私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

E. D. モレル (4) 死

2006-09-27 12:50:00 | 日記・エッセイ・コラム
 ヨーロッパの地図を見ると、ベルギーの西北に二つの大きな島、グレート・ブリテンとアイルランドがあります。グレート・ブリテンはイングランド、ウェールズ、スコットランドから成り、アイルランドには北アイルランドとアイルランド共和国とがあります。現在、日本で英国またはイギリスと呼ばれる國の正式称号は連合王国(United Kingdom)で、グレート・ブリテンと北アイルランドを含みます。アイルランド共和国は第一次世界大戦後に英国から独立しました。英国とアイルランドとの関係は歴史的に極めて複雑です。1800年以後、アイルランド全体が連合王国の一部になっていましたが、実質的には植民地として英帝国の圧政下にあり、かつての日本帝国と朝鮮半島との関係と似たようなものでした。ケースメント(1864-1916)が生きてそして死んだのはこの植民地時代です。
 ベルギー国王レオポルド二世のコンゴ支配をヨーロッパ白人文明の担い手である大英帝国の植民地支配から区別して指弾するという視野狭窄から一番はやく脱出したのはケースメントでした。彼がアイルランド人であったことがその最大の理由です。「コンゴの森の孤独の中で私はレオポルドを見出したが、また、のっぴきならぬアイルランド人としての私自身をも見出した」と友人に書き送り、「私がアイルランド人であったからこそ、コンゴで機能している悪業のシステムの全体像を把握することが出来た」とも書いています。コンゴの黒人に対する残虐行為はアフリカに渡ってきた白人たちの個人的頽廃の結果などではなく、その背後にあって彼らをドライブしている“システム”に由来することを、ケースメントは見抜いたのです。そのシステム?植民地主義、帝国主義的支配のシステムの本質において、ベルギーとイギリスを区別する理由は何もありません。
 1904年にケースメントの衝撃的なコンゴ報告書が世に出ると、彼は各方面から注目され、ロンドンの内外で脚光を浴びましたが、1906年には再び英国領事として遠く南米ブラジルの僻地サントスに向かいました。携えた手荷物はアイルランド関係の書物で一杯であったといいます。その時すでに、やがて祖国アイルランドの英国からの独立のために戦う決意を胸に秘めていたに違いありません。
 1909年南米ペルーのプツマヨ河流域でレオポルドのコンゴの場合に酷似した奴隷強制労働によって生ゴムの採取が行われているというニュースがロンドンで問題となり、1910年5月、英国外務省はケースメントにプツマヨの現地調査を命じました。翌年ケースメントのプツマヨ報告書は英国外務省に送られましたが、前回のコンゴ報告書と同じく、当局はその内容の過激さに当惑し、外交的考慮から出版を渋り、1912年になってから世に出ました。ケースメントはコンゴ報告書とコンゴ改革の功績を認められて、1911年7月ナイトの爵位を授けられて“サー”(Sir)と呼ばれる身分になったのですが、彼は病気を理由にその儀式を欠席し、英国国王ジョージ五世の前に跪くことを避けました。アイルランド人であるという自覚がそうさせたのでした。その翌年には英国外務省の職を辞して故郷ダブリンに戻っています。
  1914年第一次世界大戦が始まるとケースメントは米国経由でドイツに向かい、10月末ベルリンに到着しました。英国の敵国ドイツを足場にしてアイルランドの英国からの独立運動の推進を図ったのです。英国兵士として参戦し、ドイツ軍の捕虜となってドイツ領土内にあるアイルランド人に働きかけ、また独立運動のためにアイルランドに送る武器の調達などを進めました。1916年の春を期してアイルランド本国で英国に対する武装蜂起の計画があることを知ったケースメントは、それを時期尚早と考え、計画の暴走を阻止する目的もあって、ドイツの潜水艦に便乗してアイルランドの西岸に上陸しましたが、事が事前に洩れていて、英国軍に捕らえられて直ちにロンドン塔に幽閉されました。1916年4月24日いわゆるイースター叛乱が起り、アイルランド独立戦争が始まりました。1916年6月29日ケースメントは死刑の宣告を受け、爵位は剥奪、8月3日ペントンビル刑務所で絞首刑に処せられました。享年51歳。異例のスピードの裁判と死刑執行でした。英国政府はケースメントが同性愛者であることを暴露喧伝して彼の名を辱めることに躍起になりました。死刑執行人アルバート・エリスは「ケースメントは私の手に掛かった者のうちで最も雄々しく死に就いた」と言ってこの死刑囚を讃えました。
