私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

E. D. モレル (3)

2006-09-20 10:40:00 | 日記・エッセイ・コラム
 ケースメントはアイルランド出身、モレルより9歳年上で、19歳の時、モレルの雇い主でもあったエルダー・デムプスター社所属の商船のパーサーとしてコンゴを訪れて以来、例のコンゴ河下流の急流域の南をバイパスする鉄道工事のための測量に従事したり、現地で象牙など各種の交易をしたりもしましたが、交易商人としてのケースメントはとかく黒人原住民に甘く、成績は振るわなかったようです。1890年の夏、コンラッドは、コンゴ河口の政庁所在地マタディで奥地に向けての旅立ちを前にして、ケースメントと一つ部屋で十日間を過ごしています。コンラッドの「コンゴ日記」に「ロジャー・ケースメントさんと知り合いになった。どんな情況のもとで出会ったにしても喜びは大きかったと思う。・・・ 考えも深いし、話もうまい。実に聡明でとても感じが良い」と書き記しています。
 在コンゴ英国領事に任命された1900年にケースメントは次のような文章を外務省の知人に送っています。
悪の根源はコンゴの政府が何よりも先ず一つの商業的企業トラストであり、他のすべてのことが商業収益獲得に向けられているという事実にあります。・・・ ひどく邪悪なのはコンゴにいる白人たちではなく、彼らが奉仕しているシステムこそが邪悪なのです。彼らの第一の義務は利益を生み出す事であり・・・ 原住民の取り扱いは・・・どうしても残酷になるように仕組まれているのです。
ケースメントは悪の根源をあやまたず見抜いていました。個々の白人の病的な邪悪さや凶暴さなどが問題なのではなく、問題は現地徴用の奴隷制度というレオポルドが編み出したシステムにこそある。このシステムの下で行動する白人たちには、所詮、黒人を残酷に扱う以外には選択肢はなかったのです。モレルが達した見解と全く同じです。コンラッドの『闇の奥』のクルツも中央出張所の支配人も、このシステムから生まれた醜悪な怪物以上の何物でもありません。
 1903年6月、英国外務省から指令を受け取ったケースメントは早速コンゴ内陸の視察旅行に出ました。マタディからスタンリー・プールまでの約300余キロは既に敷設されていた鉄道を利用せずに徒歩で辿り、スタンリー・プールからのコンゴ河遡航にも、自腹を切って粗末な蒸気船を土地のキリスト教教会団体からチャーターしました。コンゴ自由国政府の息のかかった交通手段を避けて、視察行動の自由を確保するためでした。3ヶ月間コンゴ河沿いの内陸各部を巡視して回ったケースメントは、その年の暮れ近くロンドンに戻り、数週間を費やして綿密詳細な報告書を書き上げて外務省に提出したのですが、その内容の激しさに狼狽した当局は極力その衝撃を和らげようと試み、報告書の文中にあらわれる個人名はほとんどすべてが伏せられてしまいました。ぎっしりと印刷された(本文56頁と8つの長文の付録を含む)ケースメントのコンゴ報告書は1904年2月に世に出た。外交上の配慮や商社からの干渉で英国外務省が内容の改変を迫り、部分的にはそれを実行したことに、ケースメントはすっかり腹を立て、辞意をすら洩らしましたが、その水割りにされた報告書に対してすらも、レオポルド二世の側からの激しい反撃が浴びせられました。例えば、「切り落とされた腕先」について、ケースメントは次のような断言的な文章を書いています。
政府軍兵士によって繰り返し行われているこの種の人体切断について、私は、個々の具体的な供述や一般的な申し立てなど多数の報告を受け取った。この人体切断とそれを生ぜしめた原因については、全く明らかで疑う余地はない。それは、白人がやってくる以前からあった原住民の間の習慣ではなく、また、間の争いで野蛮人たちの原始的本能が発揮された結果でもない。それは、一つのヨーロッパ行政機関に属する兵士たちによってなされた意図のはっきりした行為であった。こうした行為を犯した場合、兵士たちは上官からの命令に従って行ったということを決して隠そうとしなかった。
この報告に対してレオポルド側は、手を失うことになったのは「不幸な人々であり、手にガンを患って、そのため簡単な外科手術として手を切り落とさなければならなかったのだ」などと苦しまぎれの虚偽をすら申し立てる始末でした。ケースメントのコンゴ報告書はコンゴ自由国内で黒人たちに加えられている残虐行為についてのモレルの主張を全面的に裏付け、支持する内容であり、それまでモレルが押し進めてきたレオポルド二世糺弾の孤独な戦いに力強い追い風を与えることになったのです。
