「付録2 日本建築の開口部と建具・概要-1」 日本の木造建築工法の展開

2019-02-26 10:22:01 | 日本の木造建築工法の展開

   「日本の木造建築工法の展開」   

  PDF「付録2 日本建築の開口部と建具・概要」 A4版12頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

付録2 日本建築の開口部と建具・概要・・・建具の種類、納めかた 

1.日本建築の開口装置

 古代~中世の開口部・間仕切り

 御簾、蔀の利用

貴族の住居:寝殿造の外周の廂(庇)部では、吹き放しの箇所と、御簾(みす)(すだれ)蔀戸(しとみど)、または板戸舞良戸(まいらど)もある)が入る場合があり、間仕切りとしては屏風(びょうぶ)などが用いられ、土壁で塗り囲まれた塗籠(ぬりごめ)では、妻戸(つまど)(室の隅に設ける両開き戸)が使われていた。 

  

東三條殿復元平面図 部分  日本建築史図集 より        御簾、屏風の図 源氏物語絵巻 日本建築史図集 より

 

 軸釣り開き戸(奈良~平安時代)

奈良時代の寺院建築の外部出入口は、すべて開き戸で、柱外側の上下の長押軸釣り(現在のピボットヒンジ)で仕込むが、平安時代には、柱外側に添えた太目の額縁(がくぶち)軸釣りとする方法も生まれる。

貫工法が主流となり長押を使わなくなる鎌倉時代以降は(主に大仏様禅宗様の建物)、外側に扉を支持する部材(藁座(わらざ)と呼ぶ)を別途設けて釣っている。

   

上:端喰による板戸(法隆寺・伝法堂)奈良六大寺大観 法隆寺一 より  下:蔀戸、半蔀(西明寺本堂)日本建築史図集より   藁座による軸釣り開き戸(東大寺法華堂礼堂) 奈良六大寺大観 東大寺一より

 奈良~平安時代の建具

板 戸:奈良時代に使われた扉は、厚さ3寸ほどの板を矧(は)いでいる(時には1枚板)が、平安時代には板厚が2寸程度になり、反りを防ぐため上下に端喰(はしばみ)(端嵌め(はしはめ)から転じた語)を設ける技法も生まれている。

蔀 戸(しとみど):四周に(かまち)を組み薄い板を張り、前面を格子、裏面を横桟に組んだ跳ね上げ建具長押に外付け。上層階級の住宅で多用され、後に寺院でも使われる(左上図参照)。

半 蔀(はんじとみ)蔀戸を上下に分け、上部は跳ね上げ、下部は落し込みで取付け、取り外し可能(上図参照。外した戸は別の場所に格納)。

格子戸(こうしど):周に(かまち)を回し格子を組み、薄い板を張った戸。 

舞良戸(まいらど):四周に框(かまち)を組み、見付けの細い横桟または縦桟を繁く設け、薄い板を張った戸。この形をした開き戸もある。

杉 戸 :四周に框を組み、薄板の鏡板をはめた戸。絵が描かれることもある。

(ふすま)  :格子の両面に厚紙や布を貼った戸。

明り障子(あかりしょうじ)格子に薄い紙を貼った建具。平安時代末期までに生まれた。現在の障子。当初はが現在に比べ太く、框と大差ないが、次第には細くなる。明り取りのために、蔀戸連子窓格子窓の内側に仕込まれた。⇒次項参照

遣 戸(やりど)引き戸の当初の呼称。⇒次項参照

なお、室内の仕切りには、衝立(ついたて)や板を張らない格子戸が使われた。障子は、(ふすま)、衝立(ついたて)など仕切りに使うものの総称であった。

 

 引違い戸の普及(平安末・鎌倉時代以降)

鎌倉時代までには、格子戸、舞良戸、板戸、明り障子敷居・鴨居の間で引違いに引く方式:遣戸(やりど)が定着、普及する。

当初の引違い戸は、敷居・鴨居に設ける戸を仕込む(樋端(ひばた))の幅が戸の見込み全部が入る溝であったため(ドブと通称)、引き違い戸相互の間には3分(約9㎜)以上の隙間があった。樋端の溝彫りの工具がなかったためで、付け樋端とする例が多い。 後に、樋端幅を、現在のように、戸の見込み寸法の7割程度にして引き戸間の隙間を1分(3㎜)程度にする方法が生まれる。

 書院造の引き戸

書院造で普通に見られる引き戸は、柱幅が一般に4寸2~3分(約130㎜)程度あるため、以下の構成とする例が多い。

① 3本溝板戸2枚、明り障子1枚の3枚構成とする。柱間の半分が明るくなる。 ② 柱間の中間に方立を立てて柱間の半分を袖壁として、2本溝で板戸明り障子各1本を袖壁部に引込む(片引き戸)。明るさは①に同じ。  

   

光浄院客殿 部分平面図                     浄院客殿東面 玄関建具詳細   

六畳東面の中門廊寄り1間が玄関の両開き戸(右図)  玄関北側の各柱間は明り障子蔀戸・半蔀(下断面図)

     

                 光浄院客殿 東面 開口部 解説図(単位 寸)

    

光浄院客殿上座の間 広縁 開口部 左:外部 右:内部   板戸(舞良戸)を開けた状態。明り障子1枚分から外光が入る。舞良戸の室内側は紙貼り(絵が描かれていた)。  上図は、この部分の詳細図断面詳細図より作成)  図、写真は 日本建築史基礎資料集成 書院一 より

 

 雨戸の誕生(桃山時代以降)

書院造遣戸方式は、開閉は容易である全面開放ができないため、室内は蔀戸方式よりも暗くなる(前項参照)。

桃山時代以降には、柱通りの外側に1本溝の敷居・鴨居一筋(ひとすじ)と呼ぶ)を設け、開口部の端部に半間幅の戸袋(とぶくろ)を設けて板戸をしまい込む雨戸が考案される。

   

中級旗本の住居の開口部            中級武士目加田家の開口部の構成

 

 庶民の住居の建具構成

庶民の住居には、近世以前の遺構は見当たらない。室町期に建てられた古井家箱木家では、主要な開口には、室内外とも片引き板戸が入り、部分的に明り障子を入れている。

  

古井家 復元平面                    日本家屋構造所載の明治期の開口部例 一般住宅の縁側 商店の上げ戸 

 17世紀後半には、書院造同様、敷居・鴨居に3本溝を彫り、板戸2本・明り障子1本の構成が現れる    さらに時代が下ると、武家の住居同様、開口部を広くとり、縁側を設け、柱外側に雨戸を仕込む例が一般化する。   なお、商家・町家では、表通りの店先に、現在のシャッターに相当する上げ戸(揚げ戸)を設ける例が増える。   

  規格建具の流通

江戸時代には、柱間1間を基準とし内法高を一定(5尺7寸、5尺8寸など)にして、一般の住居向けの規格建具:掃出し、肘掛け、腰高など(鴨居下端からの寸法で指示)が用意されるようになる。住宅用アルミサッシの旧規格は、この規格建具の寸法体系による。

  ガラス戸の導入・普及

ガラスの生産は明治末期に始まり、昭和初期に大量生産が本格化し、以降一般に普及する。初期のガラスは厚さ1.5~4㎜、大きさも小さい。 

ガラスは、当初、明り障子の一部に組み込む使い方がされ、その後、を組み、数本の横桟の間にガラスを入れるガラス戸として普及する。それにともない、雨戸の内側にガラス戸を入れる方式が生まれ、雨戸を開放すると外気に曝されていた縁側が、ガラス戸で囲われるガラス戸+雨戸という縁側の定型が生まれる。

 

大正期の中廊下式住宅 ガラス戸+雨戸による縁側

参考資料 日本建築の構造 浅野清著(至文堂) 日本建築史基礎資料集成 (中央公論美術出版)  日本建築の鑑賞基礎知識 平井聖著(至文堂)  日本建築史図集 日本建築学会(彰国社)  

 

 2.真壁の開口部:枠回り

木造軸組工法の建物の開口部:枠回りは、大壁仕様の場合も、真壁仕様の納まりを基本とすると分かりやすい。

 真壁仕様の枠回りの基本

① 縦方向は柱をそのまま利用し、横方向は柱間に敷居・鴨居を取付ける。開口部が柱間よりも狭い場合は、方立を設けて調整する。 註 引き戸の溝を設ける場合を敷居・鴨居と呼び、溝のない場合を「無目(むめ)(無目敷居・無目鴨居)」と言う。

敷居・鴨居・無目、方立には、一般にスギ、ヒノキ、マツ、ツガ、米マツ、米ツガなどが使われるが、真壁の場合は、柱材と同一にすると違和感がない。註 材の反りを考慮し、鴨居は木表を上端側、敷居は木表を下端側にする(開口側が木裏となる)。

