私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

サンカラとブルキナ・ファッソ(1)

2012-07-18 10:42:01 | 日記・エッセイ・コラム
 田村秋生さんから、私の古いブログ
『ブリクモンとサンカラ』 (2007年11月7日)
に次のようなコメントを戴きました。
■「サンカラ」のことは以前に「キューバ」を紹介している吉田太郎さん(「キューバ円卓会議」の仲間)のブログでほんの少し知ってはいましたが、そのままでした。本日久しぶりに、我が敬愛するアンドレ・ジッドをyoutube検索していたら、アルジェの記憶(本では、『新しき糧』)という音楽映像が出てきて、更に検索する内に「サンカラ」の映像が出てきて、ここに辿り着いたという次第。小生は仏語はデビュタン程度なので「ブルキナファソ」情報含め”サンカラの4年”を詳しく知れないのが残念です。
今や、”革命”の希望がわずかに残ってると思えるのがキューバのみ、ただそれもカストロが死んだらどうなるか、、、キューバ情報だけは今でも耳を澄ませています。■
 早いものです。あの記事はサンカラの暗殺20周年(暗殺は1987年10月15日)に彼のことを思いながら書いたのでしたが、今年は25周年になります。私たちが思うより遥かに多数のアフリカ人たちが、暗い天空を明るく大きな彗星のようによぎったトーマス・サンカラの記憶を、今また、胸の中によみがえらせているのだと私は想像しています。
 サンカラをご存じない方のために、上の田村秋生さんのコメントにある吉田太郎さんのブログから写させてもらいます。 2006年に書かれたものですが、とても見事な要約なので拝借させて頂きました。

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■ http://pub.ne.jp/cubaorganic/?entry_id=269353
アフリカのチェ・ゲバラ
 サハラ沙漠の南端にブルキナファソという人口1100万人ほどの貧しい国がある。2002年現在、一人当たりの国民所得が208ケ国中193位という最貧国である。国土は27万平方kmだが、地下資源もなく、大半が乾燥地で耕作可能な土地は全体の25%しかない(3)。
 ブルキナファソは、1960年に共和国オートポルタとして独立したが、世界の中でも最も貧しい国だった。非識字率は、90%以上。乳児死亡率は1000人あたり280人と世界の最高で、基本的な福祉サービスとインフラに欠け、医師は5万人に1人しかいなかった。1人あたりの平均年収は150ドルにすぎず、新植民地主義と搾取的な封建制度が残り、人民を搾取することに一片の恥じを感じない寄生官僚が満ち溢れていた(1)。
 以前の宗主国だったフランスに事実上管理され、軍事政権による政治腐敗がはびこり、3万8000人いる役人が国家予算の70%を自分たちの給与にあて、10月に予算を使い果たすと外国の援助に頼り切るというありさまだった。役人たちはたいした仕事をせず、全住民には人頭税がかけられていたため、支払いができない世帯には、村の徴税係が容赦なく家財や牛、ヤギ、農産物などを取り立てた。差し出すものがないと強制労働に従事させられたり、女性が未納税のツケとして要求されたりしていた(3)。
 ここで、トーマス・サンカラ(Thomas Sankara・1949年12月21日~1987年10月15日)という名の青年が登場する。

