マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

音無川と王子街道(その4)

2015年12月25日 | 江戸の川・東京の川

 音無川は昭和初期に暗渠化されたが、上野台地の東側を京浜東北線と並行するかのように流れていた。日暮里駅を過ぎるあたりから京浜東北線が右へとカーブを切り始めるのに呼応するかのように音無川は左手へと進路を変え始める。

 荒川区と台東区の区境を進み“御行の松”を過ぎると、流れは小刻みに曲がり、直角に曲がったりするヶ所もある。自然な川の流れではありえないことだが、人工の開削によって造られた流れ、何か特別の事情でもあったのだろうかと思案しながら進み行くと、鉄道の高架が見え始めて来た。常磐線である。明治通りを渡り高架に近づくが、高架をくぐる寸前で道は直角に曲がり、常磐線とは交差しないで、直ぐに日光街道と交差する。(この辺りの重ね地図は最下段に)

 日光街道を渡ったところに右写真の掲示板があった。そこには「三ノ輪橋跡(音無川)」と題して、三ノ輪橋の由来が書かれていた。やや長いがその文章を記す。










  
(コンクリート部分がかっての音無川)  

 「三ノ輪橋は、石神井川の支流として王子から分流した音無川が、現在の日光街道と交差するところに架けられた橋である。橋の長さは五間四尺(約10メートル)、幅三間(約6メートル)であったという 音無川は、日暮里駅前を経て、台東区(根岸)との区境を通り、常磐線ガード手前を右折、その左角は私立池谷小学校(明治36年〔1903〕廃校)跡、そして現日光街道を横ぎり、日本堤の北側を流れて山谷堀にいたるものであった。
 明治41年(1908)、三ノ輪が属する16番分水組合が廃止され、音無川は農業用水としての役目を終えた。現在は暗渠となり、橋の名前は、都電荒川線の停留所として残されている」
 この表示を見て私は始めて三ノ輪橋由来を知った。音無川はこの付近では幅6m、想像した以上に幅があった。
 
 三ノ輪橋の下流で音無川は二手に分かれた。一本は日本堤の北側を流れ下谷堀に至る。吉原へ通う猪牙舟の発着所でもあった。もう一方は名前を思川と変え白鬚橋で隅田川に注いでいた。今回は思川暗渠を進んだ。大関横丁など行ってみたいと思っていた表示も目に入ったが、時刻は既に16時を過ぎ、日没が迫って来ていたので断念し先を急いだ。明治通りに再び出会ったあとは一直線で白鬚橋へと続くが、途中泪橋という交差点を通り過ぎた。バス停で見かけた名前。 

 立会川付近にあった鈴ケ森の刑場に対し江戸の北には小塚原刑場があった。刑場付近の川に架かっていた橋の名前が泪橋。これら泪橋は罪人にとってこの世との別れの場であり、家族や身内の者が今生の悲しい別れに泪を流したからこの名前が付けられたとか。

 
ここから後は20分ほどで白鬚橋到着。夕暮れ迫る橋から東京スカイツリーを撮影し、都バス“里22”で日暮里へと引き返し、紅葉坂を上り、自転車を置いておいた谷中図書館分室まで戻って来た。この間、時間にして3時間弱。(写真:いずれも白鬚橋付近で撮影)








      (三ノ輪橋付近の現在の地図。橙色の線が区境)


       (上とほぼ同じ位置の江戸時代の地図)