② 敷居・鴨居の幅は、一般に、柱の面内(めんうち)納めとするが、敷居床面が同高のときは、敷居は柱幅にそろえる。 また、小さな開口で、方立敷居・鴨居が取付く場合は、一般に、方立を優先し縦勝ち)、方立面内敷居・鴨居を取付ける(見込み寸法が同一でない)。 註 真壁仕様では、縦材と横材を留めにすることは稀で、どちらかを面内で納めるのを常とする。

③ 敷居・鴨居・無目の見付け寸法(厚さ)は、1寸~1寸5分(約30~45㎜)以上。 鴨居の見付け寸法は、真壁の場合、壁面の見えがかりに影響するので、任意に設定できる。構造材を兼ねた差鴨居とすることもできる。          

④ 引き戸の場合、通常、は、敷居・鴨居の芯振り分けで彫り込む柱芯、敷居・鴨居芯が基準となるため、仕事に間違いが起きにくい)。 を彫り残した部分を樋端(ひばた)と呼ぶ。 の深さは、鴨居は5分(約15㎜)、敷居は仕上がりで0.5~0.6分(約1.5~1.8㎜)程度。 敷居溝には、一般に、磨耗を防ぐため堅木の埋め樫(うめがし)や塩ビ製敷居すべりを張るので、自体の深さは1分(約3㎜)。註 樋端芯振り分けのとき、引き戸芯振り分けには納まらず、内外のどちらかに寄る。建具を芯振り分けで納めることもできるが、溝彫りの墨付けに対して、適確な指示が必要。その場合も、材芯からの寸法指示が適切。材の端部からの寸法指示は間違いを起こしやすい。一般に、木造軸組工法では、墨付けは、常に、材の芯からの寸法で行う。

溝の形状は、一般に戸の見込み寸法に応じて決めるが、地域によって異なる。 関東地方の通常の引き違い戸の敷居・鴨居形状例は下図(単位は寸表示)の通り。 註 戸と戸の隙間を1分(3㎜)、溝幅7分(21㎜)とした寸法であり、ガラス戸、板戸、フラッシュ戸、障子に共用できる(見込み6分仕様の伝統的な襖も含む)。

註 建具の見込み寸法が1寸2分(約36㎜)を超える場合は、溝幅を8分(約24㎜)以上とする。レール・戸車式の引き戸では敷居の溝は設けないが、平戸車の場合は溝あり。

⑤ 開き戸の場合は、戸当り柱・方立・鴨居に設ける。真壁では、敷居は平が一般的だが、靴摺り・戸当たりを設けることもできる。 註 建具の位置は任意に設定できるが、指示に適確さが必要。材の芯に戸当りを付けると間違いがない。  戸当りは、幅8分~1寸×出3~4分程度。戸当りの取付けは、丁寧な場合は小穴を突く。

⑥ 雨戸は、柱の外側に、雨戸用の1本溝の敷居・鴨居を本体の敷居・鴨居に小穴を突き取付ける。

⑦ 外部などで建具を多重に設ける場合(柱間に障子を備え、さらにガラス戸、網戸を備えるなどの場合)、柱の外側に縦枠、敷居・鴨居を取付ける。 註 ⑥⑦の方法は、室内でも応用可能。外部ではレール・戸車式として、敷居に水勾配を付ける。

⑧ アルミサッシとする場合は、開口部の建具構成によって、内付け、半外付け、外付けを使い分ける。柱間に障子などを建て込む場合は外付け、ブラインド、カーテンなどの場合は半外付けまたは内付け 註 アルミサッシは、外部大壁納めを前提にした断面であるため、外部真壁の場合、いずれを用いても、取付け用のつば部分が露出する。つばを隠すには、枠の外側に見切縁を取付ける。                        

 

「付録2-2」へ続く               


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「付録2 日本建築の開口部と建具・概要-2」

2019-02-26 10:21:30 | 日本の木造建築工法の展開

 付録2 日本建築の開口部と建具・概要・・・建具の種類、納めかた 続き

 

 3.大壁の開口部:枠回り

大壁仕様の場合も、枠の取付けの点で柱幅を基準とする方が適切である。

 大壁仕様の枠回りの基本

① 建具の納まる部分(縦枠、敷居・鴨居)と、壁の見切になる部分(見切縁、額縁)で構成する。 縦枠の見込み寸法は、柱幅になるため、柱をそのまま使うこともできる(柱を仕上げておく必要がある)。 註 見切縁を一体の材とすると、見込み寸法が大きくなり、良材を用いても狂いやすい(反る)。  縦枠、敷居・鴨居には、一般にスギ、ヒノキ、マツ、ツガ、米ツガ、米マツなどが使われ、額縁には、縦枠、敷居・鴨居と同材にする場合と、堅木を用いる場合がある。註 の反りを考慮し、鴨居木表上端側敷居木表下端側にする(開口側が木裏となる)。 額縁は、縦枠、鴨居に小穴を突き納める。額縁壁しゃくりを設けると壁の納まりがよい。

② 縦枠敷居・鴨居の見込み寸法は、軸組の柱と同一にし、縦枠を先行して敷居・鴨居を取付ける。一般に、縦額縁(見切縁)・横額縁(見切縁)の見込み寸法を同寸として、隅部は留めで納める。留めは最低でも下図の仕口にしないと留め面に隙ができる。 

③ 縦枠敷居・鴨居無目材の見付け寸法は、一般に1~1寸5分(約30~45㎜)以上。 額縁の見込み寸法は壁厚により決まるが、見付け寸法は任意(見えがかりによる)。

④ 引き戸では、敷居・鴨居を彫る。真壁納めの場合に同じ(真壁仕様の枠回りの基本④項参照)。

⑤ 開き戸の納めは、真壁仕様の枠回りの基本⑤項にならう。戸当りを、と一体に加工する方法もある(確実ではあるが、材寸が厚くなる)。

⑥ 雨戸多重の建具を外側に設ける場合は、真壁仕様の枠回りの基本⑥⑦項にならう。

⑦ 外部建具をアルミサッシとする場合は、真壁仕様の枠回りの基本⑧項にならう。大壁の場合、アルミサッシのつば部分は、壁に隠れる。

 

  4.真壁から大壁への切換え  

大壁仕様主体の建物内に和室をつくる場合には、枠回りの切換えが必要になる。

一般には、大壁付け柱などを付け真壁風にする例が多いが、畳が小さくなり(特に3尺格子では)、全体に小ぶりの和室になる。以下では、真壁仕様と大壁仕様を併用する場合を想定する。

 真壁~大壁切換えの基本

① 大壁部分の柱も、真壁部分と同じ仕上がり寸法に仕上げる。

② 真壁部分の方立位置、敷居・鴨居を優先的に決める。  大壁側の納まりは、「柱幅の枠+額縁(見切縁)」の構成を原則とする。

③ できるだけ、部屋の隅部は壁にする。

④ 隅を壁にせず、真壁大壁が一面で連なる場合(和室と大壁の洋室が全面開口で連なる場合など)は、間仕切部の両端の方立を添わせ、大壁側の壁を方立に納め、敷居・鴨居方立で受ける。大壁側の縦額縁は省く(下り壁横額縁で止まる形をとる)。

⑤ 間仕切部の一部に設ける開口部では、真壁部分のを利用し、縦額縁に小穴を突き取付ける。   

 

 5.枠回り材:造作材の組み方 現在可能な施工法

 木造軸組工法の場合、真壁仕様の組み方、取付け方法を基本と考えると決めやすい。見えがかりだけを優先した簡易な取付けが多いが、長年のうちにかならず狂いが生じる。

真壁仕様の場合  各項目の[a]、[b]などの囲み記号は、勧められる方法を示す。

鴨居の取付け  a あるいは方立鴨居の形状を彫り込み、片方の彫り込みを深くしておき、やり返しで納める大入れの方法。手間がかかる丁寧仕事。  [柱間の寸法に合わせた長さの鴨居をつくり、両端木口に1分(約3㎜)程度のをつくりだし、に枘穴を彫り、柱間を若干開いて鴨居を納める。仕口に隙間ができない一般的な確実な方法で、専用のジャッキの応用で柱間を開く工具もある。 c 片方の端だけ枘をつくりだし、他方は上面から釘打ち止め。 d 柱間の寸法の材を上面から釘打ち止め、L型金物を添える場合もあるが狂い、隙間が生じやすい。

鴨居の途中   鴨居の長さが9尺(2,727㎜)を越えるときは、梁・桁から吊り束で吊る。吊り束は、寄せ蟻で取付けるのが確実。

 納まり詳細図(理工学社)より

 

