「8月15日によせて」 前半  1981年9月

2019-02-15 09:26:03 | 1981年度 「筑波通信」

PDF「筑波通信 №6」1981年9月 A4版12頁 

   「8月15日」によせて‥‥‥「お国のため」は「公共のため」?  1981年度「筑波通信 №6」 

 いまから36年前の8月15日、私は小学校の3年生であった。正確に言えば「国民学校」3年生である(私の入学の年だったかに改名されたのだ。卒業のときは、再び小学校の名称になっていた)。

 そのとき私は、山梨県の竜王という町にいた。もともとは東京の(その当時の)西のはずれに住んでいたのだが、その町へ、いわゆる「疎開」をしていたのである。

 なぜ「避難」というような言葉でなく「疎開」を使ったのか、興味深い。

 普通「学童疎開」あるいは「集団疎開」の名称が有名であるが、「疎開」という言葉のもともとの意味を知るには「強制疎開」という言葉があったということを思いだすだけでよかろう。空襲などの被害を軽減するため、住人を追いだして家々を強制的にとり壊し空地をつくるのである。もうもうと土煙りが上り建物がこわされてゆく光景を審りながら見ていたのを不思議と覚えている。後になって考えてみると、そこは軍需工場のそばだったのだ。何の被害を軽減しようとしたか、言うまでもあるまい。「学童疎開」もまた、先きゆきの兵員確保のためであったことは、敵の攻撃による兵の損傷の軽減のため隊と隊の間をあけることを「疎開」というらしいから、自ずと明らかだろう。つまり、あたりまえと言ってしまえばそれまでだが、あくまでも学童のためでなく、「国」のため、軍事のため、軍事の都合上の方策を示す軍事用語であったわけだ。こういったもとの意味が忘れられ、ただ「そかい」という「ことば」になってしまうのは、たとえ言葉は風化すのが常だとしても、この場合のそれは、非常に怖いことだと思う。

  その疎開していた竜王という町は、甲府盆地北辺の西のはずれ、新宿を出た中央線が甲府盆地を離れ再び信州へと向い登りだす、丁度そのふもと、富士川上流の釜無川(かまなしがわ)の左岸にある小さな町である。まわりに田んぼがひろがり、北あがりの丘には桑畑、麦畑、そしてところどころにすももの畑があったように思う。そこを横切って蒸気機関車がほえるような汽笛の音をこだまさせて列車をひっぱってゆく光景は、絵になったし、そして夜などはなんとなくもの寂しい気分になったものであった。盆地のへりに位置しているからだろう、冬は雪はめったに降らなかったけれど冷えこみは厳しく、そして夏はかなりの暑さになった。(地図参照)

 その8月15日は、かんかん照りであった。地面は乾ききって、歩くとほかほかと白茶けた土煙りがたつほどであった。私は外にいた。何をしていたのか、それは記憶にない。乾いた土の色だけが昨日のことのように目に浮ぶ。昨年の夏トンコウの街なかを歩いていたとき、ほんとに珍らしいことなのだそうだが、雨がぱらぱらと数滴落ち黄土色の地面にありぢごくの巣のような跡だけ残して消えていった、それを見ていて、どういうわけかふとこの日のことを思いだした。そういえばあの時、空は見事に晴れていた。トンコウの乾ききった空の色や、あたりの土っぽい景色、おそらくそういった光景全体の感じが、日ごろ忘れていた幼き日の一瞬の情景の記憶をゆり起こしたのだと思う。やはりそれなりに、印象として強く残っているのだ。

  そんな日の昼下り、戦争は終った。しかし未だ私には、何の感懐もわかなかったように思う。私の1・2年生のときというのは、後にも書くようにただあわただしいだけで、「お国のため」の戦争が何であるかなどという以前の毎日であったように思う。その後3年の2学期まで竜王で過ごしたのだと思うが、学校で何を数わったのか、まるっきり覚えていない。単に忘れたのかごたごたしていて何もなかったのか、それさえもおぼつかない。

  実際、私の小学校生活前半の思い出というのは、ただもうあわただしいの一語に尽きる。1・2年生のころ(東京にいたわけだが)といえば、登校するとすぐ警戒警報そして追いかけるように空襲警報、サイレンにせかれるようにして、防空頭巾を被って必死になって逃げ帰った。そんなことしか浮かんでこない。みじめなものだ。だから唯一楽しい思い出というのは、疎開先の竜王の野山や小川で遊んだことぐらいである。

