遠野大工三人目は鶴田氏。
天保2年(1831)松崎町村兵稲荷建立の鶴田重吉を初見とし、安政元年、万延元年の御支配帳、面附帳に3人扶持喜三郎、惣兵衛が、慶応元年の遠野臣録帳に2人扶持巳代吉、徳四郎が、明治元年御支配帳に3人扶持喜惣治、同33年遠野士族名簿に3人扶持惣助、後に専助へと継がれる。
遠野大工四人目は細越氏。
安政3年遠野本城御家計図に平野、市川、鶴田、寒風氏と共に、忠治、忠和の名前が確認されている。同6年御支配帳に広治、忠兵衛、面附帳に広治、万延元年、明治元年に広治、遠野士族名簿に忠治、後に徳治へと繋がる。細越氏は、阿曽沼氏の家臣名にその苗字が確認でき、本姓は菊池。南部氏の時代に浪人した物の末裔か上郷の地名からきた苗字なのかは定かでない。
最後に、寒風氏。
重右衛門を祖とし、八戸譜代と称される大工の家柄で、天保14年(1843)御神明社の寒風伝兵衛が初見。嘉永5年(1852)伝兵衛の跡を息子欣五郎(17歳)が継ぐ。安政の遠野本城御家計図に上記緒家と共に寒風未生の名が記され、同6年御支配帳に2人扶持欣五郎、万延元年面附帳に清十郎、明治元年御支配帳と遠野士族名簿に同じく欣五郎がある。
欣五郎は、維新の頃には諸家と共に長柄組に属していた。慶応2年(1866)には総職司に挙げられ帯刀が許され、江刺県庁が遠野にあった頃に県の材木係となり、後に稼業に励み公共事業の施工などを行い、郡議会議員となる。(長柄組とは、幕末に沿岸部から来襲する恐れのある官軍に対し、遠野の同心達がその備えに出たために、手薄となった町内の警護に職人達を組織したもの)
明治25年先祖の八戸郷相内村にちなみ、姓を寒風から相内と改姓。八戸郷相内とは、現在の三戸郡南部町相内を指すのではないかと推察する。
様々な御支配帳に登場する五人の扶持大工。名前が登場する当初は、苗字を持たない人々だったようだが、何故にこのような姓を付けるに至ったのであろうか?
平野は花巻・東和辺りか? 市川は千葉ではないよね? 鶴田は津軽か? 細越は上郷か? 寒風は綾織か? 中でも、以上の5氏の他に別格としての20石を扶持ではなく知行地として頂いていた平野氏が棟梁格として明治まで存在していたことに興味を抱く。
まるで雲をつかむような話。この雲の上で、これらの人たちは「何を考えているんだ!」と笑っているかもしれない。
扶持をもらって最低限の食費を確保し、建て主から材料を支給してもらい、手間賃を頂いて仕事が出来た時代の職人は幸せだったのか?少なくとも、技をはっきする機会には恵まれていたのかもしれない。寒風欣五郎のように請負で工事をする今の時代は、景気に左右される。
地元の職業訓練校でも来年は大工さんになる1年生が少ないとか。
職人がいなくなっても、困らない家造りは可能なのだろうか?育てるも、滅ぼすも、それぞれの気持ちひとつ。
すっきり晴れる未来が見たい。と、大工のことが景気のことに話が変わったところでおしまい!お粗末さまでした。
天保2年(1831)松崎町村兵稲荷建立の鶴田重吉を初見とし、安政元年、万延元年の御支配帳、面附帳に3人扶持喜三郎、惣兵衛が、慶応元年の遠野臣録帳に2人扶持巳代吉、徳四郎が、明治元年御支配帳に3人扶持喜惣治、同33年遠野士族名簿に3人扶持惣助、後に専助へと継がれる。
遠野大工四人目は細越氏。
安政3年遠野本城御家計図に平野、市川、鶴田、寒風氏と共に、忠治、忠和の名前が確認されている。同6年御支配帳に広治、忠兵衛、面附帳に広治、万延元年、明治元年に広治、遠野士族名簿に忠治、後に徳治へと繋がる。細越氏は、阿曽沼氏の家臣名にその苗字が確認でき、本姓は菊池。南部氏の時代に浪人した物の末裔か上郷の地名からきた苗字なのかは定かでない。
最後に、寒風氏。
重右衛門を祖とし、八戸譜代と称される大工の家柄で、天保14年(1843)御神明社の寒風伝兵衛が初見。嘉永5年(1852)伝兵衛の跡を息子欣五郎(17歳)が継ぐ。安政の遠野本城御家計図に上記緒家と共に寒風未生の名が記され、同6年御支配帳に2人扶持欣五郎、万延元年面附帳に清十郎、明治元年御支配帳と遠野士族名簿に同じく欣五郎がある。
欣五郎は、維新の頃には諸家と共に長柄組に属していた。慶応2年(1866)には総職司に挙げられ帯刀が許され、江刺県庁が遠野にあった頃に県の材木係となり、後に稼業に励み公共事業の施工などを行い、郡議会議員となる。(長柄組とは、幕末に沿岸部から来襲する恐れのある官軍に対し、遠野の同心達がその備えに出たために、手薄となった町内の警護に職人達を組織したもの)
明治25年先祖の八戸郷相内村にちなみ、姓を寒風から相内と改姓。八戸郷相内とは、現在の三戸郡南部町相内を指すのではないかと推察する。
様々な御支配帳に登場する五人の扶持大工。名前が登場する当初は、苗字を持たない人々だったようだが、何故にこのような姓を付けるに至ったのであろうか?
平野は花巻・東和辺りか? 市川は千葉ではないよね? 鶴田は津軽か? 細越は上郷か? 寒風は綾織か? 中でも、以上の5氏の他に別格としての20石を扶持ではなく知行地として頂いていた平野氏が棟梁格として明治まで存在していたことに興味を抱く。
まるで雲をつかむような話。この雲の上で、これらの人たちは「何を考えているんだ!」と笑っているかもしれない。
扶持をもらって最低限の食費を確保し、建て主から材料を支給してもらい、手間賃を頂いて仕事が出来た時代の職人は幸せだったのか?少なくとも、技をはっきする機会には恵まれていたのかもしれない。寒風欣五郎のように請負で工事をする今の時代は、景気に左右される。
地元の職業訓練校でも来年は大工さんになる1年生が少ないとか。
職人がいなくなっても、困らない家造りは可能なのだろうか?育てるも、滅ぼすも、それぞれの気持ちひとつ。
すっきり晴れる未来が見たい。と、大工のことが景気のことに話が変わったところでおしまい!お粗末さまでした。