納まり詳細図集(理工学社)より 寸法単位:㎜

敷居の取付け  [a]柱間の寸法に合わせた敷居をつくり、敷居の取付く一方の柱と敷居の木口に2個の待ち枘の穴を彫る。もう一方の敷居木口に、1個の待ち枘の穴と横栓の穴を彫る。柱の待ち枘の穴に、堅木製の待ち枘を植え込み、敷居を落し、横栓を打つ。近世以降、一般に行なわれてきた確実で丁寧な仕事。                      [b]柱間の寸法に合わせた敷居をつくり、両端に待ち枘を設け落し込む。  [c]柱間の寸法に合わせた敷居をつくり、横栓の穴を、敷居両端の木口に彫り、横栓打ち。  [d]柱間の寸法に合わせた敷居の両端の木口に1分(約3㎜)程度のをつくりだし、柱に彫った枘穴に横から入れる。 註 a~dでは、敷居の長さを、柱間の寸法より僅かにきつめにつくる。   柱間の寸法に合わせた敷居をつくり、側面から釘打ち。最も簡易な仕事。  f 窓などの場合、鴨居のbと同様な方法。   g 敷居の形状なりの深さ1分程度の彫り込みを設け、下からすくい入れて下面にを打つ。手間がかかる。納まりはきれいだががたより。 

敷居の途中   粗床面あるいは大引根太上に飼いものを入れて調整。埋樫(うめがし)敷居すべりを入れるときには、溝面で釘打ちまたはビス留めとすることもある。

 

 大壁仕様の場合

枠+額縁の構成とする場合を想定。取付け下地として、柱、半柱、まぐさを使う。註 大壁仕様の場合、加工場で枠・鴨居・敷居を組み、現場に搬入、飼いもので調整、釘留めとすることもある。

縦枠鴨居   [a]真壁仕様の柱への鴨居取付け法dにならい、1分(約3㎜)程度の出の枘を鴨居両端の木口につくりだし、縦枠に彫った枘穴に組み込み枠裏側から釘打ちまたはコーススレッド締めとする。 b 鴨居縦枠に突き付けで納め、枠裏側から釘打ちまたはコーススレッド締めとする。最も簡便な方法。狂いやすい。

縦枠下地   a 材の側面:見付け面に額縁取付け用の小穴を突き、小穴部分で下地のまたは半柱に斜めに釘打ち。  b 半柱側からコーススレッドで留める。  c 縦枠の見込み面に9㎜φ×深さ10㎜程度の穴をあけ、釘打ちまたはコーススレッド留めの上、埋木。塗装仕上げで用いられる。

鴨居下地   [a]鴨居の側面:見付け面に額縁取付け用の小穴を突き、小穴部分で下地のまぐさに斜めに釘打ち。  b まぐさ側からコーススレッドで留める。  c 鴨居の見込み面に9㎜φ×深さ10㎜程度の穴をあけ、釘打ちまたはコーススレッド留めの上、埋木。塗装仕上げで用いられる。

縦枠敷居   [a]真壁仕様の柱への敷居取付け法dにならい、1分(約3㎜)程度の出の枘を鴨居両端の木口につくりだし、に彫った枘穴に組み込み、枠裏側から釘打ちまたはコーススレッド締めとする。          b 敷居に突き付けで納め、枠裏側から釘打ちまたはコーススレッド締めとする。最も簡便な方法。狂いやすい。

敷居下地   一般には、敷居側面から荒床に向かって斜めに釘打ちする例が多い。

額縁の取付け  a 額縁に設けた壁しゃくり部分から縦枠鴨居に釘打ち。  b 見付け面に9㎜φ×深さ10㎜程度の穴をあけ、枠に釘打ちまたはコーススレッド留めの上、埋木。塗装仕上げで用いられる。

 

 日本家屋構造所載の造作解説図

 

 6.建具実例 

 旧西川家住宅の建具    旧西川家住宅修理工事報告書より抜粋

西川家は、滋賀県近江八幡市にある1706年建設の典型的な近江商人の家。以下に紹介する旧西川家住宅の建具は、近世末~明治にかけて行なわれていた製作法で復刻したもの。

1.板戸 土間店座敷の境の板戸  

 

2.舞良戸 店 表玄関縦舞良戸 

  旧 西川家 一階平面図

3.腰付障子  4枚引き腰付明り障子 奥の間(座敷)西面濡れ縁境 

4.片開き 板戸 台所どま北面   

 

5.板戸4枚(雨戸形式) 座敷~どま境  どまは外部と考えている。座敷どま側にが設けられているが。このは、座敷縁と呼んでいる。これは、その境に設けた雨戸仕様は、外に向くに設ける雨戸と同じ。 

 

 

6.腰付障子および雨戸   2枚引き 腰付明り障子+雨戸2本(戸袋付) 仏間(店裏)南面 

 

上図の明り障子外側雨戸    

 

   現在では上框を設けるのが普通だが、昔の雨戸には縦框だけを樋端に入れるつくりが多い。  縦框相互に召し合わせを設け、猿棒で相互を連結し、はずれを防止している。  板の継ぎ目は内側で目板張り。 の仕口は、きわめて丁寧。

 

 参考 障子について

元来は、衝立(ついたて)や襖の総称。近世以降、格子戸に薄い和紙を貼った明り障子(あかりしょうじ)を、障子と呼ぶ。 四周にをまわし組子(くみこ)を格子状に組み和紙を貼る。  縦框は見付 9分~1寸1分(約27~33㎜)×見込通常1寸(約30㎜)、組子は見付2~3分(約6~9㎜)×見込5分(約15㎜)程度。組子に直接取付ける場合と、付子(つけご)を回す場合がある。 材料は、スギ、サワラ、スプルスなど。

 代表的な形状 

腰付(こしつき)障子:高さ1~1尺2寸程度の腰を設ける。腰障子とも呼ぶ。  腰高(こしだか)障子:高さ2~3尺程度の腰を設ける。高腰障子とも呼ぶ。  水腰(みずこし)障子:腰を設けない障子。「見ず腰(腰が見えない)が転じたという。  猫間(ねこま)障子:上げ下げ障子。障子にガラスを組入れ、内側に、開閉できる小障子を設ける。  雪見(ゆきみ)障子:ガラス無しの場合を猫間、ガラス入りを雪見と呼ぶ、という説もあり、用語は一定していない。指示にあたり、確認が必要。

桟の割付は、かつては、和紙の規格(半紙判:約8寸、美濃判:約9寸)を基準としたため、一段あたり4寸、または4寸5分程度になる。現在は幅950㎜程度の紙があり、割付は自由。 なお、桟の割付けは、開口部の光の強さの調節、部屋の方向性などを考慮して決める。 

  通常の障子 雪見障子     雪見障子       普通の障子(付子なし) 

 

 

 


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「Ⅰー2住まいの基本の形, 3既存の地物や近隣への作法」 木造建築工法の展開

2019-02-18 18:12:10 | 日本の木造建築工法の展開

  「日本の木造建築工法の展開」   

 PDF「Ⅰー2住まいの基本の形, 3既存の地物や近隣への作法」 A4版7頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

 Ⅰ-2 住まいの基本の形・・・・住まいは、建物づくりの原型  

  最近、住宅を言い表すときに3LDK、2DKなどという言い方をします。これは、住宅とは、生活に必要な部屋数(living room)、(dining room)、(kitchen)の組み合わせ方で決まる、という考え方が広まっているからだと思います。そのため、全体の面積の大小にかかわらず部屋数の確保にこだわり、部屋の大きさが小さくなる例をよく見かけます。 

  しかし、元来、住まいの持たなければならない基本的な性格は、大地の上に(あるいは世界の中に)、自分たちが安心して閉じこもることのできる空間を確保することにあります。その空間から外の世界へ出てゆき、そしてふたたびそこに帰ってくる、生活・暮しの根拠地・拠点、拠りどころとなるかけがえのない空間、と言えばよいでしょう。この視点に立つと、見え方が変ってきます。   

 そのような空間をどのようにつくるかは、地域により、そして暮しかたによって異なります。

 遊牧生活の人びとは、旅の先々で根拠地を簡単につくれる折りたたみ式のテントが住まいです。 ある場所に定住して暮すならば、木の豊富な地域の人たちは木でつくり、木のない地域では土でつくり、石が得やすい場所では石でつくる、つまり、身近で得られる材料で空間をつくるのです。

 下の図と写真は、敦煌近在の農業用水路(運河)沿いの集落で見た普通の農家の住宅ですが、主要部は土でつくられています。このつくりかたは、現在も黄土高原では普通に見られます。  

