私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

What’s wrong with you, Dr Watson?

2007-10-24 09:59:48 | 日記・エッセイ・コラム
 シャーロック・ホームズの親愛なるワトソン博士ではありません。1953年フランシス・クリック、モリス・ウィルキンスの協力者として、DNAの二重らせん構造を解明したジェームズ・D・ワトソン(79歳、シカゴ生れ)です。この三人は1962年にノーベル生理学、医学賞を共同で受賞しました。
 ロンドンの新聞タイムズの「サンデー・タイムズ・マガジン」10月14日号に出たインタビュー記事の中で、ワトソンは白人と黒人は知的能力に差異があると発言しました。まず、その記事の関係部分の原文を書き写します。
He says that he is “inherently gloomy about the prospect of Africa” because “all our social policies are based on the fact that their intelligence is the same as ours ? whereas all the testing says not really”, and I know that this “hot potato” is going to be difficult to address. His hope is that everyone is equal, but he counters that “people who have to deal with black employees find this not true”. He says that you should not discriminate on the basis of colour, because “there are many people of colour who are very talented, but don’t promote them when they haven’t succeeded at the lower level”.
ワトソンが“アフリカの将来の見通しについて、もともと悲観的な”理由は、“我々のすべての社会政策は、アフリカ人が我々と同じ知能を持っていることを前提にしているけれど、テストをやってみると、そうではないという結果ばかりだから”というのです。黒人を雇ってみればすぐ分かるとも彼は言います。
 「白人と黒人では知能に差がある」というワトソンの発言自体には何らの新味もありません。一世紀前のコンラッドの『闇の奥』のはじめの所に、会社の医者がマーロウの頭の寸法を測る場面があります。「それから、あらたまって気を入れた調子で、僕の頭の寸法を測らせてはもらえないだろうかと頼むのだ。いささかびっくりしたが、ええいいですよと言うと、彼はコンパスのような二脚の道具を持ち出してきて、後部、前部、あらゆる工合に僕の頭の寸法をとって、注意深くノートに書き込んだ。」(藤永33)。同訳書p210の訳注(20)には「18世紀と19世紀に栄えた頭蓋学(craniology)や頭蓋計測学(cranimetry)は、頭蓋骨の容量の大小や形状から白人の人種的優越性を主張した、ニセ学問、インチキ科学の標本のような偏見、詐欺行為だった。」と書いておきました。コンラッドは優れた文学者としての直感から、こうしたエセ科学のうさん臭さを察知し、それをわらいたかったのでしょう。現代のIQ(知能)テストはそれよりはましでしょうが、まあ、老化防止の頭の体操の材料ぐらいに思っていた方が安全です。ヨーロッパの植民地支配に関連して、白人がどんなナンセンスを口にし、筆にしたかについては、有り余るほどの文献が存在しますが、ここでは、エメ・セゼールの『植民地主義論』(砂野幸稔訳、平凡社ライブラリー)をお薦めしておきます。そこに書かれていることの時代的限界などは全く無視して、この偉大な詩人の怒りの荘厳さに感動しましょう。
 今回のスキャンダラスなワトソン発言は大きな話題になっているようで、Wikipedia の「James D. Watson」の項には、既に、詳しい記述と関連文献が出ています。上述の通り、「白人と黒人の知能差」の問題には、私は興味がありません。しかし、ワトソンの「アフリカ観」については言いたい事が山ほどあります。それはこのブログを通じてゆっくりと論じて行くことにします。本日、ここで特に取り上げたいのは、ワトソンの「人種偏見」発言に対する公的機関や個人の反応です。ウィキペディアを利用して30~40のitemsをチェックしてみましたが、私の個人的な感じ方と合致するものはありませんでした。それを以下に申し上げて参考に供します。