 モレルとケースメント、二人が初めて会ったのは1903年12月のことでした。ロンドンの友人宅でコンゴ報告書の清書をしていたケースメントに会いにモレルの方から出掛けて行きました。英国領事としてコンゴに着任していたケースメントはモレルが英国内で発表する出版物を熱心に読み、その活動を追っていましたし、モレルはモレルで、ケースメントの前々からの評判と彼が外務省に送ってくるコンゴ情報などを通じて、ケースメントに大きな期待を寄せ、会合の日を待ち望んでいたのです。モレルとケースメントの最初の劇的な出会いを作家コナン・ドイルは「現代史で最もドラマティックな場面」とまで書いていますし、モレル自身も「永久に消えやらぬ印象を残す稀有の経験の一つとなった」と記し、さらに、「手をしっかりと握り合い、お互いの目が会ったその瞬間から、相互の固い信頼が生れ、私のそれまでの孤独感はまるで着ていたマントが肩から滑り落ちるように消えてしまった。目の前にまことの男が立っていた。この男こそ、寄る辺のない人種に対して犯された罪業の悪辣さを上層部の人士たちに確信させ、その同情の心をかき立てることを、他の誰よりも良くやってのけると思われた。」と喜びと信頼を述べています。ここで二人の間に生まれた固い友情の絆は1916年のケースメントの非業の死まで続きます。二人は朝の2時まで時を忘れて語り合い、モレルはそのままケースメントの友人宅の書斎で眠り込み、翌朝、食事をともにしてから家路に就きました。
 それから暫くして、今度はケースメントがモレルの自宅に足を運び、またまた夜が明け白むまで語り合いました。それまで、モレルはジャーナリストとしての文筆活動を軸にして、原住民保護協会、奴隷制度反対運動組織、宗教団体などに働きかけて、レオポルド二世のコンゴ自由国糺弾の世論を盛り上げてきたのですが、コンゴの奴隷労働システムから莫大な利潤を吸い上げてきた勢力は、その権力と金力を動員してモレルの声を扼殺しようと執拗に襲いかかっていました。ケースメントのコンゴ報告書は3年このかたのモレルの主張を全面的に裏付け、支持する内容のものであり、強力な助っ人にはなったのですが、コンゴ自由国を糺して、そこに人権的正義をもたらすためには、それだけ目指す新しい組織を立ち上げることが必要であることを、ケースメントは熱心にモレルに説きました。
 しかしモレルはためらいました。週刊誌『西アフリカ通信』の編集者兼発行人として生活費をはじき出しながら、各界の人士に働きかけて次々に抗議集会、講演会を組織する仕事だけで全く手一杯だったのです。ケースメントが提唱するコンゴ改革協会(Congo Reform Association, CRA) という新しい組織は、もし立ち上げるとすれば、他の団体との兼ね合いもあって非営利団体でなければならず、その設立に当てる資金などモレルには一文の持ち合わせもなかったし、その資金を今から集めるとなれば、他の慈善団体との競合にならざるを得ません。ケースメントの提言が正論であるだけにモレルは大いに迷ったのです。モレルの気持の踏み切りがつかないままにケースメントは故国のアイルランドに帰りました。しきりにためらうモレルをアイルランド海峡の彼方のケースメントの許に送ったのは、モレルの妻メアリーでした。メアリーは育児と火の車の家計をやりくりしながら、懸命に夫を支え、夫の志の実現を誰よりも熱く願いました。
 モレルにコンゴ改革協会の設立を勧めたものの、ケースメントは依然として英国外務省に職を持つ身でしたから、協会の役員として直接参加することは出来ませんでしたが、側面からのあらゆるサポートを約束し、協会立ち上げの資金として100ポンドの小切手を切ってモレルに手渡した。ケースメントの年俸の三分の一にも及ぶ金額です。それを聞いたリバプールの実業家ハントは即座に同じく100ポンドの寄付を申し出ました。それから三週間後、モレルを協会の事務長として「コンゴ改革協会」(CRA)が誕生します。CRA の初会合は1904年3月23日リバプールのフィルハーモニック・ホールに千人以上の参加者を得て開かれました。その後も資金面でCRA の支持を続けて協会の目的達成のために大きく貢献したハントは、モレルの妻メアリーの果たした役割を高く評価して「コンゴ改革のモレルといえば二人組のことだ」と語ったといいます。1904年はモレルにとってまことに英雄的な一年となりました。アメリカ合衆国にも渡ってコンゴ自由国改革の運動を拡大する一方、ロンドンでは『レオポルド王のアフリカ支配』、『コンゴ奴隷国家』の2著を出版し、連日十数時間働き続けて睡眠の時間もない有り様でした。レオポルド二世の側もあらゆる手段に訴えて、例えば、アメリカの大富豪トーマス・ライアンやグッゲンハイム家などをも巻き込んで、モレルの声を圧殺しようとしましたが、遂にダビデ(モレル)の投じたつぶてはゴリアテ(レオポルド)の額を見事に撃ち割ります。1908年ベルギーの国会はコンゴ自由国をベルギー国家所有の植民地として、国王の個人支配に終止符を打ち、続いて、1909年12月、「ヨーロッパの心」が生んだ恐るべき怪物の一人レオポルド二世は74年余の生涯を閉じました。

藤永 茂  (2006年9月20日)