 コンゴ改革運動に参加してケースメントとも交友したコナン・ドイルはケースメントの反英行動にも同性愛者であることにも反感を持ちましたが、それにも拘らず、ケースメントの法廷弁護のために700ポンドの大金を寄付し、バーナード・ショーを含む多数の知名人とともにケースメントを死刑から救おうとしたが駄目でした。しかし、コンラッドはその助命嘆願に加わりませんでした。ケースメントが大英帝国に弓を引いたのが許せなかったのです。その裁判の頃にコンラッドは一友人あての手紙に、ケースメントに就いて、こう書いています。「・・・彼はいい話し相手だった。しかしアフリカで会った時すでに私は、はっきり言ってしまえば、理性というものに全く欠けた男だと判断していた。間抜けだというのではない。感情だけの男という意味だ。感情的な力で(コンゴ報告とかプツマヨ報告とかで)世に出て成功してはみたものの、多情多感に溺れて自滅してしまった。感受性に振り回された男?まことに悲劇的な性格、しかも偉大さというものは、そのカケラも持ちあわせていなかった。あったのは虚栄心だけ。だが、コンゴではそこまでは未だ見えていなかった。」これが鋭敏犀利な文学者の人間観察というものでしょうか。コンラッドが「コンゴ日記」に書き付けた文章(前回引用)を読み返すと,冷え冷えとした風が心の中に吹き込んで来ます。
 モレルの父はフランス人、母は英国人、モレルが生涯抱き続けた英国への思い入れは、多分、母親ゆずりのもので、フランスを嫌い、英国と米国、つまりアングロ・サクソンをフランスの遥か上に置いていました。コンラッドは英国を最高の白人国家としてあこがれ、1886年英国市民となって、ポーランド名コンラッド・コルゼニオウスキーをコンラッドに変えました。モレルもモレル・ド・ビルというフランス名をモレルに変え、1896年フランス国籍を捨てて英国国籍を取得しました。しかし、二人の思想的遍歴は大いに異なる軌跡をたどったようです。
 モレルはアングロ・サクソン民族の文化的道徳的先進性とそれに伴う国際的責任をしきりに説いて、レオポルドのコンゴ自由国改革の運動に英米両国の支配層富裕層の人士の支持を求めて大きな成功を収めましたが、それは資金集めのための戦術というよりも、むしろ、彼自身の信念から出たものでした。しかし、そうした支配層の人間たちの耳に障る雑音もモレルの熱弁の中には含まれていました。モレルはアフリカ原住民の土地所有権を認めるべきであるという立場をとり、また、モレルの唱える自由貿易の概念も原住民が彼らの生産物の買い手を選ぶ“自由”を尊重する方向に傾いていて、ヨーロッパ列強が原住民を搾取する機会の均等を意味しなかったのです。モレルはコンゴの黒人に加えられた残虐非道を糺すという純粋な熱意から出発したのですが、その運動をあまたの苦難の末に成功にみちびく過程で、事の成否は単なる正義、不正義では片が付かず、ヨーロッパ列強間の外交的、経済的利害のバランスの問題に強くからまって来ることを学ばされました。コンゴ河をはさんで南はレオポルドのコンゴ、北はフランス領コンゴ、密林からの生ゴムの採集については強制労働のシステムの残酷さにおいて南と北で殆ど差異はなかったのですが、英国政府も英国の金融経済界もフランス領については敢えて取り上げようとはせず、もっぱらベルギー国王レオポルド二世の非を鳴らすばかりでした。