 私を最も苛立たせるのは、白人エスタブリッシュメントの“極めて迅速適切な”反応です。アメリカのカーネギー研究所組織に属するコールド・スプリング・ハーバー研究所は百年以上の歴史を誇る研究教育施設で、ワトソンは35年間その所長(プレジデント)をつとめ、その後名誉所長(チャンセラー)になっていましたが、10月14日のサンデー・タイムズの記事が出ると、研究所の理事会は直ぐに(17日)ワトソンの「人種偏見」発言内容に反対であることを表明し、18日には、ワトソンを名誉所長の地位からはずしました。この処置、その素早さ、いわゆるポリティカリー・コレクトな行動のお手本と言えましょう。この決定を下した理事たちの裏の会話が、私の耳には聞こえてきます。:「ジェームズの言う通りなんだけど、あんな所で言っちゃあ、まずいんだなあ」「いつものジェームズ節、舞い上がったホコリもそのうちにおさまるさ」・・・。19日にはロンドンの科学博物館で予定されていた講演会も博物館側によって中止され、エディンバラ大学も22日の招待講演会への招待撤回、24日に予定されていたブリストルでの切符売り切れの講演会もキャンセルされました。この機会を捉えて、間髪を容れず、「黒人差別」糺弾の大見得を切る英国紳士たちの頭の回転の早さ、カッコよさ。こうまで見せつけられると、私としては、つい、200年前に、奴隷制廃止運動で颯爽と世界の先頭を切った大英帝国の「魂のなかの嘘」のはしっこさを思い出してしまいます。
 20年以上前になりますが、人種差別の問題について書いたことがあります。今は絶版ですが、『おいぼれ犬と新しい芸』(岩波書店、1984年)の第11章「人間を測りそこねる」です。私の考えは、そこに書いたことから一歩も動いてはいません。最後の2頁ほどを以下に書き写します。
■ 雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』の最近号(1982年12月号)にフランスの四人の学者の共同研究が報じられていて、それはジェンスンらのとなえる遺伝決定説をくつがえし、IQが環境によってはっきり変わることを確認した、としている。このような研究結果は、黒人は白人よりもともと知能が低いのだからアメリカ社会の下層を占めるのが当然である、とする主張に打撃を与える意味で、歓迎すべきものであろう。しかし、こうした研究成果を前にして、私の心は必ずしも晴れない。もし将来、全く同一の環境条件の下でも、やはり、黒人のIQ値は白人のIQ値より低く出ることが確立されたら、白人による黒人の迫害が許されることになるのか。
 二十年ほど前のことになる。私はアメリカ東部への旅行の途次にカリフォルニアのサンホゼの旧友のイタリア人C氏の家に一泊した。あいにく急用が持ち上がってC氏は外出しなければならなくなり、「先に寝ていてくれ。話は翌朝」ということになった。広い家の中で、若い奥さんと私の二人きりになってしまった。奥さんは東洋人の私を前にして、努めて話題をさがしている様子だったが、白人と東洋人では体格に差異ががあるようだが、これは食物その他の環境的条件の差異によるものだ、といいだした。やはり、もともと差異があると思う、と私がこたえると、彼女は次のような話を始めた。現在のアメリカの十種競技のチャンピオンは、UCLAの中国人学生である。十種競技こそ人間の肉体的総合能力をもっとも適切に測る競技だから、アメリカで育ったこの中国人がその第一人者であるという事実は、黄色人種でも白色人種に追いつき凌駕できるということの何よりの証拠だ。したがって人種偏見というものは全くまちがっている・・・・。彼女が、熱を込めて人種差別反対を強調すればするほど、私の気持は沈みっぱなしになるのをどうすることもできなかった。もし、どうしても差があるということになれば、現在の人間の社会にみちみちている残酷な差別は許されることになるのか。「猿にも、チンパンジーとかゴリラとかオランウータンとか手長ザルとか、いろいろいます。人間にもいろいろ毛色の違ったのがいたっていいじゃありませんか」。わたしはそう言ってソファから身をおこし風呂を使わせてもらうことにした。
 宮沢賢治の名作の一つに『虔十公園林』がある。虔十は昔の言葉でいえば、馬鹿、精薄である。「雨の中の青い薮を見ては、よろこんで目をパチパチさせ」、「風がどうと吹いて、ぶなの葉がチラチラ光るときなどは、虔十はもううれしくてうれしくて」、ひとりでに笑えて仕方がなかった。その虔十がある日とつぜん母親に杉の苗を七〇〇本買ってくれとたのんだ。家のうしろの野原に植えたいというのである。父親が答えた。「買ってやれ。買ってやれ。虔十あ今まで何一つだて頼んだことあ無いがったもの。買ってやれ」。やせ地で杉はのびなやみながらもすこしずつ育っていたが、ある日、隣の意地悪な平二が自分の畑が日かげになるとして、「伐れ、伐れ」と迫った。たいして迷惑を受けていたのではない。この理不尽な要求に対して虔十は「伐らない」と返答する。「実にこれが虔十の一生の間のたった一つの人に対する逆らいの言葉だったのです」。間もなく虔十も平二もチブスにかかって死んでしまう。しかし若い杉並木は子供たちのよい遊び場になり、立派な林になる。ある日、昔、その村から出て、アメリカのある大学の教授になっている若い博士が、十五年ぶりで故郷へ帰ってきた。なつかしい虔十の林を訪れたその男に「ああまったくたれがかしこくて、たれがかしこくないかはわかりません」と賢治は言わせている。まったくその通りだと、私も心の底から思う。そして、この年になっても『虔十公園林』を読み返して、賢治の仏心を慕うのである。■
 ジェームズ・D・ワトソン博士と虔十と、どちらが賢いか。一考の価値があります。ともあれ、もし宮沢賢治の『虔十公園林』をお読みになっていないのなら、是非お読み下さい。上記の私の拙い要約は、原作の美しさ、凄さの“さわり”の役さえ果たしていません。
 取るに足らない知能指数の値の違いなどが問題ではないのです。人間が人間をどう扱うか。これが問題なのです。もう一度、エメ・セゼールの声に耳を傾けましょう。
■「ヨーロッパ」は道義的に、精神的に弁護不能<indéfendable>である.■