 3年の3学期、再びもとの東京の学校へもどった。いまから考えてみれば、教育はめちゃくちゃであった。教科の不当な箇所に墨をぬった。おそらく私たちが教科書に墨をぬった最後の世代ではなかろうか。次の代からは新しい教科書に全部変ったのだと思う。それ以後もずっと、私たちは常に、各種の新しい制度が定着する寸前の不安定の時期を通過してゆく破目になる。旧を新に改めるに伴う混乱の状況を、幸か不幸か味わうのだ。3年から4年にかけて、授業はしょっちゅう休みで、自習と称して、教室のなかでただわさわさするだけの、随分とすさんだ毎日であったような気がする。これまた、みじめである。

 そんななかで、5年と6年の担任となったN先生のことは忘れ難い。もしこの先生に巡り会わなかったら、私の小学校時代は、みじめなまま終ってしまったに違いない。そのときN先生は確か23・4歳、特攻の生き残りだときいた覚えがある。

 この先生が、私(たち)に、ほんとうの「民主主義」を教えてくれたのだと、いまでも私は思っている。色々な個牲や特能をもった私たちそれぞれが、それぞれなりにそれを発揮し、ときにはけんかや口論をしながら、それでもクラス全体の合意のもとで生活をしてゆく、そんななかで、ものごとの判断だとか、人への思いやりだとかを、観念的、標語的でなく、身をもって体得していったような気がする(それがいま、花咲き実をつけたかとなると、多少後ろめたい気もするが)。例えばこういうことがあった。当時お互いにみな貧しかった。6年の修学旅行は箱根行と決って、費用の積立てをはじめた。しかし、散人ほど、それも無理だから参加しないというものがでてきた。そうこうするうち、誰いうとなく、全員で行けるようにするため費用かせぎの内職(いま風に言えばアルバイト)をしようということになり、放課後、行くのを渋った人も舎め(もちろん先生も)、クラス全員でそれをやってのけ(百円ライターより少し大き目の停電用石油ランプづくりだったと思う)全員無事旅行に行ったのであった。私たちには、行けない人のためにやっているという気はなかったように思う。だから、行けないと言った人の名を覚えていない。覚えているのは、とにかく全員参加できたということだけ。幸せな時代であった。よき時代であった。数年前、30年ぶりかにクラスの三分の一ほどが集ったとき、なかの一人が言いだすまで、ほとんどみんなこのことをすっかり忘れていて、そういえば、という話になったものである。いまの学校では、色々な意味で、全くあり得ないことだらけであった。そしてみな一様に、自分たちの子どもの通っている「いまの学校」を、大けさにいえば嘆き悲しんだ。その日私たちは昔のように合唱をして別れたのであった(昔、音楽の時間、晴れていれば決まって外に出て、その辺の田んぼや小高い丘に日かげや日だまりを求めて・・・・その当時、東京にも田も林も丘もあったのだ・・・・思いきり歌うのを常とした。この私さえも。)

  時代の混乱していたときのこの2年間、これは、いま考えてみると、子どもの心に決定的な影響を与えたように思えてならない。観念的でなく身をもって、人が生きてゆく、集団で生きてゆく、そのゆきかたの基礎を、この先生は私たちに数えてくれたのだ。おそらくそれは、先生の戦時中の体験がそうさせたのだと、いま私は思っている。教師は子どもと触れあえる現場こそが大事だから、といって管理職試験の受験をすすめられるのを断っているのだと、その久かたぶりに会ったとき語っていた。

 それから30余年、旧から新への混乱のなかで大人になった私たちが自ら身につけたものから見れば、明らかに「民主主義」は風化してしまったように見える。いや、私たちに言わせれば、新しい制度が定着しだす私たちの数年後からして既に風化は始まっているように見える。いま「私たち」と書いたのは、そういう混乱の時期に少年時代を過ごした世代の「私たち」だ。そう思うのは、私たちの思いあがりか、それとも私たちがもう旧くなったせいなのだろうか。

 私は、そして私たちは、そうは思わない。私たちには、できあがった形式に流されるとか、もっともらしい言説をそのままうのみにするとか、そうすれば気楽でよいと思うのに、どうしてもそうはできないという悪い癖がある。そういう時代に育ってしまったせいか、結果は結果として、むしろ過程を大事にし、またなにごとによらず、自ら納得するまで確かめないではいられないという習性がついてしまっている。決してそれは人の言うことを信用しないというのではない。むしろ人の意見はよくきく方である。ただ、その過程・途中をも納得できない限り(これがあたりまえだと思うのだが)いかに偉い人の言であろうが納得しないだけである。そしてまた、私(たち)は、個人を大事にする。集団で行動するときでも、個人をないがしろにした集団の論理は信じない。あくまでも個々人の了解があって集団が成りたつ、こう考えるがある。形式的あるいは手続きのためにだけの民主主義?は好きではない(先号に書いたしたたな人たちも大体そうだ)。