「この20世紀末にあり、いまだに人類が苦しめられているあらゆる弊害の小宇宙だ」
 サンカラは、かつて祖国をこう記述したことがある(1)。サンカラは、モシ族とフルベ族との混血で聡明で快活な人物で、国民を養うための食料を生産するには、社会的公正が不可欠である、と考えた(3)。
 サンカラは1949年12月21日にカソリック教徒の家庭に生まれた。父親は軍人で、第二次世界大戦中にはフランス軍としてナチに拘留されたことがある。だが、家族は、サンカラが軍人ではなく、カトリックの牧師になることを望んでいた。サンカラは、マルクス主義を信奉していたが、カトリックも信じていた。同時にイスラム教徒が多い国柄だけあり、コーランにも精通していた。
 だが、1966年に中学校で基礎的な軍事教練を受けた後、サンカラは19歳から軍人としての道を歩み始める(1)。彼と同じ世代のアフリカ人の多くがそうであったように、1年後に仕官としての訓練を受けるため、マダガスカルの首都アンチラベ(Antsirabe)に派遣される(2)。だが、23歳のサンカラがマダガスカルに到着した数カ月後、1972年にマダガスカルでは学生と労働者からなる大規模な暴動が発生し、マダガスカル大統領は打倒される。サンカラは、大衆運動に興味をそそられた(1)。サンカラは1972年にオートボルタに帰国し、1974年にはマリとの国境紛争を戦った。そして、パラシュート部隊としての訓練を受けるため、フランスに行ったが、そこで、サンカラはフランスと旧植民地との矛盾を目のあたりにすることになる(2) 。
 1976年、サンカラはコマンド・トレイニング・センターの指揮者となり、後に革命の同士となるブレーズ・コンパオレ(Blaise Compaore)とともにモロッコにいた。そして、仲間の若手将校とともに、秘密組織「共産主義将校団」を結成。その中には、アンリ・ゾンゴ(Henri Zongo)、ジーン=バプティスト(Jean-Baptiste Boukary Lingani)といった人物もいた。
 サンカラは軍の大尉だったが、仲間の若手将校団とともに1982年11月7日のクーデターを起こし、1983年1月に首相になった。だが、フランス大統領の息子であり、アフリカの事務アドバイザー、ジーン=クリストフ・ミッテラン(Jean-Christophe Mitterrand)の訪を受けた後に自宅監禁。アンリ・ゾンゴやジーン=バプティストらも逮捕されてしまう。これが大衆暴動を引き起こした。ここで、ブレーズ・コンパオレが再びクーデターを起こす。このクーデターは、チャドでフランスと戦う寸前であったリビアに支援された。チャドはリビアと交戦しており、フランスはチャドに空軍を提供していたのだ(2)。こうして1983年8月3日に政権を掌握したサンカラは大統領になる。まだ、33歳の若さだった(1)。
 1983年10月2日のスピーチで、サンカラは、自らを革命家とし、祖国の革命を「反帝国主義」と定義し、腐敗と戦い、森林を再生し、飢饉を防ぎ、教育や医療の普及を再優先課題として掲げた(2)。以来、サンカラが突き進めた革命には目覚しいものがあった。
 例えば、サンカラの就任後、大規模なワクチン接種キャンペーンを実施するアフリカの最初の国家となった。その年、キューバからのボランティアの援助により、250万人の子どもが伝染病から免れることができた。乳児死亡率は2年もたたずして1000人あたり145人と急減した。? サンカラは、サハラ砂漠の進行を抑えるため、最初の年に1000万本の植林による森林再生プログラムも始めた。?また、教育にも力を入れた。入学率は、わずか2年で12%から22%に高まり、卒業し読み書きができるようになった人々は、他のものに読み書きを教えることが奨励された。? また、それまで歴史的に乏しかった愛国心を高めるため、サンカラは、徴兵制度を設け、同時に大衆組織として武装CDR(革命防衛委員会)を結成した(1)。
 1984年、革命1周年を記念し、サンカラは国名を「高貴なる人々の土地」を意味するブルキナファソに変え、新たな国旗を制定し、新たな国歌(Une Seule Nuit)も書いた(2)。
 女性地位向上は、サンカラが目指した目標のひとつで、サンカラ政権には女性も多く含まれていた。これは、西アフリカでは先例がない政策だった(2)。家長的で古風な封建的な文化のくびきから女性を解放し、女性の地位を向上させ、社会の中で女性が果たす役割を認識させるキャンペーンも展開した(1)。一夫多妻を禁止し、避妊を促進。さらに、エイズがアフリカにとり脅威であることを公に認めた最初のアフリカの政府にもなった(2)。
 サンカラは、PRセンスも優れていた。ブルキナファソ革命に国際的な報道機関の関心を寄せるため、象徴的な政策を展開してみせた。例えば、サンカラは政府が所有していた高級車メルセデスのほとんどを売却し、大臣の公用車には、ブルキナファソで最も安いルノーにした。また、全員女性からなるオートバイ警戒隊を結成した。また、軍の店舗を国民に開放したが、それが最初の国営スーパーマーケットとなった(2)。
