画像は、下組町はずれ新里愛宕神社。久しぶりに訪れると、ただでさえ、きつい石段が、ずれて、尋常では登れないほどになっていた。(その為なのか、階段下に仮の社が設えてあるのだが)階段を登りきると、空堀のようになった通路を通ってやっと神社に達する。おそらく、遠くない将来、この立派な神社の存在は忘れ去られるのではないかと思いながら眺める。
この神社、私自身、実は、よくわからない。遠野物語拾遺第64話に「ある時に、何某家の火事があったとき、神明の大徳院の和尚が出てきて、町内の者が来る前に火を消した。翌朝に失火元の家で礼にいくと寺では誰も知らないという。それで、愛宕様が消したとわかった」という話である。
遠野旧事記では「横田村の愛宕も、遠野殿時代の勧請と言い伝えられている。直栄様が八戸から入部されて以来、大破していたお堂を延宝2年(1674)に修復。地蔵像と石段は、正徳6年(1716)に新町の両川覚兵衛が寄進した。」とある。
現在、ここは、綾織町新里に入っているのだが、同じ遠野古事記・旧事記の作者である綾織縁の宇夫方広隆が、場所の名前を間違えるはずもなく、かつて、ここは、横田村の内だったのだろうか?例の書(コピー)を見るが、新里村ぶんには、愛宕社はない。綾織村と遠野城下横田村ぶんにあるがどちらのものか特定できない。
この神社に登ったのは、他でもない。以前に綾織羽黒派頭巾頭の慈聖院縁の月山神社の社が、この愛宕さんに移されたと記したが、その確認のためである。愛宕神社隣に、ご覧のような小さいながらもしっかりとした社があった。名前を書いたものは見つからなかったが、おそらく、これであろう。慈聖院がこの地域でずばぬけた修験者であった証のひとつに、岩手県指定文化財でもあり、遠野市指定文化財にもなっている「笈」(おい)がある。これは、修験者が背中に背負う道具である。(弁慶が旅するときに背負っている木製のリュックサックのようなもの)室町時代の作である。また、両川覚兵衛が寄進した地蔵像は、神仏分離令により、現在は新町の常福寺にあり、これも遠野市指定文化財になっている。
遠野修験道支配の本山派大徳院に繋がる者が、愛宕神社を霞場としていたような気がするのだが、そこに、なぜ、対する羽黒派慈聖院縁の社を移したのか不思議である。
それにしても、仮の社を階段下に造ったからといって、それで良いのだろうか?
登ってこそ、遠野を感じるのであり、あそこから見る愛宕橋もなかなか良いのだが・・・。まして、今なら、熊もヘビーもいないから安心なのに。 笑
この神社、私自身、実は、よくわからない。遠野物語拾遺第64話に「ある時に、何某家の火事があったとき、神明の大徳院の和尚が出てきて、町内の者が来る前に火を消した。翌朝に失火元の家で礼にいくと寺では誰も知らないという。それで、愛宕様が消したとわかった」という話である。
遠野旧事記では「横田村の愛宕も、遠野殿時代の勧請と言い伝えられている。直栄様が八戸から入部されて以来、大破していたお堂を延宝2年(1674)に修復。地蔵像と石段は、正徳6年(1716)に新町の両川覚兵衛が寄進した。」とある。
現在、ここは、綾織町新里に入っているのだが、同じ遠野古事記・旧事記の作者である綾織縁の宇夫方広隆が、場所の名前を間違えるはずもなく、かつて、ここは、横田村の内だったのだろうか?例の書(コピー)を見るが、新里村ぶんには、愛宕社はない。綾織村と遠野城下横田村ぶんにあるがどちらのものか特定できない。
この神社に登ったのは、他でもない。以前に綾織羽黒派頭巾頭の慈聖院縁の月山神社の社が、この愛宕さんに移されたと記したが、その確認のためである。愛宕神社隣に、ご覧のような小さいながらもしっかりとした社があった。名前を書いたものは見つからなかったが、おそらく、これであろう。慈聖院がこの地域でずばぬけた修験者であった証のひとつに、岩手県指定文化財でもあり、遠野市指定文化財にもなっている「笈」(おい)がある。これは、修験者が背中に背負う道具である。(弁慶が旅するときに背負っている木製のリュックサックのようなもの)室町時代の作である。また、両川覚兵衛が寄進した地蔵像は、神仏分離令により、現在は新町の常福寺にあり、これも遠野市指定文化財になっている。
遠野修験道支配の本山派大徳院に繋がる者が、愛宕神社を霞場としていたような気がするのだが、そこに、なぜ、対する羽黒派慈聖院縁の社を移したのか不思議である。
それにしても、仮の社を階段下に造ったからといって、それで良いのだろうか?
登ってこそ、遠野を感じるのであり、あそこから見る愛宕橋もなかなか良いのだが・・・。まして、今なら、熊もヘビーもいないから安心なのに。 笑
いっぱいに見えるんですがー。
途中に月見坂なる石を見つけた時は嬉しくなりました。
南側をもう少し間伐して低木で埋めると良い感じになりそうなんですが(←何が・笑)
遠野中にあるあたごの中でも有名どころ、石段の補修は必要かと・・・・
北側の倒れた石碑も起こしてあげないと可愛そうです。
入るなら・・・入ったなら・・・ヤッパリ奥までです!(健康ならですが)
火災の前(1ヶ月以内だった気がする)と○ねるずの
番組でロケに使用された記憶があります。テレビで見ましたが、記憶が・・確か肝試しだったような・・?
この火災に私も消防団で駆けつけました。
この図式がまかり通ると遠野は観光地と化します。
人は今の倍は来るでしょう。でも魅力は半減、いや潰えるでしょう。そうならないことを祈ります。
新里分になったのは近年ではないですかね・・・たぶん
当方は火災後の調査に出動・・・放火というよりお堂の中で暖をとろうとしたのではなかったかな?
ところで西風館の屋号旦那さまも別当のひとりなはずです。
足跡は、私の他に2人ぶんのが先にありました。残りのは、私が踏み荒らしたぶんです。全部で何人分になったでしょう?笑 私は、一往復しかしていません。
思い出しました私も、覚えています。あの火事。神社裏の民宿が出火場所かと思った記憶があります。火防の神様の神通力も効かなかったのは、日ごろの精進のせいかな?
遠野のすぐ町外れにありながら、それも、一般観光客が行ける範囲でありながら・・・・先が思いやられます。こういうときは、いつも、京都郊外の神社やお寺さんを思い浮かべます。手入れが行き届いて、さすがと思うほど。何にもないのが遠野なのかもしれませんが、すさんでいくのは、偲び難しです。記憶から、消される前にチェックして歩かねば・・・笑