      

 数年前、30数年ぶりに、竜王の町へ行ってみた。先に掲げた地図は最近の二万五千分の一地形図である。この地図の左上から右下へ斜めに走っている通称甲府バイパスは比較的よく通るのだが、ついぞ町へは寄らなかったのである。実は、この地形図はこの文を書くにあたって初めて見るのである。そのときも全く地図なしで、昔の記憶に頼ればよいと思い、竜王市街を指示する標識に従ってバイパスを下りたのである。しかし下りた辺は全く見慣れない風景である。止むを得ず、川にぶつかるはずだと思い西へ向う。そして、あっという間に信玄橋へ出てしまった。私の昔いたところはその手前だ。こんどはゆっくりともどった。そして、やっとなんとなく見覚えのある街かどに出る。郵便局もあった。だんだん見覚えあるものが増えてくる。というより、私の頭のなかから、目の前に移り変る光景とともに「昔」が発掘されるという感じである。街すじの家々も、私のいたころから大分たっているから改築されたりして変っているにちがいない。なんとなく見覚えがあるというのは、だから個々のものの覚えでなく、いわばその「雰囲気」なのではあるまいか。次いで私は、昔よく遊んだ田や丘の面影を探したが、どこだか分らず、やっぱり道を忘れてしまったのだと思い、あきらめて町を出た。

 町は思いのほか小さかった。いくら車で走ったからといって、あっという間に通り過ぎてしまう。それほど小さい。私の記憶ではかなりのものだった。しかし考えてみれば、あたりまえなのかも知れない。子どもの世界は、小さくても広いのだ

 またあらためて気づいたのだが、まわりに見える山が意外に大きい。それはそうで西に見えるのは南アルプスの山塊だし、北にあるの茅ヶ岳である。しかし当時、確かに山はあったけれども、はるか向うにあったような気がする。もちろんそういう山の名はあとになって知ったのだ。八ヶ岳の名は、それはそこからは見えず、甲州往還をもう少し信州よりへ進んでから見えはじめるのだが、それにも拘らず、八ヶ岳おろしの名でそれを知っていた。冬、峡谷沿いに寒風が吹き下りてくるのだ。

 その当時の私のものの知りかたは、全く先号で書いた番頭のそれに似ていた。私がよく知っていたのは、桑畑のひろがり(その名を思い出せないのだが、桑の実を食べにゆくのだ。うまかった。中央線の向う側には人がめったに行かないからたくさんあるとか、色々詳しかった)、用水沿いの足場の悪い学校への近道、竜王の駅へ行く微妙な近道、駅うらに野積みされている防弾ガラスの山(こするといいにおいがする子どもの宝物)、街すじをはるか南に歩いて行くと林の中に飛行機が隠してあること、そして一見道に見えるが紛れもなく隠し滑走路らしいものがあること(あまり広い道なので驚いた)、などなど専ら遊びがらみのことどもだ。いま考えてみれば、私のなかに、一枚の地図ができあがっていたのである。

 けれども、その地図には、信玄橋の向う岸だとか、街すじを北に上った線路を越えた上の方だとかは描かれてない。橋の向うなど、確かに行ったことはあるのだが、いつも橋の途中から気持が後へ向いてしまって、渡りきるとまた早々に逃げるが如く引返したものだ。それほど長く、どこかとんでもないところに行ってしまうような気がしたのだろう。北のはずれもそうだった。だから私の地図にはのってこない。

 いまこの機会に、あらためて本物の地図をながめてみて、意外と私の地図をそれにあてがうことができて楽しかった。そしてあれはこういうことだったのか、などという発見もあった。いま私たちは、なにかというとすぐ本物の地図を見ることから始めてしまうけれど、ほんとにそれでよいのだろうかと、ふと思いたくなる。本物を見てもよい。要は、その見かた、なにを見るかである。「私(たち)の地図」を本物にあてがうことは、30年も昔の、しかも子どものころのものでさえできるのだから、それは多分易しいことだ。しかし、本物の地図の上に「私(たち)の地図」を見ること、それができるか。けれどもそれをこそ見なければならぬのではなかろうか。その気がないと、その本物の地図に記されていること、道一本にしてさえ、そのほんとの意味が分らないのではないかと思う。本物の地図に記されていることは、いかにも現状の地表の表情:地形図ではある。しかしその大半は人々のやってきたこと:人間の営為の記録に他ならない。そしてその記録の大半以上がまだ本物の地図のなかった時代:あるとすれば「私の地図」しかない時代:のそれだということに気づいてよいと思う、いや気づくべきだ。つまり、地図に記されていることの大半は、本物の地図のなかった時代に生きた人々の、もろにその生きてゆかねばならなかった大地と格闘したそのあとなのだ。後に続く人々はみな、そのいわば上ずみをすくいとって生きてきた。そしてそのことを、ちゃんとわきまえていた。近代になって、それを全くわきまえなくなってしまったのである。いま、本物の地図の上にそれらを見る気のある人たちが(特に町づくりや建物づくりに係わりを持つ人々のなかに)どれだけいてくれるだろうか、考えると悲しくなる。