 1909年12月レオポルド死去。その前年にコンゴ自由国はベルギー国家所有の植民地となり、その内情にも改善のきざしが認められてきました。1913年6月16日、10年に及ぶ歴史的使命を終えたコンゴ改革協会(CRA)の閉会式がロンドンで行われ、英国国教教会の大主教をはじめとする各界の貴顕が出席し、サー・ロジャー・ケースメント、ジョーン・ハント、ハリス牧師夫妻などの旧友も名を連ねました。ベルギーの高名な社会主義者で第二インターナショナルの立役者の一人エミール・ヴァンデルベルデもその中にいました。彼はベルギー国内でモレルの改革運動を支持したのです。
 モレルの生涯の頂点であったCRA閉会の栄光の日から1年後の夏には第一次世界大戦がはじまり、モレルの人生はその悲劇的な第二段階に入ります。1914年8月4日ドイツ軍のベルギー侵攻を口実にして英国は対独宣戦に踏み切りました。英国とフランスの間には、英国の議会に、したがって、英国国民に知らされていない密約が存在し、それがコンゴ改革運動の足をたびたび引っぱっていると以前から考えていたモレルは、そうした英国政府の秘密外交が英国を不必要な戦争に引きずり込む日が来ることを予言していました。8月4日の対独開戦で自分の予言が的中したと考えたモレルは直ちに英国の参戦に反対の声を挙げたのです。時の自由党政府の内部からも、参戦を支持した野党労働党からも反戦を表明する数名の有力者が現われ、自由党の党員になっていたモレルもそれに加わって、新しい反戦運動組織「民主的コントロール同盟(DCU)」が結成されました。直情の人モレルはレオポルド糺弾の時をも凌ぐ熱情と不退転の決意を胸にして反戦運動にのめり込んで行きました。嘘で塗り固めた英国政府の戦争政策に反対し、戦争の惨害を少しでも食い止めようとしたのですが、戦争熱にあおられて逆上した世人の目には、モレルは愛国心を失った売国奴としか映りませんでした。幾つかの大衆日刊紙はモレルを敵国ドイツの回し者呼ばわりし、その煽動にのった暴徒は再三彼を襲いました。そうした情況の中で、1916年春、ケースメントの反逆罪逮捕のニュースをモレルは聞きます。1917年8月、モレル自身も家宅捜索を受け、当時スイスにあって反戦を唱えていた作家ロマン・ロランに反戦パンフレットを送ったという些細な行為を口実として逮捕され、ペントンビルの刑務所に投獄されて、ケースメントの絞首刑が執行されたその同じ刑務所で、6ヶ月の重い労働を強いられました。DCUの同志であったバートランド・ラッセルによれば、刑を終えて出獄してきたモレルは以前の黒髪が完全に白髪と化し、身も心も破壊された男に見えたといいます。獄中で損なわれた健康は二度と元には戻りませんでしたが、モレルの精神は不屈でした。出獄したモレルは自由党を脱党してDUCの同志たちと共に独立労働党に入党し、ここからモレルの人生の第三段階、最後の闘争が始まります。
 1918年11月パリ郊外で休戦条約、つづいて1919年6月ドイツと連合国との間でベルサイユ講和条約が調印されました。モレルの人生の最後の5年間はこのベルサイユ条約の根本的改正に向けて捧げられました。その条約は敗戦国ドイツに対して余りにも苛酷なものでした。「ベルサイユ条約は必ずもう一つの大戦をもたらすであろう」とモレルは予言しました。1922年の国会選挙でモレルは労働党から立候補し、対立候補として自由党から立ったウィンストン・チャーチルを見事に打ち負かして当選しました。1924年11月12日、自宅の近くの森の中を散歩していたモレルは疲れを覚えて一本の木のもとに腰をおろし、そのまま死を迎えました。51歳、奇しくも盟友ケースメントと同じ享年でした。
 第一次世界大戦の戦死者約一千万、戦傷者二千万、今にして思えば、モレルが唱えた通り、必要性のない戦争でした。1933年、ドイツにヒトラー政権出現、1939年、第二次世界大戦勃発。モレルの予言は正しかったのです。全世界で四千万を超える人命が戦火で失われたと考えられています。
 1903年、コンラッドはケースメント宛にレオポルド糺弾の公開書簡を送り、モレルはその著書の中でコンラッドの『闇の奥』をコンゴ自由国指弾の書として讃えました。この時点で三人の人生軌跡は友好的に交差していた筈でしたが、それから15年、戦争中、英国政府から依頼を受けて戦争協力の文章をも筆にしたコンラッドはケースメントからもモレルからも遠く隔たった地点に立っていました。

藤永 茂  (2006年9月27日)