毎日のできごとの反省

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お札を刷ればデフレ終了?

2017-05-23 15:40:01 | 政治経済

 経済に詳しい者は、デフレを脱却するには、日本銀行がお札を刷って増やせばよい、という(*のP233)。「デフレとは、モノはしっかり生産して増えているのに供給されるお札の量が足りない状態のことです。」確かに品物の量が一定で、お札が増えれば、単純計算上は単価が上がる、物価が上がるからデフレは脱却できる、という理屈である。

 素人目には、こんなに単純にいくのだろうかだろうか、とむしろ不思議に思える。日銀がたくさんお札を印刷したとして、それはどこに行くのだろうか。印刷された札は日銀の倉庫に積まれる。積まれたお札が、市中にどうやって出ていくのか。その説明を寡聞にして聞かない、から教えて欲しいのである。

 日銀は、会社と直接取引をするわけではないから、日銀の倉庫に山と積まれたお札が市中に出ていくには、普通の銀行家を経由しなければならないのだろう。まず、日銀から一般の銀行に、どうやって渡すのか。ただ渡すわけではあるまい。

また一般の銀行から会社にどうやって会社にお金を渡すのか。たくさん日銀から受け取ったお札を、どういう理由で会社に渡すのか。まさかお札をただでごっそりくれてやる訳ではあるまい

方法論を説明してくれないから、永遠に素人には分からないのである。同書でお札増刷の後に延々と続くのは、日銀総裁の地位は不可侵だから、第二次安倍内閣以前の、政府に反対する日銀の抵抗の強さを延々と書いているだけであり、上記の疑問の説明はない。

 同書で、もう一つ小生には理解できない記述がある。「平成初頭にバブルが崩壊して以降、日本は一度も好況になったことがありませんから(P232)」云々である。森永卓郎氏が、2006年11月付けのブログで「国民が『いざなぎ超え』景気を実感できない理由」という文章を書いている。それによれば、2002年2月に始まった景気拡大が57カ月続き、戦後最長の「いざなぎ景気」を超えた、と書いている。

 いざなぎ景気とは、「好況」のことである。好況と比較するのだから戦後最長続いた、というのは「好況」のことだろう。森永氏はバブル以降、いざなぎ景気を超える長期の好況があったと書いているとしか考えられないのである。ところが、不思議なことに「好況」とは決して言わず「景気拡大」と言っているのである。

 当時の新聞記事の記憶があるが、確かに「いざなぎ景気を超える戦後最長の景気回復」という活字が躍っていて、森永氏同様「好況」「好景気」とは絶対に書かないのである。つまりバブル崩壊以後、経済の専門家は「好景気」「好況」という言葉を忘れたカナリアになってしまった。

 小生は1999年の末頃、内部配布の広報誌にエッセーを書かされた。経済の専門家ではないのに、「不景気不景気と言うが、平均株価が20,000円を超えたのだから、好景気に向かっている兆候ではないか」という主旨のことを書いた。バブル崩壊が株価や地価の暴落から始まったのだから、株価がある程度回復したのは好況になりつつあるはずだ、と単純に考えたのである。森永氏が書いているのは2002年の初めから「好況」が始まったということだから、小生の素人エッセーは、見当違いではなかったのである。

 ところで森永氏のブログの主意はタイトルの通り、なぜいざなぎ景気越えが起きているのに、国民の9割は実感できていないのだ、ということである。森永説によれば、ひとつは配分の不公平にある。好況がきて金が余っても、それは普通のサラリーマンには行かず、企業、それも大企業にいくから、中小企業も潤わない、というのだ。

 もうひとつは税制の不公平の拡大だという。発泡酒等の課税や配偶者特別控除の廃止など、庶民には厳しく、法人税減税など企業に有利な税制改革が進められているというのだ。森永氏はこれらの不公平の拡大で、せっかくの好況も庶民を潤していないと、批判しているのである。

 それならば、森永氏は一部の特権層だけが、不当に好況の利益を得ていると批判しているのだ。平成28年から29年にかけて、森永氏はテレビ広告に出ている。前の年は、肥満して、お腹が垂れ下がっている。翌年の広告では、ダイエットに成功してお腹も普通になり、締った体を誇示している。

 最初の肥満体は、明らかに飽食の結果で、貧しい生活どころか、贅沢三昧の食生活をしていたのである。それは貧乏人ではなく、お金持ちの生活である。それをわざわざダイエット会社のプログラムによって改善したのである。世界の発展途上国では、苦労してダイエットしなくても食料飢餓で痩せ細る

明かに、森永氏は好不況にかかわらず、飽食をできたのである。森永氏自身の言う特権層に属しているのである。森永氏は好況の時の不公平な世の中でも、有利な方を享受していたのである。森永氏が高収入を得ているのは、もちろんたゆまぬ努力の結果であり、非難すべきことはない。

ところが、森永氏は自身の努力と同時に、自身が批判している不公平の結果を十分に享受している。森永氏の映像を放映しているのも、出演料を支払っているのも大企業であろう。森永氏のブログの主張が正しいとすれば、その批判は氏自身にもブーメランのように戻って来ている。

もうひとつ倉山氏の同著で、疑問に思うことがある。「皇室典範がこのままだと皇族がひとりもいなくなるという危険性(P273)」があるというのである。これは皇室典範が女性宮家を認めていないことを言っていると推察される。女性宮家ができても、その子孫は女系である。すると、倉山氏は本書では明言していないが、女系天皇を認めよ、という主張なのだろうか。

ところが、平成29年の5月に、誰か覚えていないが、女性宮家でも旧皇族の男系男子を婿に迎えれば、男系男子は絶えない、と書いていた。なるほどという解決策である。もしかすると、倉山氏も、これと同じ解決策が念頭にあるのかも知れない。しかし、倉山氏と同じく、戦後皇籍を離れた旧宮家を復活する、という方法に言及しないのは小生には不可解である。

なるほど一度臣籍降下したものは、2度と皇族には戻れない、というが原則であるというのは承知している。しかし、戦後の臣籍降下は、GHQが皇室が将来維持できなくなるようになる、という深謀遠慮によって悪辣な脅迫同然に行われたものである。国際法違反、という以前に、日本人が許すべきものではない。

不思議なことに、保守系の論者でも、皇籍の復活について反対する者が多いように思われる。さきほどの論者でも、旧皇族の男系男子を婿に迎える、というのは実質的には皇籍の復活と同じである。なぜストレートに、GHQにより臣籍降下させられた旧宮家の復活を主張しないのだろうか。

 ところで、倉山氏の本に関しては、本論と関係ないところを取り上げたので、書評とはしない。しかし、いつもながら「憲法」全体と、成文化された「憲法典」を区別しての、憲法改正論議は読むべきものがある。

 

*日本国憲法を改正できない8つの理由・倉山満・PHP文庫

 

 


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