藤永 茂 (2007年10月24日)



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3 コメント

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藤永様。 (村田信一)
2007-10-30 00:18:08
藤永様。

著書 「闇の奥」の奥 を拝読させていただきました。
大変優れた著作だと思います。
私は、フォトジャーナリストをしております。
アフリカやアラブ世界を主なフィールドとして撮影、取材を続けており、アフリカのコンゴ、ルワンダ、ソマリア、シエラレオネなどにも何度か足を運んでいます。
モブツ政権崩壊、ルワンダの大虐殺もこの目で見ました。
が、その故に理解できないことや不条理に対する怒りなども多々あります。御書が、その疑問や問いにかなり答えてくれましたし、またこれからもより取材を続けなければいけないという思いを深くしました。
 私は写真を主な手段として伝える、表現するのが仕事ですし、それを自ら選びましたが、昨今の大メディアのアフリカやアラブ世界に関する無知、偏見には驚きを通り越して失望を憶えます。とともに、やるべき事も多いと思っています。
 こちらのブログ、本日初めて拝読させていただきましたが、これからも訪ねさせていただきます。
 機会があれば、是非お話を伺いたいと思います。
とりあえず、素晴らしい本を読まさせていただきましたことを、感謝します。ありがとうございました。

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村田信一様 (藤永 茂)
2007-10-30 16:35:57
村田信一様
ご親切なコメントをいただき、有難うございます。
『大メディアのアフリカやアラブ世界に関する無知、偏見」を嘆いておられますが、彼らは本当に知らないのでしょうか?
村田さんのような優れたフォトジャーナリストの方々が私たちに示して下さる一枚のアフリカの、あるいは、パレスチナの一老婆の表情写真から読み取れるものの重さ、深さを思うと、マスメディアで働く感性豊かな若い記者さんたちにその真実が見えない筈はないのではありませんか。だとすれば、メディアが示す「無知と偏見」は意図的なもの、操作されたものと思わざるをえません。
あきらかに危険な現場に身をさらすのは、大きな勇気が必要でしょう。御身の安全を心からお祈りします。 (藤永)
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 「白人と黒人とで能力の差はあるのか?」「アフ... (桜井元)
2013-08-11 00:20:21
 「白人と黒人とで能力の差はあるのか?」「アフリカが停滞するのは黒人がダメだからなのか?」-。植民地から解放独立して半世紀も経過するのに、豊かな白人社会と貧しいアフリカ「失敗国家」という対比を見せつけられると、人種差別や人種偏見の持ち主と見られるのを恐れつつ「もしかしたらやはりそうなのかも…」と思ってしまう人がけっこういるかもしれない。藤永先生はこの大いなる誤解の蔓延を強く危惧されました。