 この住居は、まず四周の囲い:塀をつくることから始まります。 足元の地面の土を練り形枠内に5~10cmほど詰めて叩き締め、それを繰り返してゆく版築(はんちく)が普通ですが、日干し煉瓦を積む場合あります。註 版築は、日本では奈良時代に地盤造成に使われた。また、築地塀にも実例を見ることができる。

  には出入口が一箇所あり、が所定の高さまで達すると(3m程度)、出入口には頑丈な木製の板戸が取付けられます。 その段階で、部屋がつくられていなくても、暮し始めます。安心していられる場所が確保され、そこでテントを張ってでも暮してゆけるからです。(室)はゆっくり時間をかけてつくってゆきますが、土の壁に楊樹(ようじゅ)の丸太を架け、屋根がつくられます。    

 

写真説明   上段 版築の様子(別の住居の塀の新築中)  中段 上掲の住居の塀(囲い)の内側   下段 上掲の住居の房(室)の内部              

 

 下は、兵庫県の中国山地にあるわが国の最も古い住宅遺構の一つ、古井家(所在地 兵庫県宍粟(しそう)市安富、室町時代末:15世紀末建設)の平面図と外観及び内部の様子です。    

 建物は壁で塗り篭められていて、主出入口は一つ、窓は小さく閉鎖的な空間です。この建物の屋根を取り去ると、中国西域の住宅と同じような塀で囲まれた空間が表れます。

  

  南 面       日本の民家農家Ⅲ (学研)より      平面図       日本の民家 農家Ⅲ (学研)より 

 

 東~北面                             桁行断面図     日本の民家農家Ⅲ (学研)より 

 

 おもて 西面を見る               にわからちゃのまを見る  モノクロ写真は 古井家住宅修理工事報告書 より

  この二例は、住まいとしての基本は同じで、材料と屋根の有無が違うだけ見ることができます。中国西域が雨の多い地域ならば、囲いの上全部に屋根をかけるつくりになっているでしょう。

 

 

 上の図に、住まいの原初的な例を集めてあります(川島宙次著 滅びゆく民家 より)。

 ①の出作り(でづくり)小屋というのは、焼畑(やきはた)農業が盛んであったころ、麓の住まいからの往復の手間を省くため、高地にある営農地のそばに建てた仮の小屋です。

 これらに共通していることは、いずれも出入口が一つの一室:ワンルームの建屋であり、そのワンルームの中を、暮しの場面に応じて使い分けていることです。

 その使い分けは、出入口との位置関係で、おおよそ、の三つのゾーンに分かれることが読み取れます。そしてそれは、神社の構成にも言い得るのです。神社は神の住まう家だからです。そのうち①②③では三つのゾーンは明確な仕切りで区画されていませんが、④⑤ではB、Cは、目に見える形で区画されています。

 ここに載せた例は、いずれも川島宙次氏による調査に基づいた記録ですが、おそらく縄文・弥生期の竪穴住居もまた同じような使われ方、使い分けがされていたものと考えられます。

 これらの例は、ワンルーム自体が小さい場合ですが、規模が大きくなると、はっきりとした間仕切でゾーンが区画され、部屋として分化します。その場合、初めに分化するのはCのゾーンです。

 左頁の古井家の平面図で、にわは土間、おもては板の間、ちゃのま、なんどは竹すのこ敷きで莚(むしろ)を敷いていたようです。にわおもての境は板戸が1枚開くだけ、にわちゃのま境は常時開いています。なんどへはちゃのまからしか入れません。

 このことから、にわゾーン、ちゃのま、そしてなんどという使い分けで、家人の日常の暮しは、主に、にわ、ちゃのま、なんどで営まれていたと考えられます。

 この建物の建てられた頃(15世紀末)、古井家は村役を務めていて、主に接客用(武家の接待)に使われる特別なゾーンとして「おもて」が設けられていたのです。これに対して、先にあげた五つの例は、規模も小さく、家人の暮しだけを考えればよいため、のゾーンは必要ないのです。 現在でも、農家の住宅には、寄合いなどを目的としてのゾーンを設ける例を見かけます。

 

 このように、古い時代の日本の住居の建屋は、一般に閉鎖的な空間になっていますが、同じ古い時代の建屋でも、寝殿造と呼ばれる上層貴族の住宅の建屋は、きわめて開放的なつくりです。

 下の図は、9世紀に建てられた藤原氏の邸宅東山三條殿(ひがしやまさんじょうどの)の復元平面図と、寝殿造での生活を描いた源氏物語絵巻の一部です。建屋の四周は、絵のように、ほとんど開放されています。

 

日本建築史図集(彰国社)より

 

  

 このような開放的な建屋がつくることができたのは、敷地全体が塀で囲まれているからです。の中は自分たちだけの世界になり安心して暮せるため、建屋を開放的にすることができるのです。

 農家の住宅でも、中世から近世になるにつれ、屋敷を塀や生垣、防風林などで囲み屋敷を構えるようになり、それとともに建屋が開放的になってきます。農家住宅に多い一文字やL字型の縁側は、屋敷の確立とともに現われます。屋敷の中では気がねなく振舞うことができるようになったからです。

 敷構えがある場合には、建屋だけが住まいなのではなく屋敷全体が住まいなのです。

 

 以上見てきたことから、住まいをつくるときに考えなければならない要点が見えてきます。それを要約すると、次のようにまとめられます(それは、建物づくり一般に共通する原理でもあります)。 

① 住まいの基本は、安心していられる空間:ワンルームを、外界の中に確保すること。  ② ワンルームの大きさ:面積は建設場所:敷地の大きさによって違う。  ③ ワンルームには、外界に通じる出入口:玄関を一つ設ける。  ④ ワンルームの中の使い分けは、出入口との(心理的な)位置関係で自ずと決まる。  ⑤ 使い分けが間仕切られて部屋になるかどうかは、ワンルームの大きさにより決まる。

 ワンルームの大きさには、これでなければならない、という推奨値はありません。建屋の大きさは、敷地の大きさと予算で決まりますから、あらかじめ決めた部屋数を、建屋の大小にかかわらず設けようとすると、たとえば、小さな建屋に部屋数をそろえようとすると、部屋が小さくなり、使い勝手が悪く、暮しにくく、転用もできなくなってしまいます。

 それゆえ、間取りを考えるにあたっては、次の手順を踏むことが望ましいのです。

① 建屋の大きさに応じた使い分け方:暮し方を考える。  ② その結果、どのような部屋が分化してくるか考える。 

 しかし、このような建物を、人々は好き勝手につくったのではありません常に、建物をつくる場所にある既存の地物や、すでに暮している人びとに対して気づかうことを当然としています。人びとの間には、ある場所で暮してゆく上の了解事項・作法があったのです

 

 

Ⅰ-3 既存の地物や近隣への作法・・・・心和む町並はどうして生まれたか

 1970年代ごろから、町並の景観や修景などが大きな話題になってきます。日照権をめぐる裁判、景観悪化をめぐる騒動なども、このころから多発するようになります。

 江戸時代の姿を残す街道筋や町並が伝統的建造物群として保存地区に指定される制度も、このころからです。

  

 福島県 大内宿                                   長野県 妻籠宿  妻籠宿 その保存と再生(彰国社)より

 このことは、逆に言えば、新しくつくられる建物が、隣人に迷惑をかけ、景観・町並を乱すつくりになる例が増えてきたことを、人びとが身をもって知り始めたことを示しているのです。

 このため、建築にあたっての条件を規定した建築協定などを設ける例が増えています。協定のなかみは、たとえば壁面の境界線からの後退距離の指定、街路側の建物の高さの規定、屋根材や壁材など外装材の指定、外装の色彩の指定、あるいは塀や垣根の指定、などです。

 しかし、その協定に従うことで、かつての町並同様の質を確保できるか、というと、必ずしもそうではないことは、いくつかの事例で明らかです。

 奈良県橿原(かしはら)市の今井町(下図)は、伝統的建造物群保存地区に指定され、改造・改修・新築にあたり、少なくとも見える部位は、重要文化財に指定された建物に似た外観にすることが求められます。

 その結果、あたかも時代劇のセットのようになり、その町で現在暮す人びとの活き活きとした生活の息吹きが感じられない町になってしまいました。

今井町町並図  日本の民家 6 町家Ⅱ(学研)より

 大内宿妻籠宿など、他の伝統的建造物群保存地区に於いても同様な事態が生じています。また、建築協定の下で開発された新興住宅地も、それによって町並の質が向上したとは言いがたいのが現状です。

