私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

7月4日は誰の独立記念日か?(2)

2020-07-06 13:14:14 | 日記・エッセイ・コラム

前回(1)からの続きです。

********************

 普遍的な参政権の最初の実施時期を目安にして、デモクラシー政体の古さを定めるとすれば、アメリカは決して世界最古の民主主義国家ではない。例えば、フィンランドでは1906年には参政権が普遍的に認められている。それにもかかわらず、2008年3月、オバマ上院議員は、臆面もなく、ブッシュと同じ言葉を繰り返して、「世界最古のデモクラシーと世界最大のデモクラシーは、重要な権益と民主的価値を共有する自然なパートナーである」と在米インド人向けの雑誌に投稿して、媚を売っている。おそらく、来るべき大統領選挙戦でのインド系人の票集めを計算しての発言だったのであろう。

 アメリカ合州国が世界最古のデモクラシーであるという虚偽の主張の出どころは、ひとえに1776年7月4日のアメリカ独立宣言にある。この宣言文は一枚の紙面に書かれていて、長いものではない。「アメリカの十三合州国の一致した宣言」というタイトルがついていて「独立」の文字はない。書き出しは次の通りだ。

 “人類の歴史において、ある国民が今まで彼らを他国民の下に結びつけていた政治的靭帯を解消し、地上各国の間にあって、自然の法や自然の神の法にとって本来当然与えられるべき独立平等の地位を主張しなければならなくなる場合がある。そうした場合、人類の意見をしかるべく尊重しようとするならば、その国民が分離せざるを得なくなった理由を、公に表明することが必要であろう。”

これに続いて、前にも引用したもっとも有名な「すべての人間は平等」のくだり、

 “すべての人間は平等に創られていること、彼らは、その創造主によって、奪うことのできない一定の権利が与えられていて、その中には、生命、自由、そして幸福の追求があること、我々はこれらの真理を自明なものであると考える。”

が来るのだが、独立宣言の中には、黒人奴隷への言及は見当たらず、インディアンはイギリス国王が操る嫌悪唾棄すべき野蛮なテロリスト的存在として一度現れるだけである。要するに、この“すべての人間”の中にはインディアンは入っていなかった。宣言の主文ではイギリス国王を「彼」と呼んで、彼がアメリカ人に対して行ってきた多くの不当行為が非難されているが、その中には次の文章が見られる。

 “彼は、我々の間に国内の反乱を起こさせ、また辺境の住民に対して、残忍なインディアン蛮族に攻撃させる努力をした。インディアンの戦闘のルールが、年齢、性別、貧富の別なく相手方を殺戮するものであることはよく知られている。”

 これで明らかだが、北米東海岸にピルグリム・ファーザーズを含むアングロサクソンなる人たちがたどり着いた初期にインディアンから受けた多大の恩義は、それから150年後の独立宣言起草の時点で、綺麗さっぱりと無視され、彼らを野蛮人と決めつけ、全く恩を仇で返す姿勢をとっている。アメリカ合州国憲法の起草の際に、国会下院議員数の各州への割り当てをその人口に比例して決定するにあたって、既に多数の黒人奴隷を抱え込んでいた南部諸州の主張によって、黒人男性は白人男性の五分の三と数えることが合意されたが、これは男性黒人奴隷の人権を部分的に認めることでは全くなかったことをはっきりと理解しなければならない。例えば、五十人の黒人奴隷を所有する白人には白人三十人に相当する政治的発言権のウエイトを与えるということに過ぎない。奴隷インディアンは憲法起草の時点では極めて少数であったから、この点でも、まるっきり問題にされなかった。

 「すべての人間が平等に自由に生き、幸福を追求する権利が与えられている」という上記の宣言は歴史上最も重要な人権宣言として世界中に知れ渡って一人歩きを始め、その文面がそっくり額面通りに受け取られて、それがアメリカン・デモクラシーの本質を見誤らせる結果を生んでいる。アメリカの独立宣言の執筆者トマス・ジェファソンが、はじめにこの格調高い(しかし内容的には虚偽の)人権宣言の文節を掲げ、続いて、英国王ジョージ三世の罪悪を二十八項目にわたって数え上げた理由については、いろいろに論じられている。当時、人権思想が高揚していたフランスの好意を引き寄せ、武器の供給の形で軍事援助を得ようとしたという説さえある。私たちにとって重要なのは、しかし、この人権宣言がアメリカ独立を遂行した植民地支配階級の「魂の中の嘘」であったことをはっきりと認識することである。