 先に私は、昔よく遊んだ田や丘の面影を探したが分らなかったと書いたけれど、分らなくて当然であった。本物の地図を見て判ったのだが、どうやら私の探し求めていた当の田や丘の辺を例のバイパスが通っているらしい。我が懐しの遊び場はドライブインやガソリンスタンドに占められ、その上を私白身しょっちゅう通過していたというわけなのだ。

 懐しの町は、だから、万里の長城のようなバイパスと大河のような車の流れによって、ものの見事に南北に分断されている。いまや一つの町ではない。向う岸である。いったい、こういう道路というのはどう考えたらよいのだろうか。

 先の私の竜王での幼き日の思い出をよく見なおしてみると、意外に「道すがら」の記憶だとか、道にからんだ話が多い。しかし、よく考えてみればあたりまえ、道というのは、私たちの子どものころ、そういう場所だったのだ。

 町のなかの道は、単に家々をつなぐ交通のため以上に、人々の交流の揚所だったし、実際道のつくりも家々の表情も、それに相応しいものだった。町と町をつなぐ道だって、私たちが必要あって歩くところだった。通学の途中いつも、我がもの顔に所狭しとばかりねり歩いたものだった。筑波には、いまでも少し奥に入ると、そういう昔ながらのところがあるし、時おり赴く山村などで、道ばたを清流が流れ、おかみさんが洗いものをし、わきで子どもが遊んでいたりするのをみて、そういえば竜王の家の前にも、もうほとんど使ってなかったように思うが、きれいな水が流れていたなどと思いだしながら、悲しいのは習性で、いつの間にか私は道の端を歩いている。車なんて通りもしないのに。

 いま私たちの大半は、こういう道のあったこと、道というのがこういうものであったことを、すっかり忘れてしまった。そして、道とは単に交通の場所だと思って別段不思議に思わない。そういう昔的な道というとすぐに、歩行者専用道路の発想になっでしまう。そこにあるのは、人が安全に通行できる、という視点のみだ。このごろは気分よく快適に人が歩けるためにと称してそれがデザインであると称して、わざと気分を変えるために(と思いこんで)色々と曲りくねらしてみたり、石を置いたり、舗装の色を変えてみたり、そういうことが流行している。残念ながら、それは、そうすることが、道の本質を考えたことなのでは決してない。むしろ、昔の道の方が、たとえ砂利道であろうが、数等秀れていたように私は思う。生活が快適だということは、単に視覚的に楽しいなどということではない。こんなことは、ことあらためていうまでもなくあたりまえだ。しかるに、人の住む場所という場所を、指折り数えあげて機能に分解した結果、道もまたこういうふざけた理解!になってしまったのだ。

 昔の町なかの道は町を一つにまとめる役割をはたしていた。よくいう向う三軒両隣り、それは道を介してのはなしであるし、なんとか小路という類の地番表示も、その道を介してのはなしであった。道によるまとまりがあったのだ。いま、町なかの道は町を分けるものになった。向うは向う岸、あるのは両隣りだけ。それは、いまの住居表示のつけかたに端的に示されている。

 もちろん、こうなった最大の原因の一つは、(道の本質が分らなくなったことに加えて)車の増加である。昔からの甲州街道は、甲府の目扱きを通っていた。というのは正しくない。甲州街道の通っていたところが目抜きになったのだ。街道という街道みなどこでもそうだった。それは必らず町々を通過してゆき、その町に用のない人々も必らずその町を通らねばならなかったし、また別にそれを不都合だとも思わなかった。むしろそのことに、町の人も通りすがりの人も、ともにある種の意義や楽しみを認めていたのではなかろうか。街道もまた、とにかく町と一体のものとしてあったのだ。