 建築協定などを制定しても、かつてのような町並が生まれないのはなぜなのでしょうか。

 それは、それらの方策が、町並の成立過程についての認識を欠いているからなのです。町並は、ある時突然できあがるものではなく、長い年月をかけてつくられるのです。別の言い方をすれば、常に変貌をとげるのが町並なのです。

 建物の外観を過去の時代につくられた建物の形に似せるということは、この時間の流れを止めることに等しく、その結果、「現在」の感じられない時代劇のセットを思わせてしまうのです。

一方で、地域によると、江戸時代末に建てられた建物から、昭和初期の建物に至るまで、各時期につくられた建物が町並をつくっている町が残っています。関東近辺では、群馬県桐生市、栃木県栃木市などが例として挙げられるでしょう。

 そこでは、江戸時代に建てられた商店があり、明治時代の土蔵造があり、大正から昭和にかけて文様を打ち出した鉄板で被った建物があり、あるいは煉瓦造があるなど、材料も形も色彩もさまざまな建物が並び、しかし、好ましい雰囲気を醸しだしています。

 質のよい町並をつくる要件は、使っている材料や、形や、色彩・・・ではないのです。

 質のよい町並が生まれるための建物づくりの要点は、建て主と設計者のマナーにあるとえるでしょう。

 それは、新に建物をつくるにあたって、建て主ならびに設計者は、そのときすでに敷地周辺にあるもの、それは、隣地の人の住まいかもしれず、樹林かも知れませんが、その存在を尊重する、というマナー:作法、すなわち、向う三軒両隣の存在を尊重する、ということです。

 隣人は、そこですでに長いこと暮しています。樹林はそこで長い間生きています。ことによると鳥や昆虫などの棲家かもしれません。

それを、新しい建て主はもちろん設計者も、無視してよいという理由はどこにもありません。

 そしてそれは、それを規制する法律があるかどうか、法律がないから構わない、と言った類の判断ではないのです。それ以前の判断、それを越えた判断、それゆえに作法:マナーなのです。

 実は、これは目新しいことではなく、近世までの人びとにとっては、あたりまえのことでした。しかし、明文化されていたわけではなく、人と付き合いながら暮してゆくための、互いの暗黙の了解、不文律だったのです。

 たとえば、〇 自分の暮す土地に降った雨の処理は、その土地の内で処理する  〇 隣家の開口部が、これから自分が建物を建てる敷地の方に向いて開いているのならば、その暮しぶりを損なわないように工夫する  〇 隣家の井戸があれば、その近くには厠は設けない・・・   〇 近隣の人びとから愛でられている地物(樹林や風景など)があったならば、その存在を存続させるように努める  などなど。 これらの不文律は地域によってさまざまで(雪が多い、風が強い・・などの特徴)、明治政府の制定した民法は、それらを採集・編集したものと言われています。

 下の図は、京都の指物屋(さしものや)町の町家の間取りを並べた地図:連続平面図(文化5年:1808年ごろ)です。 この町並は、もちろん、一時に完成したわけではありません。  それぞれの家が、似たような平面になっていますが、もちろん、そのようにしなければならない法律や規制があったわけでもありません。

 それぞれの家が、隣家の暮しの存在を尊重しつつ、長年にわたってつくってきた、その結果生まれた町並なのです。

 

 文化5年:1808年ごろの指物屋町 連続平面図    図集 日本都市史(東京大学出版会)より

 この中の、どの家が最初につくられたかは分りませんが、このように全区画に家が建ち並ぶまでには、相当時間がかかっています。

 最初につくられた家の隣に建てる人は、そのときすでにある隣家の暮しを尊重し、その隣に建てる人もすでに建っている隣近所の暮しを尊重する、・・・、人びとが皆、向う三軒両隣の暮しの存在を尊重して新築する、その繰り返しが続いて、結果としてこのような町筋ができあがったのです。

 そして、ある時間が過ぎ、最初のころに建った家の建替えの時期がくる。そのときにはまわりには隣家が建っている。そうなると、建替える人は、隣家の暮しを尊重する・・・。この繰返しが続いたとき、町家の間取りに一つの定型が現れてくるのです。

 コンプライアンス:法令遵守ということが盛んに言われます。しかし、法令の遵守だけでは、決して、かつてのような、百年後あるいは数百年後、昔の人はこんな素晴らしい建物を、こんな素晴らしい町並をつくった、と称賛される建物や町並は生まれません。

 ここであらためて、この大地の上で、人が暮すとはどういうことだったのか、住まいとは何だったのか、立ち止まって考えてみることは、無意味なことではないと思います。

                                        Ⅰ-2, 3 了                                                       

 

 

投稿者より:次回は「目次」の末尾にあります、「付録1若い方がたのために, 2」を掲載する予定です。

      下記は全20頁あまりですが、歴史的事柄が過半を占めます。 詳細については、建築各部位名で「ブログ内検索」をして頂けたらと思います。

      追記:「付録2 開口部・建具」はページ数が多いため、「付録1」の次の投稿になります。( 2月21日)


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「Ⅰー1 人はどこにでも住めるか」 日本の木造建築工法の展開

2019-02-13 10:38:20 | 日本の木造建築工法の展開

 「日本の木造建築工法の展開」   

PDF「Ⅰー1人はどこにでも住めるか」 A4版7頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

Ⅰ-1 人はどこにでも住めるか・・・・集落:村、町の立地の条件

  人が住むことができるための「必要条件」は、「食料」「飲み水」が得られることです。

「必要条件」とは、生物の生存条件にほかなりません。そして、この「必要条件」の有無が「集落」の原初的な段階での「立地」選定にあたって、根本的な選択・判断指標になります。

  日本の場合、当初、「飲み水」は湧き水や井戸が頼り、「食料」は主として、米が得られること、手近に稲が栽培できることでした(稲作をはじめとする農耕は縄文期の後半から始まるとされています)。

  東京から中央線で西へ向う車窓からは、視界の一帯が建物で埋め尽くされているのが見えます(下の地図は、東京周辺の国土地理院の1/20万地形図:1989年発行。都心から30~40kmは家並で埋められている)。

 こういう風景を見慣れてしまうと、人はどこにでも住める、と思ってしまうかもしれませんが、こうなったのは、そんなに昔からではありません。

 東京でも、最初に人が住み着き「集落」が生まれたのは、「必要条件」の確保できた限られた場所です(古代~中世、東京の中心部は沼沢地。13、14頁参照)。そして、「必要条件」を確保するための「技術」の進展とともに「集落」が増殖する、この「必要条件の確保の連続」が現在の東京を生んだのです。  註 「集落」とは人びとが定住することにより生まれる一定の地区:村や町を言う。「落」:「落ち着く」の意⇒着、慶・・・。一字でも村、町を指す。

 一方、西欧の都市では、建物で埋め尽くされるようなことが起きてはいません(下図の地図はロンドン周辺地図:帝国書院刊 基本地図帳より)。それは、人びとが「必要条件」だけで「事」を決めず「十分条件」をも考慮したからです。「十分条件」とは、「人間的」「感性的」な「条件」と言えばよいでしょう。

 たとえば、弁当持参で山道を歩いているとき、腹がへったからといって、所構わずに弁当を開く、ということはなく、弁当を食べるのに相応しいと思える場所を選びます。日々の行動に際して、無意識のうちに行なっている「選ぶ」という判断をさせるもの、それが「十分条件」の中味なのです。

 

 

  

 東京でも、第二次大戦前の都市計画では、西欧の都市にならい、環状8号線(都心から約15~20㎞)の外側にグリーンベルトを設ける構想がありました。その内側が市街化区域、そこから出るゴミの処理は、グリーンベルトに設ける清掃工場で処理することも計画されていました。

 しかし、この「理念」「計画」は、「地価の上昇⇒地域経済の活性化」という「全国総合開発計画」の下で消滅してしまいます。 

 ただ、清掃工場だけは「計画」どおりにつくられ、住宅密集地の中に清掃工場があるという現在の姿になったのです。当初の構想の姿は、砧緑地の中の清掃工場に見られます。 ただ、清掃工場だけは「計画」どおりにつくられ、住宅密集地の中に清掃工場があるという現在の姿になったのです。当初の構想の姿は、砧緑地の中の清掃工場に見られます。

 以後、東京は、田畑や山林が家々に埋め尽くされ、西欧の都市とは異なる姿になってゆきます。

 それは「必要条件」の「整備」のみにつとめ、「十分条件」について思いやることを忘れた結果と考えることができます。

 参考 地図で見る東京の変遷 

 

 図1 古代の関東平野 利根川と淀川(中公新書)より

 関東平野の西半分の河川は東京湾へ、東半分は霞ヶ浦一帯を経て銚子にそそいでいた。 両者の間に、微高地があり、それが分水嶺になっていたからである。  徳川幕府は、江戸に居城を移してから直ぐに、この分水嶺を掘削し、利根川の流路を銚子へ変える工事を行なった。 その目的は、水害防止とともに、舟運・水運の安定化:水量・水位の安定化にあった、と考えられている。

