私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

エリトリアの人々に幸あれ(3)

2015-01-07 15:36:20 | 日記・エッセイ・コラム
 アンドレ・ヴルチェク氏の『エリトリア:帝国主義者にとってのイデオロギー的エボラ出血熱』の翻訳を続けます。
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 エリトリアのことはなかなかよく分からない。しかし首都アスマラのそとでは何もかもが露呈している。何も隠せない。貧困とそれを根絶しようという英雄的な試みが、私の眼前にある。農民たちが懸命に働いている;多くの道路と電力線網が建設中だ。
 しかし、反エリトリアの西欧側宣伝は余りにも強力で、私さえも、自分自身の目で現実を観察することに集中する代わりに、たびたび西側の宣伝文句を頭の中に呼び戻していることに気がつく。しかも私はプロフェッショナルだ:私はこれまで西欧の洗脳情宣活動を暴くことに生涯を捧げてきたのだ!
 私はムービーを撮り、シャッターを切る、私のレンズを通して真実を捉えるために。
 ほんの数日経つうちに、大変はっきりとした描像が立ち現れてきた:エリトリア;アフリカのキューバ -自らの足で立っている国。
 エリトリア-誇り高き決然たる国家、それは、独立を求めて30年の長い間戦い、その過程で、苦難の闘争の間に何千何万の息子たち娘たちを失った。
 エリトリア-独特の平等主義的発展モデルに基づき、その国民の福祉の為に絶え間なく働き続ける国。
 エリトリア-その市民を米帝国とその企業の勝手気儘に委ねようとしない国。
 これら全てはロンドンとニューヨークから発せられるプロパガンダと真っ向から食い違う。そのプロパガンダは、この国に泥を塗りたくり、この国を、東アフリカのテロリスト・グループを支援し、自国の市民を抑圧し、あらゆる“人権”を踏みにじっている国だとする。
 この旅行、西欧がおそらく世界中で最も他国から孤立している国として描いている国の中を巡る私の真実追究の旅に、その真相を求める私に伴ったのはたった三人、ミス. ミレーナ・ベレケット(アスマラに拠点を置く独立の調査と奉仕活動シンク・タンクである“アフリカ戦略(African Strategies)”の理事)、現地人のカメラマンであるアズメラ、それに車の運転手、の三人だった。
「アフリカ戦略」はエリトリアでの私の接待役を務めたが、実際上は、私の要請に応えて、インタヴューや私が行きたいと言う場所への交通手段を取りはかったりしてくれた。我々は肩を寄せ合わせて一緒にプランを立てた。「アフリカ戦略」は、2011年にオンラインで立ち上げられた独立の調査研究シンク・タンクで、始めは-ほぼ専ら-アフリカ東部のアフリカの角と呼ばれる地域、とりわけエリトリアに関する、事実に基づいた局地的な情報を求めるディアスポラ(国外移住者)たちやヨーロッパ大陸に生活の拠点を持つエリトリア人、また他のアフリカ人たちの、増大する要求に対応するために創られたのだった。
 比較的短時間に、私はエリトリアの3つの地域(ゾーン)を訪れることができたし、もし時間があったなら、6つ全てのゾーンを訪れることも叶ったであろう。現実としては、この国での8日間、私は殆ど眠る暇もなかったのだが、私は、山岳地帯の村々からの人たちや港町マッサワからの人たちに会い、数人の傑出した若い知識人たちと円卓会議を持ち、また、エリトリアの政治と発展モデルについて、教育保健省の官僚たちや、以前の解放闘争の戦士たちや、また、エリトリアの外交官とも討論した。
 私の経験した出会いは全てが自然でリラックスしたものだった。エリトリアの人々は教育程度も高く、よく物を知っている。我々の政治論議は開放的でしばしば熱がこもった。私は自分の目が信じられない、いやもっと正確に言えば:この国について語られている嘘の酷さが信じられない。