 サンカラはブルキナファソの人々の意識を変えた。それまで、国内には公的機関以外には働き口がなかったが、国内を各地域の持つ文化や歴史に配慮して30の行政区に区分し、各地域で住民たちが地域を治めていく「自主管理政策」を導入した。住民自身が役人たちを雇い、道路、建設、水道、保険・医療事業など本当に自分たちの暮らしに必要な公共サービスを実施していくやり方を導入したのである。
 また、評判の悪かった人頭税を廃止し、開墾可能な土地を国有化した。村の運営責任者が自分たちの判断で各戸に土地を割り当て、農業指導者がいつ何を作付けすれば良いのかを指導する。そして一人ひとりの作業量に応じて金銭や収穫物、人的サービスという形で支払いを行なった。各戸の必要に応じて土地が配分され、強制的な徴収に脅かされることがなくなった農民たちは安心して農作業に汗を流していく。
 改革がはじまって4年も経たないうちに、農業生産は急増し、国家支出は大幅に削減され、産み出された資金は、道路建設、小規模水道敷設、農業教育の普及、地域ごとでの手工業の促進など、住民に密着したプログラムに投資された。わずか4年で自給自足農業への転換が図られ、人々は人間としての生きる誇りを回復。雄大な希望に燃えて、例えば、サンカラが呼びかけた鉄道敷設事業には金銭的な報酬がないにもかかわらず、自発的にボランティアで住民が参加し、灼熱の太陽の下で数千の人々がレールを敷き、鉄道建設に汗を流していった(3)。
 サンカラは、若く、美男で、雄弁で勇敢で、かつ情熱的もあるカリスマだった(1)。優れたギタリストで、モーターバイクが好きだったことも人気を呼んだ。おまけに暮らしぶりはつつましく、自分の利益のために壮大な屋敷を建設するそれまでのアフリカのリーダーとは著しい対照的だった(2)。
 サンカラは、アフリカ諸国が歴史的な事情や自然環境によって経済発展が遅れているとしても、正しい経済政策と人民の努力によって経済発展は可能だと考えていた。
 1984年10月、ニューヨークで開催された第39回国連総会では「黒い肌をしているだけで、あるいは文化が異なるというだけでほとんど動物と変わらない扱いしか受けていないこの数百万人のゲットーにいる人々を代表してわたしは語りたい」で始まる劇的な演説行っている(4)。
 同84年にサンカラはキューバも訪ねている。サンカラは、キューバ人以外のリーダーに与えられるキューバの最高栄誉、ホセ・マルティ賞を受けた。サンカラはスペイン語に堪能ではなかった。だが、飛行機でキューバにいくわずかの間にも、スペイン語での受賞演説を準備した。翻訳でよいと語るキューバ人に対し、サンカラはこう答えた。
「翻訳は反逆者です。私が愛し、感動するキューバ人民とその革命に私のメッセージを生で伝えたいと思うのです」
 人間としての尊厳や全アフリカ人の自治を守り、教育を普及し、アフリカが連帯する。サンカラの描く未来のビジョンは、国境を越え、多くのアフリカの若者の心を鼓舞した(1)。サンカラの改革とブルキナファソの名は、西アフリカはもとより、中部アフリカ地域に至るまで広まった。このサンカラの改革は、困ったことだった。政治的に腐敗していた近隣諸国にも影響を及ぼしかねなかったからである。事実、象牙共和国、ガボン、トーゴ等の各政権は多いに揺さぶりをかけられた。サンカラの改革をそのまま見逃しておくわけにはいかなかった(3)。
 1985年にひとつの不幸な事件が起きる。ブルキナファソは国勢調査を実施していたが、その調査の間に、マリのいくつかの部族のキャンプが、誤って訪問を受けた。それが契機となり、1985年のクリスマスに、マリで緊張が高まり、5日間の戦闘で約100人が死んだ。ほとんどの犠牲者は、マリの爆撃機で殺された民間人だった。この隣国との関係悪化を契機に、1987年10月15日、サンカラは、右腕としてもっとも信頼を寄せていたブレーズ・コンパオレが組織した反革命クーデターにより、12人の他の仲間とともに暗殺された。サンカラの遺体は、すぐさま無名墓地に埋められた。クーデター後、サンカラの死が伝えられたが、いくつかの革命防衛委員会は数日間、国軍に対し武力抵抗した(2)。
 暗殺は80年代のアフリカでは一般的だった。サンカラは、暗殺の危険性を予知していたのであろう。死の1週間前、サンカラは国民に向かってこう述べていた。「個人として革命家を殺すことはできても、その思想までは殺すことができない」(1)。
 だが、サンカラの死とともに、ブルキナファソは、政治腐敗、それと表裏一体の外国の支配、浪費的国家財政、寄生的官僚主義、慢性的飢餓、絶望する農民たちという普通のアフリカの状態に戻った(3)。?トーマス・サンカラ。享年38歳。アフリカの「チェ・ゲバラ」と呼ばれたサンカラの死は、本物のゲバラのものよりもさらに短かった。
(引用文献)?(1)Kangsen Feka Wakai, A Warrior's Tale.?(2) thomas-sankara biography?(3) ジャン・ジグレール『世界の半分が餓えるのはなぜか』(2003)合同出版?(4) アフリカの改革者 トーマス・サンカラ■
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以上が、吉田太郎さんのブログから写させて戴いたトーマス・サンカラ物語です。