 こういう道に車が入ってきたときに、しかも大量に入ってきたときに話が一変する。

 車の流れ、その渋滞。町は道により細かくこまぎれに分断される。そして車の側からみれば、別に用のない町なかで、かといって気晴らしに車を離れてぶらぶらするわけにもゆかず、またそうするには駐車場所を探さねばならず、止むを得ず車にこもっていらいらしながら渋滞に耐えるしかない。その意味で、それは全く無用な「途中」である。自動車という乗物は、だから、出発点と目的(到着)点とにだけ係わる乗物だといってよいかもしれない。よその土地を通過するというより、(たまたまよその土地を通過している)道路の上を通過するにすぎない。(これに対して、先にも書いたが、歩いての移動はもとより、鉄道やバスによる移動は、本人の意志に拘らず、必らず他人との係わりをもつ。よその土地を通過するだけでなく、よその人とも触れあわざるを得ない。そういう「途中」をもたなければ、先に進まない。)

 そういうわけで、町のなかから町にとって不要な車を追いだすこと、車にとって無用なところで滞らないこと、これを一石二鳥的に解決しようとする策:バイパスという発想が生まれてくる。道路は交通の揚所だと考えるときの当然の発想だといってよいだろう。

 バイパスはその目的から、市街地(家のたてこんだ所)を離れた場所に建設されるのが常だ。甲府バイパスの場合、先に掲げた地図の元図を拡げてもらえば一目で分るけれど、東の端から西の端まで、甲府市街地を南回りで大きく迂回している。おそらく、バイパスの当初の目的はいまのところ達しているものと思う。実際、車の立場でいえば、片道二車線になったいま、通り過ぎるにはまことに快適で、逆に甲府市内に行くにはどうしたらよいか迷うくらいである。気をつけていないと通り過ぎる。

 これで一応、問題は解決されたようにみえる。しかしよく考えてみると、それは甲府市内の問題を解決したにすぎないのではなかろうか。なぜなら、このバイパスはとりたてて竜王にとって必要ではない。もともと大きな街道が通っているわけでもないから、車の量もさほど多くなく、別に問題があったわけでもない。そこへ、いわば突如として、万里の長城のような道路と車の大河が出現したのである。町はほぼ完全に二分されたのである。なんのことはない、市街地で不要と考えられたものが、もともと車とは縁の薄かった隣りの小さな町や村に肩替りされたのだ。けれどもそれが、迷惑の肩替わりなのであるとか、町や村を二分するものなのだ、というようなことは、それほど深く考えられたことはないだろう。そういうバイパスは、人家のない田畑・山林などをねらってつくられる。町うちを通過しているわけではない。むしろ空地を通っている、そういう意識の方が強いだろう。

 これは、都会的な感覚からいえば、むしろ当然かもしれない。代替地を用意、あるいは地価(市街地より安い。買う側にとって好都合だ)に応じて買収する、つまり代価を払えばよいと考える。これも考えてみれば都会的感覚だ。けれども、ちょっと考えてみれば直ちに分ることなのだが、田畑や山林は単なる空地ではない。それに依存して暮している町や村に住む人たちにとって、それは自分たちの住んでいる町うちと一体のものとしてあるし、またそういう土地が、何もしないで産物を生みだすわけでもない。土地の二分は生活の分断に等しく、買収はそういう生活をやめろということに等しいし、代替地は初めからやりなおせということに等しい。田畑は決してその初めからから田畑であったわけでない、という単純な事実さえもが忘れられているのである。そこに依拠した生活があるということが忘れられている。そこにあるのは、「土地」ではなく単なる「地面」の視点のみだ。

  こういう計画を考えるとき、せめて、都会的生活形態を唯一絶対とするのではなくそれぞれの村や町にはそれぞれなりの固有の生活の形がある、そのそれぞれの村や町の生活の構造を具体的に、彼等の立場にたつべく、謙虚に知ることから始められないものだろうか。(ほんとは都会のなかでも同じなのだ。村や町に都会的生活がぶつかるときに、問題が顕在化してあらわれてくるにすぎない。)

