かねてより、ゴンゲン様からご紹介のお稲荷さんを見に行ってきた。市内には、商家、農家を問わず、沢山のお稲荷さんがあり、その数、百を超えるものと思われる。それ故に、特別なイワレのあるもの以外には興味をもっていなかったのだが、今回のものには、それなりの物語性を感じてしまった。
本来の社は修復され、鞘堂が新しくなった。仕上げはこれから。
右側が、明治34年にこの稲荷さんが土渕村柏崎から遷したと書かれている札。
中央は、妙力稲荷を勧請したという札。日付や名前は入っていない。
左側は、天保2年に稲荷大明神の社を建築した時の札。遷宮導師喜楽院剛覚。施主は庄右衛門、大工は山口の由松、小工は金蔵。(この時代の喜楽院は剛覚という人だったことがわかる。喜楽院は系図が不明なので、こうして札にある名前を確認していくと世代書ができるかもしれない)
札の裏面には、明治の札には稲荷大明神と記されていることから、現在地に遷された時には、そう呼ばれていたことがわかる。日付不明の中央のものには、家内健全・・・の下部に個人名があり、この名前から現在地に移された以後の札であることがわかる。左側の梵字は私には理解不能。
今回の目玉のひとつ、木製の像。おそらく、創建時に奉られたものと思われる。彩色も現在の絵の具とは違う。目もそれなりのものが入っている。
像の台座の裏に文字があるのだが、今となっては読めない。作者銘があったのだろうが。
そして、大黒様。正面と背面にわけて製作された焼物。いい表情をしている。
神事の前に、この家の年寄り婆さんからこのお稲荷さんがどこから来たのか、お聞きする。柏崎の東側にある墓地の道路をまっすぐ奥に行った山の中だったと云う。戦時中に土渕の親戚筋の人に案内されて行ったのだとか。
近親者と大工さんとで神事を行なう。
お供え物の中に、お稲荷さんにつきものの油揚げがある。以前から9月15日には家族できちんと拝むのだとか。
この日、鞘堂が新しくされたことを記すお札を奉納して、平成の足跡を残す。
お話を伺った年寄り婆さんも、愛車に座りながら、拝む。
おまけ:社改修前の扉に記されていた文字。小鎚村の文字が・・・・。
この後、柏崎の以前あったとされる場所へ行ったのだが、かなり奥まで行っても、山の中で特定できなかった。ただ、この道周辺が古くから開拓された場所であったことを窺い知る痕跡が確認できた。もしかして、この道は柏崎から沿岸部に行く道として利用されていたのかもしれないと扉の文字を思い浮かべながら感じた次第。
札に記されていた天保という時代は、天明から天保と相次ぐ大飢饉の間の時期で、暮坪田植踊りや張山しし踊り、来内田植踊りが伝えられたとされる時代である。また、百専右衛門の踊鹿野開拓も。このお稲荷さんはユルグナイ(きつい)生活の中で、家族の幸せを祈って奉られたものであろう。それにして、名前にあった「庄」の字から、地域の中では庄屋格の家柄だったことがわかるが、その家が山中にあったことは興味深い。
本来の社は修復され、鞘堂が新しくなった。仕上げはこれから。
右側が、明治34年にこの稲荷さんが土渕村柏崎から遷したと書かれている札。
中央は、妙力稲荷を勧請したという札。日付や名前は入っていない。
左側は、天保2年に稲荷大明神の社を建築した時の札。遷宮導師喜楽院剛覚。施主は庄右衛門、大工は山口の由松、小工は金蔵。(この時代の喜楽院は剛覚という人だったことがわかる。喜楽院は系図が不明なので、こうして札にある名前を確認していくと世代書ができるかもしれない)
札の裏面には、明治の札には稲荷大明神と記されていることから、現在地に遷された時には、そう呼ばれていたことがわかる。日付不明の中央のものには、家内健全・・・の下部に個人名があり、この名前から現在地に移された以後の札であることがわかる。左側の梵字は私には理解不能。
