「遠野」なんだり・かんだり

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住田町月山神社五年大祭

2018-10-21 22:14:11 | 郷土芸能

遠野盆地周囲の山々を見渡す限りでは、まだ紅葉には早いようですが、

 

数日前、外出ついでに附馬牛町のこちらまで行ってみました。

その後の天候にもよると思いますが、今週末ぐらいが見頃ではないでしょうか。

 

さて、本日は、時々愛妻からの情報により、

住田町下有住の月山神社の五年大祭へ出撃してみました!

 

今朝はスタートは良かったのに忘れ物を取りに戻ったぶん、時間ロスとなり、

神事はおろか芸能奉納にも遅刻です。

 

お昼休憩の間に神社を参拝しました。この神社、伝承では慶長年間に吉田筑後政義が祀ったものとのこと。

吉田政義は関ヶ原の落人の末裔で岩手県久慈市に流れ着き、後に下有住に移住し、高瀬付近を開拓。

元和6年(1620)伊達政宗により気仙郡大肝入を命じられ、今泉村(現陸前高田市)代官所に移り、

下有住に長男をおき、、次男は上有住根岸に分家とした。ということです。

 

芸能奉納会場の生涯スポーツセンターに着くと、既に最初の「火の土虎舞」は終わっており、

 

プログラムには、地区名:月山、演目:神楽

とあり、勝手に月山神楽のシンガクを演じるのだろうと思って観ましたが、

 

住田町教育委員会編「住田の歴史と文化」を見ても、月山神楽という名前が見当たらないことと、

胴取りの方の袢纏に高瀬鹿踊とあったことから、これは高瀬神楽だろうと推定しました。

明治30年に陸前高田市矢作の馬之助から習った人と、

明治33年遠野市附馬牛町大出から師匠を招き習得した人たちがいて、これらを集約したのが始まり。

その後、遠野市宮守町鱒沢の山蔭彦太郎から教授を受け、拍子が変わり、変遷して現在に至る。

という事のようです。

山蔭彦太郎を調べてみると、江戸時代に鱒沢にいた羽黒派修験善行院宗栄の弟で

分家となった多助から五代目の人物でした。

大正15年に78歳で亡くなっているようなので、江戸時代には善行院の関係者が神楽を演じていたことになります。

 

次の手踊りはカットして、その次が新切の大神楽

「住田の歴史と文化」には新切神楽とあり、鳴り物には、三味線、笛、大鼓、小鼓、太鼓。

話が逸れますが、仲町南部ばやしでは60年ほど前に道具が足りなかった頃、赤羽根峠を越えたここ住田町坂本から

鼓を借りて遠野まつに参加していたことがあるそうです。

 

獅子の形状が遠野の物とはだいぶ違います。

 

獅子、道化(才蔵)、おかめ(お姫様)の他に手踊りの女性たちが一緒に踊っていました。

 

明治になってから上有住坂本から伝えられた大神楽とのこと。

という事は、明治には伊達藩領であった住田町に大神楽があったということになります。

 

次の手踊りをカットし、前半最後は地区名:外舘、演目:外舘鹿踊

住田町では郷土芸能が演じられる時のプログラムには、いつも、地区名又は団体名と演目が掲載され、

このように地区名:外舘、演目:外舘鹿踊となっていますが、演目は一番庭とかと、したほうが理解しやすいのでは?

 

金津流を名のっています。

宝暦年間に上有住二反田の甚内が隣りの江刺に出稼ぎに行って覚えてきたのが始まりとされ、

休止後、天明年間に復活、その後また休止、

昭和34年に青年たちが宇南田の柏崎善七、神田の高橋盛助を師匠として復活し、現在に至る。

ということです。

で、踊り終わった後で、舞手から演目名をお聞きすると「松島?」と云っているとのことでした。