 それが、先に書いた、本物の地図に「私の地図」を見る、ということなのだ。

 先日のこと、東京・中野の人たちに呼ばれて、区の児童館計画について意見を求められた。見ると、ある空地があり、そこが建設予定地となって、その他の既存の児童館をプロットした地図に、館を中心に半径500メートルの円が書かれている。利用圏なのだそうである。私は、弱ったな、と思った。これは施設の利用圏域なるものをテーマに研究する人たちの常とう手段の応用なのだ。非常に巨視的に見るならば、つまりこれこれの人口の町に、館をいくつぐらい必要とするか、そういったあたりをつけるには、まあよいかもしれない。けれどもこれをいきなり、現実の生活レベルにまで応用されたのではたまったものではない。むしろ、ふざけるんじゃないよ、とさえ言いたくなる。敷地のまわりには当然道が通じているだろう。そしてそれは決して均質ではなく、広い、狭い、人通りが多い、少ない、通学路かどうか、まわりになにがあるか‥‥それぞれ性格があるだろう。子どもたちはそういう道を通ってくるに決っている。そういったことを実際に見るならば仮に館が建ったとき、どのあたりの子どもたちの「私の地図」にその館が組みこまれ得るか、およその見当がつこうというものである。集まるだろう子どもたちの想定さえも確かめもしないで(この碓かめは、自らの目を信ずるしかない)研究者の研究成果:客観的(と称する)データを(徒らに)信じて500メートルの円を書いて、十分に考えたとする、これはもう、なんと言ったらよいのだろうか。おそらくこの計画立案者は、敷地に行ったし、まわりも歩いただろう。しかし、何も見なかったにちがいない。いや見えなかったにちがいない。これは、児童館のなかみ以前の話であるし、またこうである以上当然なかみも推して知るべしであろう。

  先ほど来私は、都会的感覚だとか都会的生活、都会的発想という言いかたをしてきた。それはほぼ、近代的合理主義的な、という意味と同義だとみてもらってよいと思う。そういうものの見かたでは、本物の地図は、本物の地図としか見えず、というより本物の地図としてしか見ず、「私の地図」などという「主観的」なものの見かたは頭から否定されるのがおちである。

 実際、私の受けた建築の教育でも、半径500メートル的知識は多分に教えられはしたけれども、「私の地図」を私たちが持っているということ、それによって生活しているということ(現在も、そして大人も子どもも)、そういうことは、ついぞききもしなかった。「個人」の「主観」は省かれていた。

 かくして、極めてスムーズに流れる道路の狭間に、村や町の人たちが不便を強いられ生活し、子どもの地図に描かれもしないかもしれないような子どものための建物がつくられる。これがまさに現実の客観的事実なのだ。そして、私自身、こんなことを書きながら、甲府バイパスをかけぬけ、その利便を満喫(?)しているではないか!

 もし仮に、ある町・村の田畑を横切ってバイパスを通す計画がもちあがり、ところが土地の人たちが生活の分断をきらって異論をさしはさんだとしよう。それへの対応は先に書いたとおり大体決っている。代書地を用意する、分断された二つの地区をつなぐ代替道をつくる、買収費の他に生活補償金!を積む等々である。それでだめなとき、必らずでてくることばがある。あなたがた、反対するほんのわずかな人たち、その反対のために、実に多くの人たちが不便を被るのだ、「公共の利益」を考えてほしいということばである。最近の例で、名古屋の新幹線騒音訴訟がよい例だ。速度をおとし騒音をさけるべきだというのに対し、判断は、この程度の騒音は「公共の」利便のために我慢すべきだというような趣旨だったように思う。これでは「利益」の享受者の数の多少が天びんにかけられるみたいである。少数意見は少数の異見にすぎず、ことによると多くの場合単なるエゴイズム扱いされる。しかし、ふとたちどまって考えてみると、むしろ多数の方がエゴイズムかもしれないのだ。第一、少数意見が少数なのは決りきった話だ。そこに住んでいるのはその人たちだけなのだから。極端に言えば、その人たち以外が「公共」だというのに等しくなってしまう。けれども、このような「公共」が、この「民主主義」の世のなかに横行しすぎるように思う。そうなると、その「民主主義」のなかみまで疑いたくなる。

 

 (次記事「筑波通信№6 後半,あとがき」に続く)

 (「1投稿の文字制限3万字」を越えるので、前半と後半に分けて掲載します。)


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「8月15日によせて」 後半, あとがき   1981年9月 

2019-02-15 09:25:01 | 1981年度 「筑波通信」

(「筑波通信№6 前半より」続く)

 

 いったい。「公共」とは何なのか。

 「公共」施設、「公共」投資、「公共」の福祉、「公共」の利益・・・・微妙に意味が違うようだ。唯一共通していること、それは、ひびきがいいということだ。字づらからしてなにか「みんなのもの」というような甘いひびきがある。みんな、自分も「みんな」のうちに含まれているかのような幻想をもつ、そういうことばだ。

 しかし、この「みんな」のなかみを考えだすと、とたんにそれはあやふやになる。私に言わせれば、これは極めていいかげんで、それ故また極めて危険なことばである。それが甘いひびきをともなうが故に、なおさらそう思う。