今回の目玉のひとつ、木製の像。おそらく、創建時に奉られたものと思われる。彩色も現在の絵の具とは違う。目もそれなりのものが入っている。
像の台座の裏に文字があるのだが、今となっては読めない。作者銘があったのだろうが。
そして、大黒様。正面と背面にわけて製作された焼物。いい表情をしている。
神事の前に、この家の年寄り婆さんからこのお稲荷さんがどこから来たのか、お聞きする。柏崎の東側にある墓地の道路をまっすぐ奥に行った山の中だったと云う。戦時中に土渕の親戚筋の人に案内されて行ったのだとか。
近親者と大工さんとで神事を行なう。
お供え物の中に、お稲荷さんにつきものの油揚げがある。以前から9月15日には家族できちんと拝むのだとか。
この日、鞘堂が新しくされたことを記すお札を奉納して、平成の足跡を残す。
お話を伺った年寄り婆さんも、愛車に座りながら、拝む。
おまけ:社改修前の扉に記されていた文字。小鎚村の文字が・・・・。
この後、柏崎の以前あったとされる場所へ行ったのだが、かなり奥まで行っても、山の中で特定できなかった。ただ、この道周辺が古くから開拓された場所であったことを窺い知る痕跡が確認できた。もしかして、この道は柏崎から沿岸部に行く道として利用されていたのかもしれないと扉の文字を思い浮かべながら感じた次第。
札に記されていた天保という時代は、天明から天保と相次ぐ大飢饉の間の時期で、暮坪田植踊りや張山しし踊り、来内田植踊りが伝えられたとされる時代である。また、百専右衛門の踊鹿野開拓も。このお稲荷さんはユルグナイ(きつい)生活の中で、家族の幸せを祈って奉られたものであろう。それにして、名前にあった「庄」の字から、地域の中では庄屋格の家柄だったことがわかるが、その家が山中にあったことは興味深い。
知り合いのところとかんけーあるのかなと思いましたが
遷座ということは、以前のところには「今はねぇど」
なんですね。
棟札の喜楽院、権大僧都とありますね。当時で相当の位階をいただいている。
ところで、ワタクシ、訳あって大徳院と良厳院他の修験の争いについて詳しく知りたいのです。
例の八幡宮創建八百年記念誌にはもっと詳しく書いてあるのですか?
修験関係については、八幡様の本の他、図書館にある「修験者霞職の史的研究」森毅著にあります。また、八幡様の本のその部分を執筆した菊池照雄氏の他の著作の中にも、これらのことが記されているようです。この方については、ゴンゲン様のほうが詳しいはずです。
ところで、その訳っていうのが知りたいのですが?
2枚目の札に書かれた「飛行自在」って、なんです?
空飛ぶ・・・本当に飛んでいた? めちゃ興味そそられます。
んで、もうひとつ
柏原の山中にある庄屋。。。ってそれはもしかしてマヨヒガの類・・・???
浜への古道かも知れない。。。それも興味深いです!
先日は思いの外収穫が有り何よりでした。
今の名字と以前の名字が違う方なので、yamanekoさんの嗅覚同様の感覚を感じておりました。
後は笛の旦那にオマカセです。
「飛行自在」には、札を見ていた時にyamanekoさんと同様のことをお聞きしていた人がおりました。まさに妙力。
柏崎自体がなだらかな山ですから、ちょっと道を進んでも山中に至るといった具合で、残念ながらマヨイガとは云い難い場所でした。
先日はありがとうございました。以前居たという場所はわかりませんでしたが、「松崎じぇんご弐」の柏崎館跡を見ていて気づいたのは、道が館に続く道で、早くから開かれた場所であったのではと考えられることです。そして、山道を通って、山口に抜け、沿岸部へと続いていたのだろうと。そしてこの道の途中にデンデラ野があることも、面白いと感じているところです。