 

 

 図2 中世末の東京 図集 日本都市史(東京大学出版会)より

中世末、浅草寺、江戸氏の江戸館、大田道灌の居城などのほかは、一帯がどのような状況であったかは不明図は、考古学資料、地質、地図などを基にした推定図。

 

  

 図3 寛文年間(1660年代)の江戸 図集 日本都市史(東京大学出版会)より

 

 

 

 図4 江戸の藩邸の立地 同書より

 

 

 図5 明治30年頃の東京中心部 陸地測量部 1/20000地形図より  「浅草米庫」とは、徳川幕府が設置した米の備蓄倉庫。  専用の船着場を持つ。 図3にも見える。

 関東平野の米が、この米庫に集められ、武士に配布された。このことから、この一帯を蔵前と呼ぶようになった。   この一帯、いわゆる下町は商工主体、山の手は武士、そして郊外に農民、とのように住み分けられていた。 商工がこの一帯に定着したのは、通運の便を必要としたから(水害などは承知の上)。  当時の通運では、水運・舟運が大きな比重を占めている。 これは明治になっても続き、鉄道開設後は水運・鉄道が両輪となり、一帯の商工業を支えてきた。その延長で、近代的な工場群も一帯に成長する(鐘淵紡績、王子製紙、十条製紙、石川島重工・・青字はいずれも地名)。

  昭和30年代に入り、自動車運送が盛んになると、工場立地の要件が変り、工場は一帯から撤退し始める。  そしてその跡地が中高層集合住宅に変貌した。  ただし、その一帯は住居地としての必要・十分条件(次頁参照)の整った場所ではないことに留意する必要がある。

 

 「集落」の成り立つ「必要条件」「十分条件」双方を充たして生まれ、建物で埋め尽くされることもなく当初の姿を残している地域の例を見てみます。それは、近世までのあるいは、第二次大戦前の)日本の村・町の姿の名残(なごり)にほかなりません。

 下の地図は、最近、研究学園都市の周辺の「開発」の結果、とみに変貌の著しい筑波山麓一帯が、まだ静かだった20年ほど前の地図です(1/5万地形図 国土地理院より 網掛けは筆者)。

 

 網を掛けてあるところは水田です。水田が東の方へ伸びています。地図でAと記した部分です。このような地形は、東側の山から流れてきた川によってつくられています。

 地図には、北側と南側に東に向う道が2本あります(北側は広く、南側は山道で細い)。いずれも坂道で、鞍部を越えて山向うの集落に至ります。と言うより、地質上、水が流れて鞍部が生まれた、その谷沿いに峠越えの道ができた、と言う方が正しいでしょう(谷にいつも水が流れているわけではありません)。

 このの部分は、何の手も加えずに稲を育てることのできる絶好の場所、天然の田んぼでした。しかも裏山では綺麗な水が湧いています。「必要条件」はそろっています。そのような所を見つけて人は住み着きます。には古代の条里制の水田遺構がありました。

 そして集落は、おそらく山裾の田んぼの縁にあったのだと思われます。と付した東側の「六所」「立野」そして、田んぼの南の「館」などのあたりです。どこも飲み水には恵まれています。   網をかけた水田の北の縁、筑波山の南麓に沿ってほぼ等高線上にと付した集落が並んでいます。この集落内には、北側に自噴する泉水のある庭を設けている家があります。   この等高線のあたりは、筑波山に降った雨水が地下水となり地表近くに表れる地点ですが、等高線のどこでもいい水が得られるのに、と付した集落は連続せずに飛び飛びに並んでいます。

 これは、「必要条件」が揃っていれば、かならずそこに住み着くとは限らない、ということにほかなりません。ここで「選択」が行なわれているのです。そして、その「選択」にあたっての指標になるのが「十分条件」なのです。これは、あたりを実際に歩いてみると直ちに納得します。集落のない場所は、まわりに比べ、それほど気分のよい場所ではないのです。

  東京の近くだったら、所構わず家が建てられると思われますが、このあたりでは、人はこういう「選択」をして住み着いたのです。

 さて、天然の田んぼの容量には限りがあります。天然田んぼだけで暮せる人口には限りがあるのです。そこで次に人が住み着くのは、天然田んぼよりは見劣りはするけれども水田化できる場所です。それは、河川のつくりなした「自然堤防」や「中洲」で、そこに開かれた新たな集落を「新田」と呼びます。地図ではという符号を付けてあります。当然、のような良好な地下水が手近に得られるわけではなく、井戸が頼りですから、井戸の水質のよいところが集落の拠点になります。  には、新たに人が外からたどりついて開いた場合と、周辺の集落から意図的に住み着く「新田」の場合とがあります。後者の場合は、一般に出身の集落名が付けられます(例:「国松新田」)。 

 この地図の範囲にはありませんが、近世になると、政府による大規模の開発による「新田」も生まれます。この開発を実際に差配した人たちを「地方(ぢかた)巧者(こうじゃ)(功者)と呼んでいます。

  このほかに、この地図には見当たりませんが、奈良盆地などで多く見かける「環濠(かんごう)集落」と言われる集落があります(関東平野にもあります)。   これは、さらに条件の悪い低湿地に住み着く方法で、周辺に濠を掘り、その土で居住地をかさ上げするのです。濠が排水先になり、居住地は居住条件がよくなります。当然飲み水は井戸が頼りです。

  以上が、この地域の(多分、各地域の農業集落に共通の)諸相なのですが、1960年代頃から、大きく変ってきます。その要因は、簡易水道の普及です。

 自給体制:農業や商業は早くから大きく変っても、飲み水に頼ることだけは変りませんから、住居の立地は相変わらず集落内でした(「必要条件」とは、人が生きてゆくための条件なのですが、その具体的な姿は時代により変るのです)。    これが簡易水道の普及で大きく変り、居住地が集落の外に出るようになってきます。中には田んぼを埋め立てて、そして住宅メーカーも進出し始めています。集落の「秩序」が大きく変り始めた、と言うより、新たな「秩序」が見出せないまま集落が崩れてゆく、と言う方が当っているでしょう。

 観ていると、その土地での暮し方とは関係なく、単に都会の恰好を追いかけているのではないか、とさえ思います。なぜなら、自然環境はまったく以前と変っていないのに、「都会の環境?」向きのつくりが多く見られるようになっているからです。

「必要条件」は所によって変ることはありません。

 一方で、「十分条件」は地域によって異なって当然なのですが、「各地域なりの十分条件」を考えない「都会風のつくりかた」が農村地域にも現われ始めている、そんな風に思えます。たとえば、きれいな空気に満ちている地域で、開口部を小さく狭くして、「空調」を前提にしたつくりが増えている、などというのもその一例と考えてよいでしょう。

 建物は、その地の「必要にして十分な条件」を備えて初めて、その地になじんだ建物になる、ということを、あらためて認識する必要があるのではないでしょうか。

 以上のように、日本では、当初山裾の湧水点近くに居を求めた人びとは、「必要条件」の獲得技術:井戸の掘削などの利水技術(ダムや水道も含む):の進展とともに、徐々に平地へと進出してきたのです。

  関東平野では、今でこそ東京が「中心」ですが、それは、江戸時代:徳川の世になってからのことです。関東平野に人びとが住み着いたのは、平野を形づくり囲んでいる山なみの山麓、水に恵まれ、自然の可耕地も広がる一帯。とりわけ、平野北部の上州:群馬県(上州・上毛野(かみつけの))の南部、利根川上流左岸のあたりです。   上州の南部一帯は、手を加えないで使える水が豊富でしたから(「大泉」「小泉」などの地名がある)、人が早く住み着き、その中から後の「東国の武士」の祖になる豪族が生まれます。   一帯が古墳だらけであること、時の政府が、官道・「東山道(とうさんどう)」をこの一帯へ通したのも、この一帯の繁栄を物語っています。なお、徳川家も、元をただせばこの地の出です(太田市世良田(せらだ))。    現代の感覚では、「利水」のためには先ず「治水」と考えたくなりますが、最初人びとはまったく逆、「利水」:目の前にある使える水を利用すること:から始めたのです。高崎の標高は80~90m、そのあたりから始まった開拓は、埼玉南部あたりで、標高0mに達してしまい、その水処理の対策として、各種の土木技術が発展する* という皮肉なことも起こります(* 川が川を越える、などという場所もあります)。          

