ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

不自由をして喜び 人に笑われて喜び 損をして喜ぶ道を求めているのだろうか

2016-06-19 09:00:24 | 健康づくり

私は、母の父が天理教の信者で、その影響で母やその姉も天理教の信者でした。 私が未だ何も分からない中で、夏休みになると母の姉がいる明石のお米屋さんで過ごしましたが、小学校高学年になったときに、天理教本部へ行って、1週間同じ話を聴いて過ごしました。 所謂お席を運ぶと云うことを行ったのです。

 

そんな経験を持ちながらも、私自身は天理教の信者であるという自覚はありませんでした。 どちらかと云うと、無心教に近かったと思います。

 

それが、ある年齢に達し、大学の級友の呼びかけで静功―座禅を、長く吐く呼吸を伴いながら行っている内に、宇宙とか光とかをイメージする過程で、創造主の存在を感じるようになりました。

 

更に芹沢光冶良が90歳を過ぎて書き下ろした「神の微笑み」シリーズを読むうちに、益々、創造主の存在を強く感じるようになりました。

 

母が天に還ってからは、天理教の舞子教会から月に一度お便りも届き、文章にも目を通しております。 基本的には教祖の中山みきさんは、陽気ぐらしを提唱しております。

 

私は、ただ座っている座禅が楽しいのですから、何事も楽しいと云う感覚にはなっていて、陽気ぐらしの考え方は、何となく自分に合っているなあと思っておりました。

 

そんな折に、舞子からのお便りのなかで、表題のことが書いてありました。 

不自由をして喜び(私自身は現在、坐骨がらみの痛みがあり、歩くのがとても大変なのです)、人に笑われて喜び(積極的に皆に笑ってもらえるように何時も努力しています)、損をして喜ぶ(公平を期して時により損を敢えて行うこともありますが)道を求めているかと問われれば、積極的ではないが、現状はそのような状況であるように感じます。

 

何よりも、何事にも楽しむ感覚が大切であると思っております。