 英語版のウィキペディアも大変参考になります。そこにサンカラの著作として挙げられている
? Thomas Sankara Speaks: The Burkina Faso Revolution, 1983-87, by Thomas Sankara, Pathfinder Press, 1988, ISBN 0-87348-527-0
はサンカラの講演とインタヴューの内容を集めた450頁の本で、多数の写真や地図や年表などが含まれています。サンカラのウェブサイトもあります。
http://thomassankara.net/spip.php?article876&lang=en

 YouTube で観ることのできる52分の極めて興味深いドキュメンタリー映画もあります。この映画の内容に就いては、次回にコメントするつもりですが、特に、女性問題に関心をお持ちの方には、この映画の9分あたりから14分までの5分間を覗いてみて下さい。きっとサンカラという男が好きになる筈です。またこのYouTube 映画には多数のコメントが寄せられていますが、サンカラを讃えるものばかりです。
http://www.youtube.com/watch?v=HvBC7tmgFFM

藤永 茂 (2012年7月18日)



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2 コメント

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藤永先生のブログの読者の方々に。 (岡村)
2012-07-18 18:51:42
藤永先生のブログの読者の方々に。
 トーマス・サンカラのドキュメンタリー映画の日本語版もありますので、ぜひ参照してください。
youtube.com/watch?v=l8f3O7zJfuA
(すみませんが、HTTPプロトコルは自分で付けてください、スパム対策の為です)

藤永先生と読者の方々に。
先生の著作「闇の奥の奥」からこの記事にふさわしい一文がありますね。
ルムンバの独立式典でのスピーチから
”自由の中で働く時、黒人に何ができるかを、我々は世界に示し、そして、このコンゴから、アフリカすべてのための燦然たる太陽の輝きの中心を立ち上げて行くであろう”

本当に美しい結びの一文だと思います。
かつてコンゴで言われた事が、サンカラのブルキナ・ファソで、マルコムXのOAAUの集会で、ファノンやセゼールの書物の中で、そして今も世界中で言われ続けているのですね。
サンカラの胸の中には、一粒の麦が地に落ちて死ななければそれはただ一粒の麦に過ぎないという新約聖書の一節が反芻していたに違いありません。
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岡村 様 (藤永 茂)
2012-07-18 20:43:53
岡村 様

誠に良いコメントをいただき、心から感謝しています。
サンカラのドキュメンタリー映画の日本語版を作ってくださった方にもお礼を申し上げます。皆さん、ぜひご覧になって、政治、政治家というものに対する余りにも安易な罵言とペシミズムを捨てましょう。参加へのオプティミズムと意志を持ちましょう。

藤永 茂
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