 このように、普段気が付きませんが、日本は、「必要条件を整える術」を用意することがきわめて容易な(いわば特殊な)地域なのです。    「必要条件」が簡単に整えられるため、「都市計画」も簡単に変更可能、その上、「必要条件確保の容易さ」に寄りかかり、「十分条件」を思いやることを忘れた結果、それが今の東京の姿なのです。

 こういうことは、他の地域では普通に見られることではなく、日本という特別な地理的環境ゆえの姿だと言ってよいと思います。当然ですが、世界の他の地域は、すべて日本と同じではありません。

 日本と大きく異なる例を挙げます。    中国西域・敦煌(とんこう)を訪ねたことがありますが、西安(せいあん 古代の長安)から蘭州(らんしゅう)そして敦煌(とんこう)への鉄道沿線で見た風景に強烈を受けました(地名は日本語読み)。一帯はいわゆる「黄土(こうど)高原(こうげん)」。山脈が延々と続きますが、その山肌は赤茶色、日本なら人が住み着くはずの山麓にはまったく人家が見えません。

 この乾燥の激しい一帯では、雨季に山に降る雨雪が地中に深く浸透し、標高最低地点で地表に顔を出す、それがいわゆる「オアシス」ですが(仏像群で有名な敦煌もその一つ)、定住する人びと、その地を居住地に選びます。「人が暮すための必要条件」を、そこでのみ確保できるからです。

 

 黄土高原 世界地図帳(平凡社)より

 オアシスは盆地の底にあるため、昼間は暑く夜は冷えます。日本では人びとが最初に住み着く土地ではありません。   そして、このオアシス以外の場所の居住地としての「必要条件」の整備は、並大抵のことではありません。河川は遥か彼方のため、水路を設けても、大部分の水は目的地にたどりつく前に大地に吸い込まれてしまうからです(西域には、海に注ぐ河川はありません)。水を吸わない材料で水路をつくるか、吸い込まれてもなお流れるだけの大量の水を流すか、蒸発しない地下水路をつくり汲み上げるか・・・・、それは大土木工事を必要とします。東京のようには、簡単にはなり得ないのです。 

 黄土高原の一般的な住居は、次頁の例のように、版築でつくられるのが普通ですが、西域に比べれば降雨量の多い古代中国の中心長安(それでも、日本の約4割:「各地の気象」参照)、現在の西安郊外には、下の写真(撮影筆者)のように、地面に約10~15m角、深さ5mほどの竪穴を掘り、それを中庭:広間として、四周の壁に横穴の房を掘って(すべて手掘り)住居にする例が見られ、窯ヤオトン)と呼ばれ、現在でもつくられています(崖に横穴を掘り房にする例もあります)。   冬暖かく、夏は涼しい快適な居住環境となるようです。  版築は、この土層から学んだ発案だという説もあります。

 

 丘陵の端部:崖に掘られた横穴住居    窯洞1 広間:中庭に別棟の建屋     窯洞2 典型的な例 

 窯洞(ヤオトン)の内部()は下の写真のようになっています。 中国伝統民居建築(台北 美工図書社 刊)より  

   

               

   


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「はじめに,Ⅰー0日本の自然環境」 日本の木造建築工法の展開

2019-02-12 15:17:23 | 日本の木造建築工法の展開

「日本の木造建築工法の展開」   

PDF「はじめに,Ⅰー0日本の自然環境」 A4版11頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 ・・・・
  けだしわれわれがわれわれの感官や 
  風景や人物をかんずるやうに
  そしてたゞ共通にかんずるだけであるやうに
  記録や歴史 あるいは地史といふものも
  それのいろいろの論料といつしよに
  (因果の時空的制約のもとに)
  われわれがかんじてゐるのに過ぎません
  ・・・・
        校本 宮澤賢治 全集 第二巻 「春と修羅」より

 

主な参考資料 原則として、図版には引用資料名を記してあります
季刊カラム №78(新日本製鉄株式会社)  理科年表(丸善)   地震の揺れやすさマップ(内閣府) 注 インターネットで公開   世界地図帳(平凡社)  日本大地図帳(平凡社)   利根川と淀川 小出 博(中公新書) 注 1975年初版 現在絶版
1/5万および1/20万地形図(国土地理院)   滅びゆく民家 川島宙次(主婦と生活社 絶版)   日本の民家3 農家Ⅲ、同 民家1 農家Ⅰ、同 6 町家Ⅱ(学研 絶版)   古井家住宅修理工事報告書(古井家住宅保存修理委員会)   日本建築史図集(彰国社)   日本の美術 №80、№196(至文堂)   奈良六大寺大観 法隆寺一、東大寺一(岩波書店)


 

はじめに  

 今から30年前の1980年(昭和55年)10月、新日本製鉄株式会社の広報誌「季刊カラム №78」に、桐敷真次郎氏(建築史家、東京都立大学名誉教授)が「耐久建築論――建築意匠と建築工法のあいだ――」という一文を寄稿し、建築の耐久性の確保の必要を論じています。
 木造建築の耐久性についても一項目を設けて触れられていますが、この30年前の一文は、いわゆる100年住宅、200年住宅が話題になっている現在こそ、耳を傾けてよい内容と言えるでしょう。
 そこで、木造建築の耐久性について書かれた部分を全文引用紹介します。 
要所をゴシック体(ブログでは太字)にし、傍点(茶色)を振った以外は原文のままです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
木造建築の耐久力
 われわれは、伝統的日本建築には耐久力がないことを無造作に常識化している。これは、鉄筋コンクリート造は耐久力があるという常識の裏返しである。
 しかし、事実はそれほど簡単ではない。日本建築といっても、社寺と住宅とは異なるし、住宅といっても、本格的な書院造や民家と、貸家・建売り・バラックの類とはまるで違う。
 しかし、ふしぎなことに、建物の維持管理には一定の通則があるようで、毎年の点検、10年毎の小修理、30~50年毎の大修理、100~300年で解体修理というのが一般的な手入れの仕方である。社寺・宮殿のような文化財建造物でも、ほぼ似たような数字があげられている。
 ていねいな維持管理をすれば、木造建築の寿命もかなりのものとなるのである。
 わが国の伝統建築では、このような手入れや修理がしやすいような工法が用いられてきた。
 例えば屋根であるが、瓦もタルキもはずしやすいようにつくられている。また柱も、腐りやすい下端部は根継ぎによって比較的簡単に補修できる。日本壁、ふすま、障子、タタミ、押縁下見に至っては、始めから定期的に修理、或は更新されることを前提にしている。適切なメンテナンスと結合されれば、伝統的日本建築はやはり耐久建築なのである。
 これに対して、現行の木造建築は、始めから耐久性を放棄しているように見える。当座の強度だけを問題にし、しかも、それを法的に、或は技術的に正当化しているのである。
 まず柱が4寸(12cm)角以下でもよい、10㎝角でもよいと、むしろ伝統規格より弱化させている。これは構造的な面ばかりでなく、建具のおさまりが無理になるという点からも改悪であろう。
 まして、耐久力の劣る外国材を用い(原註)、合理化と称して柱数を最小限にすれば、耐久力は更に落ちる。柱を細くした結果、厚いが通せず、代りに筋違い(すじかい)を奨励した。これも柱の上下を切り欠き、桁を突き上げ、結局金物を使えという結果になってしまう。
    原註 これは現在(1980年当時)輸入されている外国産木材のことで、伝統的西欧建築に用いられているオーク材は300~500年の耐久力がある。
 金物を多用せよというすすめには、始めは心ある大工たちが強く反抗した。金物をできるだけ用いないことがよい仕事のしるしだったからである。
 日本では「釘を全く使っていない」というのが、建物の優秀性をあらわす表現だった。釘を全く使わない木造建築などあるわけがないが、金物をやたらに使ってようやく立っているような木造建築は下等であるという事実はよく表現されている。
 更に、防火性を高めると称してモルタル塗りを奨励したが、モルタル塗りの厚さが薄すぎて、亀裂による浸水が軸組を傷めてしまう。モルタル塗りは少なくとも3cm以上の塗厚がなければ耐久性がなく、日本でも大正・昭和初期にはそのように行われていた。
 また最近は、断熱性を高めると称して、壁のなかにやたらに詰物をすることが流行している。軸組が早くむれて早く腐るほうがよろしいとしているような状況である。
 どんな建物にも布基礎と土台を入れるという実務も耐久力を落している。布基礎にボルトで緊結された土台は、腐朽してもまともに入れ替えることができない。そのうえ、一般に行われている布基礎の規格程度では、不同沈下を起こしやすく、起こしても直しようがない。せめて土台だけは檜の4寸角としたいが、そのようにしている住宅を見ることは殆どない。わずか2間か2間半のスパンに鉄梁を組み込んでいる住宅などをみると、わが国の木造建築の衰退堕落もここまできたかと痛感するのである(引用者註 この部分は、1980年当時の基準や状況を基にしての言である)
 屋根を軽くせよという一言で、鉄板葺きを流行させたのも同じ傾向である。正直に見れば、今日でも瓦にまさる葺材はないことが誰にもわかる。鉄板葺きのメンテナンスの苦労と費用を考えれば、瓦葺きの維持の楽なこと、耐候性、雨音防ぎ、落着きと重厚さなど、多くの長所が明らかである。
 第一、瓦葺きであるか、ないかで、大工の評価や意気込みがまるで違う。鉄板葺きであるというだけで、心ならずも気が入らず、手を抜いてしまうのである。しかし、瓦葺きが断然すぐれているという建築家の発言を聞いたことがない。確かに鉄板葺きは勾配をゆるくできるので、屋根のおさまりが楽になる。だが、緩傾斜の屋根は台風に弱い。風による屋根の吸い上げや、軒先のあおりを防ぐため、またしても手違いカスガイなどの金物でタルキを留めなければならない。雨押えを鉄板でするのも悪いプラクティスのひとつである。雨押えの取り替えは容易でないから、当然銅板を標準工法とすべきであるのに、銅板をぜいたく品のようにみなすのはおかしいのである(引用者註 この部分も、1980年当時の基準や状況についての言) 
 どの国のどの時代にも、一般建築の良心的な規格や標準工法というものがあるが、以上のような明々白々たる技術的低下、水準の引下げを公然と行い、それを進歩と考えている国は、残念ながらわが国ぐらいしか見当たらない。
 もちろん表向きの理由には、耐震性と防火性能の向上という大義名分がある。布基礎を入れ、土台を入れボルトで緊結し、金物を多用し、屋根を軽くすれば、確かに耐震性能は上る。しかし、所詮たいしたことはない。モルタルを塗り、鉄板や石綿板で蔽えば、確かに防火性能は高まる。しかし、これもたいしたことはない。耐震防火のためだけに、耐久力と意匠を犠牲にしているからである。
 建築にとって、耐震・防火・耐久力・意匠のいずれも大切な項目である。
そのなかで、むかしから「便利・耐久力・意匠」といわれている建築の三大項目の二つまでを犠牲にして耐震防火を達成したところで、建築学の進歩とはとうてい言い得ない。現に日本住宅の建築的水準は、設備・備品を除いて、史上最低のみじめさに低迷している(引用者註 1980年代の状況)。
 ローコストの住宅を提供するという名目は、社会的にはいかにも立派で、大衆にはアピールするかもしれないが、建築的には良心的ではない。建築は高価なものだから、より耐久力があるようにつくるという方がよほど健全である。このように考えれば、現代といえども、それほど多種多様の工法が残るわけではない。良心的で健全な建てかたとは、かなり限られた手法となるはずである。これが意匠にも反映する。健全な工法から生まれてくる意匠だけが健全なのである。日本の木造建築の再生はそこからしか現われないだろう。しかし、そうした耐久建築の研究がどこかで行われているという形跡さえ、いまは全くないのだ(引用者註 現在の状況は、1980年代よりも更に悪化しています)