  先日、行政マンと話をする機会があった。住民参加の行政、それが「公共」のためだと考えているという。ただ、多様の住民の意向のなかから「どうやって最大公約数を決めるか」それが問題なのだという。これは一見したところ、良心的なやりかたに見えるだろう。しかし、つまるところこの場合、「公共」とは人々の「最大公約数」だということだ。そこで単純に、「最大公約数」なのだから人々の共通の最低の意向がくまれている、などとよろこんではいけない。最大公約数ということばは、もののたとえにすぎず、人々の意向なるものは、「数」みたいに割り切って考えられはしないのだ。二人の意向を足して2で割ったら平均値になった、なんてことがあり得ないようにあり得ない。建築の世界で「公共建築」という言いかたがある。この意味は、「不特定多数」の人々が利用する建築:学校、病院、図書館‥‥つまり「公共」が利用する建築のことだ。「不特定多数」という言いかたは、個人対応の建築は特定の個人を対象とするが、「公共建築」の利用者は特定できない多数である、そういう見かたからでてくる言いかたである。つまり、この見かたでは、「公共」とは、特定できない大勢の人たちということになる。

 だから、公共建築の研究者たちは、大抵のっけから、その利用者を「群れ」として扱うことが多い。いろんな人がいて、つまり特定できないから、個々の人につきあえない、群れとしてしか見ることができないというわけだ。かくして、人々は「群」としてひとまとめに括られる。統計的に処理される。そこでは、「個人」は消去される。先の「最大公約数」の発想も、構造は基本的にこれと同じである。いずれにしろ、公共を考えるために、「個々人」は消去される。されねばならない。

 そしていま、仮に「公共」=不特定多数の「意向」が定まったとしよう。「公共の論理」が定まった。そうなると、いま大抵その「公共の論理」は(その成りたった過程を離れ)自立性を確立してしまう。簡単に言えば、「公共の論理」が「個人」を越え、「個人」を支配する、つまり「個人の論理」より上位のものとして機能するもののように、あたりまえのように、扱われてしまうということだ。なぜか。おそらくきっと、こういう答が返ってくるはずだ。公共、つまり不特定多数の人々とは、個人の集合であり、その集合から抽出したのが、この「公共の論理」である。故に、個人は公共に包含される、と。

 しかし、それはうそだ。論理のすりかえである。この「公共」理論では、「公共の論理」が「個人」より上位にたつというときになって初めて「個人」が顔を出すのが特徴だ。そのときまで、「個人」は消去され、不特定多数として扱われていたのではなかったか。

  「公共」という言葉が危険な言葉だと私が言うのはこのためなのだ。それが、「個人」を左右し支配するのに極めて有効に機能するのが、目に見えるようだからだ。先の新幹線の騒音問題の例のように、既にそのようになっている。「公共」が「個人」に優先するというのである。

 先きごろの教科書問題が世をにぎわしていたとき、批判派の人たちが、「公共の福祉」をもっと前面に押しだして書かれるべきだと言っているという新聞の見出しを読んで、一瞬とまどった。そんなはずはない彼らがそういうことを言うわけがない、福祉は金がかかりすぎると言っているのに、どうしてか。そうではないのである。記事を読んで納得した。原子力発電とか工業立地とか色々の「公共」投資に対して反対が多い(ためにことが運ばない)が、それは「公共」の利益つまりは「公共の福祉」に反することだ、この「公共の福祉」が(個人よりも先ず)大事であるということを、もっと前面に出して書<べきだ、というのであった。

  あるいは、事態はもうここまで来ていると言った方がよいのかもしれない。

  いま、ひょいと、この「公共」の文字のところを「国家」あるいは「お国」の文字に置き替えたとしよう。直ちに分ることだが、そのまま通用する。論理の構造は何も変ってないのである。36年前そのものだ。いずれの場合をとっても(つまり文字がどうあれ)、「個人」を支配する、あるいは、「個人」が自らを殺して従わねばならないより上位の概念・論理がある、という発想であることに何ら変りがない。

  怖いのは、いまのそれが、「公共」というなんとなく甘いひびきの言葉を使っていることだ。「公共」=「みんな」、この錯覚を巧みにあやつれば、なんでもできてしまう。

  「みんな」の利益になるのに、なぜあなたは反対するのか、ということは、あなたは「みんな」でない、「みんな」の一員でない、「みんな」の利益になることに賛成すれば、あなたも「みんな」になれる。この全くの逆転した(というかめちゃくちゃな)論理!に、大抵のあなたはびびってしまうのだ。なんのことはない、反対するのは、あるいは批判するのは「国賊」だ、というのと、いったいどこが変っていよう。「民主主義」というもの、敗戦を契機に獲得した「民主主義」というのは、こんなことだったのか。私には、とても信じられない。