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 ホテル・アスマラパレス(前のインターコンチネンタル)で、私は著名なエチオピア人著作家で学者のモハメド・ハッサン博士と会見した。以前、彼はワシントン、北京、ブラッセルで外交官を務め、また過激なベルギー労働党の国会議員でもあった。今は、かなり長い時間をエリトリアで過ごしている。エリトリアは彼の心に、彼の思想的信条に強く結びついているのだ。
 形式的な挨拶はそこそこに、時を移さず、我々は力を合わせて、討議の撮影や録音に取り掛かった。ハッサン博士は、単刀直入に、彼の明確な論題主張を述べた。:
“私は「アフリカの角」と呼ばれる地域の出身であり、それで、エリトリアの視点というものを、彼らの闘争時代から、よく分かっていました。彼らの闘いはエリトリアの国家的独立闘争であっただけではなく、「アフリカの角」地域の独立のためでもあったのです。確かに、エリトリアの人々の自由への強い希求は昔から否定されていて、彼らの独立に至る大変長い道に踏み出さなければなりませんでした・・・その敵を打ち負かすのに30年かかりました・・・その敵とは私の国-エチオピア-でもあったのであり、エチオピアは多くの強大な力によって支持されていました・・・ある時はアメリカ合州国と他の全ての西側諸国・・・次にはイスラエルもエリトリアと戦う特殊部隊を送り込みました。闘争は1991年に終結し、我々みんな一緒に新しい「アフリカの角」を、兄弟姉妹としての平等に基づき、我々お互いの間に何の身分の隔たりもなく建設することになるだろうと思ったのでした・・・それは1991年のことで、思うに、我々のこの地域が持ったことのなかった最上の時でした。エリトリアは隣国エチオピアの支配政権を打ち負かし、エチオピア内の革命家たち;つまり我々のような者たちを支持していたのでした・・・当時、エチオピアでは大きな変化が起ころうとしていました。この地域の経済活動が一体化され、我々は民族間に新しい相互関係が出来上がるだろうとおもったのでした。・・・”
 しかし、そうはならなかった。ハッサン氏が回想したように、巨大な世界的変化が生じたのだ。ソヴィエト連邦が消滅し、力の均衡が一方に偏ってしまったのだ。
 ハッサン氏の話は続く。:
 “突然のことだったが、アメリカ合州国で、ペンタゴンの重要高官の一人が、アフリカをどうすべきかについての彼の覚書と了解事項を‘パラメターズ’という軍事雑誌に発表しました。それはアフリカについてのアメリカ合州国の関心事業を記述したもので、アフリカは4つの地域に分けられて論じてありました。一つは南部アフリカと呼ばれるようになる地域で、南アフリカからコンゴに及ぶ巨大な広さで、鉱物資源に溢れ、ここはアメリカ合州国の軍部とアメリカ合州国の企業にとって極めて重要な地域でした。・・・2番目の地域は「アフリカの角」であり、これは、東部アフリカと、それから、‘広域中東(greater Middle East)’とに統合されることになっていました。広域中東とは、後日、G. W. Bush が作り上げようとした地域です。アフリカの角に置かれた西側の軍事基地は中東やアフリカの他の国々に何時でも軍事介入が出来るようにするためのものでした。・・・”
 3番目の地域は西部アフリカで、北米大陸の石油需要を満たすべき石油資源に豊かな地域、第4の地域はエジプトからモリタニアに至る北部アフリカであった。
 この4つの地域は、勿論、すべて西側によって完全にコントロールされるべき地域と考えられていた。
 “この論考が出版された直後、当時クリントン政権の国家安全保障顧問の一人であったアンソニー・レイク氏は‘アンカー国家(中核的国家)’と題する理論を発表しました。彼もまたアフリカ大陸を4つに区分して、4つの‘アンカー国家’を定義します。(1)南アフリカ、南部アフリカ担当;(2)エチオピア、アフリカの角担当;(3)エジプト、北部アフリカ担当;(4)ナイジェリア、西部アフリカ担当…これからすぐ後、ナイジェリアはシエラ・レオーネとリベリアに軍事介入し、エチオピアも、その役を引き受けて、アフリカの角地域での西側の侵略政策の基地になったのです。”
 エリトリアは決して初心を失わなかった。エリトリアは決してこの地域での帝国主義者のゲームを受け入れなかった。アフリカの角地域における、国家的独立、相互不干渉、軍事基地排除の諸原理、そして、新しいアフリカの角地域を建設する願望の故に、この地域での米欧の支配に真っ向から立ちはばかることになったのだ・・・ハッサン博士によれば、これら全ては、列強によって‘有害’とみなされた。これが、エリトリアは排除すべき国家だと同定された理由である。

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 キューバに対する貿易禁止は、米帝国が何処までやる氣があるかを示す大変よい事例である。他の例としては、アイェンデ大統領の社会主義政府のもとでのチリーの‘経済に悲鳴を上げさせる’やり方、キッシンジャー氏や企業首脳によれば、アイェンデは中南米全体のみならず、遠く地中海諸国にさえも、極めて‘悪い影響’を与える人物であった。或いは、独立心に富むスカルノ大統領の統治時代にインドネシアに対して行われたように、直接の軍事的攻撃も考えられる。
 インドネシア(1965年)とチリー(1973年)は両方とも西側が周到に企画したクーデターによって、両国とも血まみれになった。チリーは近頃やっと立ち直ったが、インドネシアは駄目になったままだ。キューバは、比類のない決意と勇気によって、頑張り抜いたが、大変な犠牲を払うことになった。
 そして、エリトリアもまた同じことなのだ――外からの、絶え間ない、政府転覆の企み、攻撃、プロパガンダ、貿易封鎖、挑発に対抗してキッパリと闘い続けている。
 これが、エリトリアが“アフリカのキューバ”としばしば呼ばれる理由である。或いは、ヴエトナムになぞらえるか、キューバとヴェトナムの両方になぞらえるべきかもしれない。しかし、もっと正確に言えば、エリトリアはこれまでそれ自身の抵抗のモデルを発展させて来た。その勇気と、その闘争は独自のものである。土地柄も全くユニークであり、人々も自らの独自さを誇りにしている。
 しかし、はたしてエリトリアは生き残れるだろうか?それよりもっと大きな、もっと豊かな、リビア、イラク、シリアといった国々が、一つ、また一つと倒されている。その理由は、帝国勢力が、これらの国はその国民にあまりに多くを与え、帝国の企業にあまりにも少なく与えていると断定したという、ただそれだけなのだ。

