを中国では『旗袍』(チーパオ)という。『旗人のドレス』という意味だ。チャイナドレスは漢人の民族衣装ではなく、満洲の女性が着ていたドレスなのである。深く入るスリットは、馬に乗るためのものなのだ。日本人が「中国」「漢族」のものと思っているさまざまなものが、じつはそうではないということを知ってほしい。」

 チャイナドレスが満洲人の民族衣装であることなどは既に書いたしかし、マンジュ語云々というのは一見前記の記述と矛盾する。満洲語が普通の基となっている、と一方で言うのに、わだわざ「マンジュ語」と言っているのだ。この矛盾を解きたい。

 中国の標準語(普通話)は北京語すなわち満洲語がもとになっているのなら、マンジュ語は普通話として普及しているのではないか、と考えるのは確かにあまりに単純である。小生が前述したように、満洲語は北京官話として宮廷で話され、従って北京市内でも普及していった。それどころか北京周辺に拡大普及していった。しかし、その後北京語を漢字表記する白話運動が起ると、満洲語は変わっていった。

 ちょうど日本語が明治期の、言文一致体の標記の普及によって、英語などのヨーロッパ言語の影響も含めて変化していったのと似ている。元々満洲語の文字表記はなく、モンゴル文字を真似て満洲文字が作られた。従って、満洲文字は漢字と異なり表音文字だから、言語と文字表記にはそれほどの乖離は生じなかったであろうが、一方で満洲語を漢字表記したことで、満洲語は変化はしたのに違いない。

 さらに北京官話は宮廷言語だから、必ずしも庶民の言語と完全に一致するものではあるまい。方言程度の差異がもともとあったのに違いない。ある言語学書で、支那の四書五経などの古典の全ては、清朝によって漢文の解釈も加えて、満洲語すなわち満洲文字に翻訳された、という。漢文は解釈が難しいどころか、漢文自体が文字表記法としては原始的過ぎ、一義的に解釈するのは不可能に近いから、直訳では理解できないのである。

それどころか、直訳では文章にはならない。なぜなら漢文には文法もなく、品詞もないからである。漢文は前述のように西洋人には読解不能に近いから、現代の西洋人の四書五経などの支那の古典の研究者は漢文を習うのではなく、満洲語すなわち満洲文字を習得して、研究するのだということが「世界の言語」という本に書いてあった。この本にはイデオロギー的傾向はなく、事実を淡々と述べているのに過ぎないから信頼できる。

 まさに楊氏の言う「かれらは故宮博物院に眠る膨大な量のマンジュ語で書かれた文書の整理をおこなっている。」というのはこのことと同じなのである。つまり今シボ族と呼ばれる満洲人は北京官話すなわち満洲文字に翻訳された、故宮の支那の漢文の古典を読めるのである。しかしやはり漢字表記された普通話と、満洲文字をそのまま使っている満洲語との差異はあるのではあろう。それにしてもルーツは同じ満洲語であるのに違いない。

 楊氏ですら満洲人が漢化した、と書く。しかし、満洲語ルーツの普通話を全国で使おうとし、チャイナドレスを中国民族衣装と言い張るのは、逆に「漢民族」が満洲化しようとしているとは言えまいか。ただ、文字表記が漢字であることが違う。現に広東語などの普通話以外を話す地域では、広東語などの保護運動が起きている。

しかし普通話が漢字もどきの簡体字を使っているのは、既に漢字から離れつつあるのに違いない。既に清朝は古典の漢文の満洲文字化という事業を行い、中共に至っては、漢文と言う「漢民族王朝」の伝統である、表記方法を放棄し、漢字を表意性の少ない、簡体字のような記号に置き換えてしまった

元々漢字を発明した民族は大昔に滅亡していたばかりではない。中共は漢字漢文を使って漢民族を自称する王朝の後継者の資格すらなくしてしまったのである。かつての支那の正統を主張する王朝は、漢文による「歴史」をねつ造して、現王朝の正当性を主張することを繰り返した。しかし、中共はそれすら放棄し、自らの正当性を共産主義や抗日運動による建国に求めている。さらに支那の王朝は独自の元号持つ。しかし、中共は支那の歴史的に初めて、キリスト教オリジナルの西暦を採用する、という歴史的転換をしている。

このように、中共にはかつての「漢民族王朝」との絶対的な断絶がある。だから言う。満洲文字を持った清朝に支那大陸と周辺国家が帝国支配され始めた時が、漢民族王朝と言う擬態が亡くなる始まりだったのである。

宮脇淳子氏は「日本人が教えたい新しい世界史」で中国4000年の歴史などと言うものはなく、始皇帝に始まる「シナ二二〇〇年なのです。(P113)」と書かれるが、小生の説では、清朝崩壊から始まる中国1〇〇年の歴史しかない。清朝の崩壊は皇帝がいなくなったばかりではない。漢文で書かれた「正史」で正統化された「擬制」による漢民族王朝は消滅した。宮脇氏の言うように、それ以前には中国と言う国はなく、中国とは中華民国から始まった(P98)のである。

 


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