  私の民主主義、私の自分で身につけたと思っている民主主義では、いかなる場合でも、「個人」は消えることはない。「個人」を認めないものは、私にとって民主主義ではない。だから、たとえば、「個人」の集まりを「不特定多数」で処理して済ますなどという考えは、それこそまさに、「個人」より上位の概念としての「公共」があるという考えをバックアップするようなものだ、いやことによると、もともとそういう考えだからこそ「不特定多数」がでてくるのだ、そのように私は思う。

  私には、「個人」のいない「公共」など全く思いも及ばないのである。いま、「公共」は、実体のないひびきだけよい「ことば」になってしまっている、むしろ、言うならば一種の「操作用用語」となってしまっているように、私には思える。

  このような「公共」「個人」の変な関係は、日本独特のものなのだろうと思う。いま、この「公共」と、それに対応すると思われるpublicについて、辞書は何と説明しているか、まるのまま転載すると次のようだ。

 

    

因みに「公」の字のもともとの意は、つつぬけである、つまり、閉じていない(open)ということの象形なのだそうである。

 彼我の差歴然たるものがあると思うのは私だけであろうか。我が日本において「公共」とは、社会一般であると同時に即「政府」「お上」なのだ。当の「お上」も、また「下じも」も、そう思ってきた、それが辞書の説明となって現われている、そう見てよいだろう。だから、普通publicを「公共」と訳して済ましてきているけれども、原文において「個人」が(あたりまえなこととして)生きていたものが、日本語になったとたん、ことによると(あるいはきっと)「個人」はどこかへ吹きとんでしまう、つまり、まるっきり意味が違って読まれてしまう可能性が強い。(こういう例は、前にちょっと書いたけれども、文明開化以来、非常に多いはずである。「地方」とloca lの例もその一例だ。)

 (もしかすると)日本人は、その長い習慣から、個人を越えた上位に、頼るべきよすがを欲しがる性向があり、そういう「お上のいうこと」にすなおに従う癖から、36年もたってもまだ、披けきれていないのかもしれない。

 しかしながら、辞書にも「公」は「私」と対をなすとある如く、「公」と「私」あるいは「個」は、それを正当に対置して初めて、そのそれぞれの意味が明らかになるはずで、そうせずに、どちらか一方のみでことが処理されるとき、事態がおかしなことになる。とりわけ、「私」の係わりないところで生まれた、得体の知れない「公」に「私」が押しつぶされるのは、全く許しがたいことだと私は思う。

  それゆえ、現実に目に見えた形となって現われてくるところの「私」たちの心情を逆なでするような諸々の(人為的)現象に対して異議をさしはさむのはもちろんであるが、むしろ、そういった現象の拠ってきたるものの見かた考えかた対して、より強く異議をとなえ続けたいと私は思う。それが、おそらく、私たちの世代の役目なのではなかろうか。

  私は、あの8月15日前の状況が何であるか、体でそれを感じたわけではない。それには幼なすぎた。しかし、いかなる理由があろうとも、あの8月15日以前には戻りたくないし、また決して戻したくないと思う。なぜなら、私は、私の身につけた民主主義は決し誤っていないと思うし、そして、それがきらいではないからだ。

あとがき 

 いまこの号は、八ヶ岳を目の前にして書いている。大分かすんでいる。秋から冬あるいは冬から春、それも朝か夕がたがほんとはいい。そういう山をみていると、山をみているようで、みている自分がそれに対置されてみえてくるような、なにかそんなこわい感じがしてくることがある。(こういうときのみるは、どの漢字をあてたらよいのだろうか。) そして、私のようにときおりではなく、いつも山に囲まれている人たちはいまどうなのか、一度尋ねてみたい気がする。

〇この8月15日、諏訪湖の花火を観に行った。ちょうど満月。盆地を囲む山々の稜線が、そこだけ月あかりに照らされ淡く輝きあとは空に溶けこんでいた。もう秋である。花火は壮観であった。ずしんと体にこたえるあの音、これがないと花火ではないのだが、あのシュルシュルという音とともに、それはどうしても高射砲と艦載機の機銃の音を思いださせ、慣れるまで、どうもいけなかった(東京の防空ごうにもぐっていたころのことだ)。こういうちょっとした光景や音、ときにはにおいまでも、それは突然忘れていた昔の一瞬の情最を頭のすみから掘りおこす。

 建物づくりや町づくりというのは、本質的に、いつの日にかこういう具合に掘りおこされる情景の根となるものをつくっているのだということに、気がつかなければならないと思う。

〇こんな内容の文を書きつつ、一方で私は車の利便に酔って?いる。車に限らず、諸々の近代「文明」のもとで暮している。それを統御しているのか、それに統御されているのか。

〇それぞれなりのご活躍を祈る。

                                            下山 眞司


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