glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

老いるとは?

2007-08-27 16:23:29 | Weblog
 田舎に行ってきました。長兄は80歳を超えています。義姉が皮膚がんの手術をしたのでその見舞いでもあったのです。
 そして奇妙なことに気付きました。手術後念のために組織検査をしたら正常であった、だから癌ではなかったというのです。息子から電話が来た時も癌ではなかったと言い張っていました。

 その検査結果の意味するところは組織に癌が残っていないということだと思うのですが、思考のどこかが欠落してしまった、あるいは自分がこうであって欲しいと思ったことを正当化して思い込んでいるのではないかと思いました。

 本人も言うのです。毎日の決まったことを繰り返すするのは苦痛ではないけれど、ちょっといつもと違がうことをしなければならなくなると混乱して元に戻るのに時間がかかったり、自分がしようとしてていたことが何であったのか忘れてしまったりする、これがボケなんだろうかと。

 多分、脳が柔軟性を失い状況に対応できなくなるのが老化であり、混乱した時まだらボケとなり、それが継続するとボケといわれる状況になるのかと思いました。


 そのあと病院に行ったら義姉はいうのです。夫が頼んだことをなかなかやってくれないと。義姉は腰を病み、同時にパーキンソンとわかり靴下も一人で履けない状態になってから幾年たったでしょうか。義姉は自分のできないことはすべてやって欲しく夫に要求するのですが、夫が年を取り体力も気力も低下していることには気づいていないのです。

 もう80過ぎでしょう!いろいろできないのは当たり前でしょう!と私が言うと義姉は義姉でキョトンとしていました。

 義姉の退院後の兄夫婦の生活も気になりますが、私たち夫婦が老後に自立した生活を送るために、どんな意志をもってで生きてゆくべきか考えなくてはと感じました。

 老化とは長生きすれば誰もがたどらなければならない道ですが、夫婦であっても一方的依存は避けたい。それが私の願いです!
コメント (5)
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