 英本国に対する北米十三州の独立戦争は植民地側の勝利に終わり、1783年、パリ平和条約でアメリカ合州国の独立が決定した。1787年、合州国憲法制定、1789年、独立戦争の英雄ジョージ・ワシントンが初代大統領に選出された。1790年、初の国勢調査によれば、総人口392万9千(黒人75万7千、そのうち奴隷69万8千、自由黒人5万9千)。ワシントンの選挙には3万8千の成人白人男性が投票したが、これは成人総人口の僅か1.6%に過ぎなかった、それから後の各種選挙においても、選挙権が非支配層に広がること、とりわけ黒人の投票権を阻止する、あらゆる手段が用いられた。独立宣言に麗々しく謳い上げられた人権宣言の文字通りの実施を要求する黒人には、始めの数十年間は、死の罰が与えられたのである。(続く)

********************

 次回は、この嘘っぱちに満ちた独立宣言、人権宣言を、黒人たちがどのように糾弾したかの話になります。読んでいただいている文章は、私が今から10年前に書いたものです。いま世界的規模で沸き起こっている黒人擁護の運動に便乗して綴っている文章ではありません。米国という国は、確かに、例外的な(exceptional)国です。建国の始めから、自己の魂の中の欺瞞を欺瞞として自覚することが出来ないまま、今日に及んでいる特異な国なのです。

 

藤永茂(2020年7月6日)


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (太田)
2020-07-07 12:23:18
イギリス東インド会社及び、その初代総裁を務めた者がやはり重職を務めた、北米英領植民地のヴァージニア会社といった株式会社群は、英国政府が、欧州諸国の植民地統治同様のキリスト教による原住民の愚民化と相俟った原住民収奪という形の植民地統治を、英国政府が直接的に手を汚さずに行うための手段でした。

さて、東インド会社同様、ヴァージニア会社も原住民から収奪の限りを尽くしたところ、東インド会社よりも遅れて1606年に設立されたにもかかわらず、1624年には、余りにもひどいというので、英国政府の監督下に入れられるどころか解散させられ、ヴァージニア王室領植民地という英国政府の直轄地になってしまいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BC%9A%E7%A4%BE

もとより、その理由は、ヴァージニア会社が原住民収奪の限りを尽くした事それ自体にあったのではなく、原住民の反撃※もあり、会社の収益が低下をきたし、ひいては本国に損失をもたらしたからです。
https://en.wikipedia.org/wiki/London_Company
※1622年3月22日に生起。バージニアのジェームズタウンの住民の4分の1にあたる347人が襲撃してきたインディアンによって殺された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Indian_massacre_of_1622

しかし、その後も収奪の気風は維持され、ヴァージニア会社の勅許領域であった英領北米植民地の南部では、インディアン収奪を黒人奴隷収奪に切り替えた形で、大農場が発展していくことになります。

さて、1775年に米独立戦争が起こった背景として、1773年に東インド会社が英国政府の監督下に入れられ、インド(ベンガル)に総督が派遣されたことが影響を与えたのではないか、というのが私の仮説なのです。

米国の大統領を、初代から第5代まで並べてみると、ワシントン、アダムズ、ジェファーソン、マディソン、モンローとなりますが、この内アダムズ(マサチューセッツ出身)を除き全員がヴァージニア出身※であり、米独立革命の首謀者達の大部分が、英領北米植民地中の原住民収奪地域の中心地出身であったことは偶然ではありえないはずです。

※「当時奴隷人口が多かったヴァージニア州は、憲法に盛り込まれた<黒人1人を> 5分の3 <人とみなして議員数を決めるという考え方>により、下院でも最大の議員団を誇った。ヴァージニア州出身の大統領が続いたことで、ヴァージニア王朝とも呼ばれ、国内でその重要性を維持した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B7%9E

米独立革命は、奴隷制維持を目的とする英国からの予防的分離独立であった、という事です。

コメントを投稿