 藤永先生はこれまでこのブログの中で、リベリアの歴史・シエラレオネの歴史・コンゴの歴史などを丹念に解説してくださり、奴隷貿易・植民地支配・独立後なおも構造化された旧宗主国による介入支配の数百年にわたる歴史をたどり、ハイチやキューバをはじめ中南米でも同じことが言えること、エドゥアルド・ガレアーノ『収奪された大地―ラテンアメリカの500年』(原題「ラテンアメリカの切り裂かれた血管」)にも触れ、個々の歴史をていねいに解説してくださいました。そしてそうした埋もれた(なかなか光を当てられない)歴史の部分の実証をとおして、先の人種能力説に対して厳しく反駁されました。

 「白人との邂逅後、黒人社会はなぜ停滞したのか、停滞の原因はなんなのか?」-。松本仁一氏の『カラシニコフ』なども俎上に上げつつ、この問いに明確におこたえになったのが藤永先生のこれまでのブログの論考でしたが、「それではなぜ、白人と有色人種が邂逅したとき、前者が後者に勝利しえたのか、前者による後者の奴隷化が成功したのか?」「やはり白人が有色人種より優れていたからなのか?」-。この問いにこたえたのが、ジャレド・ダイアモンド氏の『銃・病原菌・鉄』でした(この本は、2007年8月8日のブログのコメント欄でどなたかが紹介されていました)。昨年文庫化され、遅ればせながらようやくこのほど読み終えることができました。これは実におもしろい論考でした。

 藤永先生とダイアモンド氏、お二人の論考から、「人種優越論」は完全に否定されたわけです。もちろん、藤永先生のおっしゃるとおり、仮にもともとの能力差があったとしても、だからといって、侵略・殺戮・支配・搾取などが正当化されるものでは決してありません。それは、自然界の弱肉強食とちがって、人間の世界には理性・文化というものがあるからです。道義的にそのようなことは許されないからです。

 ダイアモンド氏によれば、地理的・生態的条件しだいでは、有色人種が白人を奴隷化・植民地化する歴史も、「歴史のif」の次元における可能性としては否定できないようで、理性や文化のタガをもたない状態での人類とはいったいなんなのだろうという空しさも感じました。
 もちろん実際の歴史は、白人による有色人種への凄まじい犯罪行為(侵略・殺戮・奴隷化・植民地化・介入支配)が現出し、「ヨーロピアン・マインド」「アングロサクソンの自己陶酔・自己欺瞞」「魂の中の嘘」といった精神構造が現出したわけですが。
 ユダヤ人が「差別され虐殺される側」から「侵略する側」になった事実、中国人が「列強による侵略に苦しめられる側」から「経済大国・軍事大国の驕りを見せる側」になった事実を見ても、状況や立場によってどのような人種・民族もいかようにもなりうるということが窺い知れます。

 こうした事実に目をやりつつも、歴史に対する正しい認識をもち(実際に侵略した側への徹底した責任の追及、歴史の歪曲や風化との闘い)、人間の理性と文化の可能性を信じ、未来を創造していくことが求められていると感じます。
 これは、人間の理性と文化の可能性を「たんなるユートピアだ」としりぞけたり、人類の否定しようのない汚れた側面を「これが不変で所与の現実だ」と賢しら顔で語ったり、過去の歴史を歪曲・忘却したり、過去を水に流したうえで「未来志向」をとなえたりといった姿勢や態度とは対極に位置するものとなるでしょう。つまり、現在の安倍政権(自公政権)に鮮明に表れている姿勢や態度とは対極に位置するものとなります。

たびたびのコメントですみません。
猛暑のなか、皆様どうぞご自愛ください。

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