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 “我々は箱につめこまれたくありませんね”、私が「エリトリアは社会主義者の国ですか?」と聞く度に、何度も繰り返し、こう返事が返ってくる。
“ギネア-ビッソ出身のアミルカー・カブラルですが、カブラルはいつも言ったものです:‘我々が実地にやっていることに基づいて我々を判断して下さい’とね。同じことがエリトリアについても言えます”、とエリアス・アマーレは私に言った。アマーレはエリトリアの最高級の作家、思想家の一人であり、また、‘アフリカの角の平和建設センター’の上級特別研究員でもある。
 エリトリアの指導者のほとんど、思想家のほとんどは、マルクス主義者であるか、或いは、少なくとも社会主義の理想に強い親近感を持つ人々である。しかし、ここで社会主義が語られることは殆どなく、赤色の旗も滅多にお目にかからない。エリトリアの国旗がすべての活動の中心にあり、独立、自立独行、社会的正義、団結が国家のイデオロギーの基礎的支柱と言ってよいだろう。
 エリアス・アマーレは言葉を続ける:
“国連の‘ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals)’で、エリトリアは成功をおさめ、目覚ましい成果を挙げています。とりわけ、全国民が無料で初等教育を受けられることを保証し、女性の解放とあらゆる分野での男女平等を保証しました。保健医療の面では、幼児死亡率の劇的な減少を達成し、同時に、妊産婦の死亡率も減少しました。こうした点で、エリトリアはアフリカでお手本と見做されています;これほどの成果を挙げた国はアフリカにはほとんどありません。ですから、エリトリアが直面するあらゆる妨害にもかかわらず、状況は前向きです。”
 “エリトリアは国家独立の道行きを続けています。それは国家的一致団結を築き上げることに進歩的な見地を持っています。エリトリアは多人種、多宗教社会で、9つの人種グループと2つの宗教:キリスト教とイスラム教、を持っています。二つの宗教は調和的に共存しています。そして、それはもっぱら、エリトリアの社会が育んできた寛容な文化のおかげです。人種的グループや宗教的グループの間に摩擦や敵対感情は存在しません。政府も国民もこの国家的一致団結を保つのに熱心なのです。”
 これはアフリカの他の国々とまるっきり対照的だ。人種的そして宗教的軋轢がスーダン、ケニヤ、コンゴ、ウガンダ、ルワンダ、その他多くの国々を荒廃させている。その背後には、しばしば古い植民地主義や新しい植民地主義が控えているのだ。
 エリトリアが成し遂げたことは何か小さな成果ではなく、本格的なブレイクスルーなのである。
 「では、なぜ米欧はエリトリアのやり方にひどく攻撃的に反対するのか?」と私がエリアスに尋ねると、彼はこう答えた。:
“これに就いては、ノーム・チョムスキーの前からの見解に賛成です。それは次のようなものです。:一つの小国が国家的独立の道を進むことを試み、そして、その発展の見込みがはっきり付いてくると、西側の国々はそれが気に入らない。彼らは彼らの‘従属国(client states)’が欲しいのだ。グローバルな資本主義的権益に服従する国が欲しいのだ。・・・エリトリアが成し遂げつつあることは、すべて、西側の帝国主義国家の目には、ダメ-ダメ-ダメヨ、なのだ。彼らは,世界銀行、IMF,WTO,などなどの理不尽な命令に従順なネオ・コロニアル政権が欲しいのである。”

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<訳者注>この論考(現地報告)はまだまだ続きます。読者は先刻お気づきでしょうが、ある国の独裁者が、自国の民に無償の教育と医療を与え、自国の資源から得られる収入でその費用を賄おうとすると、米欧は、ほぼ必ず、その国に襲いかかって、暴力的にその政府を打倒しようとします。キューバ然り、サンカラのブルキナ・ファソ然り、リビア然り、そして、このエリトリアもそうです。ボリビア、ベネズエラ、北朝鮮も大いに気になります。後日改めて考えてみるつもりです。

藤永 茂 (2014年1月7日)
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