「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

住田町世田米祭り

2007-05-05 23:15:36 | 郷土芸能
  5月3日午前、遠野では入部行列が行なわれたが、同日と翌日、隣りの住田町世田米では、4年に1度の祭りが開催(3年に1度だと思っていたのだが)されるとの情報を入手し、本祭の4日は予定が入っているため、急遽、越境することに。

                 

 柳田国男は「其れにつけても世田米は感じのいい町である。山の裾の川の高岸に臨んだ、到底、大きくなる見込みの古駅ではあるが、色にも形にも旅人を動かすだけの統一感がある」と述べている町である。柳田が訪れた頃とは町の風情も大分変わったのだろうが、気仙川沿いに並ぶ蔵は、今でも、なかなかである。
 
 「世田米」という名前はアイヌ語の「セタナイ」(狼が住んでいる窪地)からきた説と川の瀬が多い場所の前にある処との説があり、「セタマイ」と言う。
 遠野阿曽沼氏と世田米氏は姻戚関係にあり、古くからの交流がある地域。地名においても、土倉、金倉、平倉、草倉、石倉など、倉つながり地名があり、苗字でも、金野、紺野、多田、松田などが同様である。地名といえば、住田から赤羽根トンネルに至る間に恵蘇という地名があり、「えぞ」と読むのだろう。気仙郡として早くから開かれた地域と閉伊郡の南端の未開の地としての境界がこのあたりだったのかもしれないと通る度に思う場所でもある。開拓民が住む限界地として。

                 

 この世田米の4年祭(訂正5/7:三年に一度開催でした)がいかなる祭りかこの目で見ようとメインストリートに入るも流石にお祭期間中で、裏道から役場前へと移動させられる。通りには、上、下、中、あづまねの4ヶ所から山車が出て巡行中だった。本番は4日とのことで、本来は、此の他に神楽や五葉の鉄砲隊も参加するようである。山車から流れる音を聞くと、遠野の田植踊りと神楽のリズムに似ているような気がするが、この曲に合わせた踊りを目にすることはかなわなかった。流行り歌に手踊りを従えた山車祭りといった風情で、私の想像とは大分違うものだった。但し、山車は遠野のものより立派だと感じさせられる部分もあり、隣の大船渡や釜石と同様に船をモチーフにしたものもあり行った甲斐があったというものだ。資料によると大名行列も行なわれるようで、なぜ、この地でと思うも、また、いつの日にかみたいものだ。(それにしても、PRが足りないのでは?遠野にももっと情報を流してくれれば観光客は行くと思うのだが)

                 

 この祭りを本来掌る神社が「天照御祖神社」

 祭神は、天照皇太神、熊野大権現、天満大自在天神の三仕合祀の神社であったが、明治9年の太政官布告により八坂神社を合祀して世田米村社に昇格。村民全体の祠となる。本神社は当初は寛政年間頃は和山入口にあたる火石に祀られていたが現在地に遷座し、社殿建立の後土地神として信仰された。天保3年の大火で108戸余りが全焼し社殿等の一切が焼失した。天保5年、嘉永4年に再建し、石段、境内整備をした。・・・と神社の案内板には書いてあった。

  ●小股内膳(こまたないぜん)●
 寛永5年(1628)3月18日。遠野小友新谷のうち赤坂山へ気仙の小股内膳というものが入り込み、小屋を三つかけて金を掘り始めた。3月20日、新谷帯刀がかけつけて小股内膳らを追い出す。26日、再び小股、小屋を7つ作る。28日、新谷が再び追い出す。ところが、5月16日、小股は有住八日町の玉蔵院という山伏を連れてきて鉄砲50挺、鑓などをもって20ばかりの小屋をかける。これらの一連の騒動は、江戸幕府の裁定により、伊達藩の言い分がとおってしまう。
 実は、ここに登場する三人は婚姻関係にある。
この小股の長男の嫁は玉蔵院の娘で、小股の二女は新谷帯刀の妻。(小股は本姓紺野氏、玉蔵院の本姓は松田氏)また、小股内膳は天正年中に小股古舘というところに在って熊野大権現を建立している。政宗公に直々にお目見えができる立場にあったが、仙台で老衰により死亡。また、息子も仙台にて病死をしている。金山開発に関わる秘密保持の為に口封じをされた可能性が大きいような気がするのだが・・・。