 

Ⅰ-0 日本の自然環境・・・その特徴

1.日本の地形・地質 

 縄文期は、東北日本(関東以東)が西南日本に比べ栄える。
弥生期になると、逆転し、西南日本が栄えるようになる。
この変化は、地質、地形、地勢の違いが影響していると考えられている。                                                                

 

 

    

大地形区  A1 北海道主部内帯   A2 北海道主部外帯   B1 東北日本弧内弧   B2 東北日本弧外弧   C1 伊豆小笠原内弧   C2 伊豆小笠原外弧   D1 西南日本内帯   D2 西南日本外帯   DC1 中央日本西帯(中部山地)   DC2 中央日本東帯(関東)  E1 琉球弧内弧   E2 琉球弧外弧   日本の地形区分理科年表2006年版(丸善) より


  東北日本の地質は第三紀、四紀の若い岩層が多く、西南日本では古生層、中生層、花崗岩類などの古い岩層が多い。また、東北日本では第三紀以降、火山活動が激しく、それに関連し、第四紀層の広大な平原が発達する(関東平野など)。

  つまり、日本列島の地質は、西南日本は古い岩層でできているのに対し、東北日本は、この古い岩層の基盤の上に、新しい岩層が堆積したもので、その過程で起きた火山活動にともなう噴出物がさらにその上を覆っている(関東ローム層など)。東北日本の山間部に地すべり地域が多いのは、そのためである。

 この両地域の地質の特徴は、畑地の面積に示される。すなわち、畑地は東北日本の方が多い。 出博著 利根川と淀川(中公新書) より
  

 


2.ランドサット画像による日本の地勢  日本大地図帳 1994年版(平凡社)より
[ ランドサット画像の色 ] 東海大学情報センター 中野良志氏の解説による
 樹林や草で覆われているところ:明るい赤       裸地が増えまたは枯れ始める:ピンクや白っぽい肌色     乾いた裸地や稲刈り後の水田:白く明るく見える    火山の山頂などの裸地:濃い青    水の張られた水田や都市:暗い青~青系の色      紅葉時の森林:黄色    都市:中心部が濃い青で、周辺部は淡い青になる。 都市の青の中の赤は公園や緑地    雲:白く、黒い影が北西側にある  雪:白い

 

 

 

 


3.気候・・・・各地の気象 理科年表2006年版(丸善)より抜粋

 

 奈良と西安では、平均気温、平均湿度は大差ないが、年間降水量が著しく異なる(西安は奈良の約40%)。

 

 

 4.地震
a 地震の伝わり方 地震の揺れやすさマップ(内閣府)より 

 地震の揺れ方は、表層地盤の状況によって異なります。
 建物を建てるにあたって、建設地の選定が重要である理由の一つです。

 

b 表層の揺れやすさ 地震の揺れやすさマップ(内閣府)より

 

 


 参考 表層の揺れやすさと微地形区分(東京都の場合) 地震の揺れやすさマップ(内閣府)より 

                         

 

 

 東京地方のランドサット写真(6頁)と、上記2枚の区分図(地震の揺れやすさ、微地形)とを対比すると、現在の東京では人口が極めて揺れやすい地域に集中していることが分ります。

 

c 日本の地震源の分布  理科年表2006年版(丸善)より

 地震の震源と地質・地形が大きく関係していることが、5頁の地質構造図、地形区分図との対照で、分ります

 建物の地震への対応は、全国一律ではなく、建物の建つ地域の特性に応じて勘案するのが妥当な方策と言えるでしょう。   来、日本では、それぞれの地域の特性を十分認識して、その地域なりの方策を採っていたと考えられます。   地盤の悪い土地に建てる建物と、良い土地に建てる建物とを、同じに扱うと不合理な点が多々生じることは明らかです。

考 世界地震分布図  理科年表2006年版(丸善)より  

 

 

 


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「日本の木造建築工法の展開 目次」

2019-02-12 15:16:47 | 日本の木造建築工法の展開

  故人下山眞司が、2010年に最終的に1枚のCDに納めた「伝統を語るまえに 知っておきたい日本の木造建築工法の展開 私家版 日本の建築技術史」 全約260頁があります。

 原稿はワードで編集されCDに納められています。

 このブログのカテゴリー「日本の建築技術の展開」「日本の建物づくりを支えてきた技術」を始めとした多くの記事の「元原稿」ともいえるもので、当時このブログを通してご希望の方にお送りしたことがあります。

 これは、1990年代に依頼を頂いた(一社)茨城県建築士事務所協会主催の講習会を毎年開催する中で、改稿を続け、講習会終了後にさらに手を加えて最終的なものとなりました。

 この全260頁あまりを、小節に分けて、掲載を始めさせて頂きます。  各回ごとにワードをPDFに変換したものにリンクをかけます。

 内容的には、すでにこのブログに掲載されている資料が多く、またそちらの方が自由に書かれ詳しくなっている場合もありますので、もの足りない部分もあるかとは思いますが、「木造建築の歴史、木造建築の技術の歴史」という「流れ」の中で捉えて頂けたらと思います。

 下記がその「目次」になります。  故人のCD内には目次がなく、卒業生のお一人が「目次」を作って下さいました。 (ページ数の入った目次は、最後にもう一度掲載致します。)

PDF「日本の木造建築工法の展開 目次」A4版3頁

     

      

    

  全体の量が多いので、また筑波通信等の掲載もありますので、全掲載には時間がかかると思いますが、どうぞよろしくお願い致します。

                                       下山 悦子

 


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