マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『湯の澤鉱泉』を訪ねて(その3 )

2012年10月21日 | 秘湯へ

 湯の澤鉱泉の良さを書き留めておきたい。

 人里離れた静かな静かな一軒宿の創業は天保年間。150年の歴史を持ちます。
 「よくいらっしゃいました。どうぞお上がりください」と大きな声の女将の、明るい笑顔で迎えられました。フロントでも部屋でも食事時でも、どんな質問にもハキハキとした元気な答えが返ってきます。「お客様ひとりひとりを家族が帰ってきたような気持でお迎えします」との対応を心掛けているそうで、私はついつい図に乗って「こちらに来て何年になります」など余計な事も聞いてしまいました。「嫁いで21年です」との返事。(写真:檜風呂全景)


 料理は山菜が中心で、秋はキノコ、春は山菜など地場産の食材を使った地元ならでは料理。今回は鍋料理に山菜がフンダンに使われていました。魚料理も
、鮮度の良い刺し身をはじめ、焼き魚、煮魚、川魚の焼き物など自慢の逸品が並びます。自家栽培の米で炊いたご飯に、自家製味噌の味噌汁、最後に手打ちの田舎そばも登場し、食べきれません。「湯の澤御膳」を、目でも舌でも堪能しました。
 リニュアル後に造られた客室は、別棟です、本館からそこへの移動は階段が便利かと思えますが、車イスでの移動がしやすいように緩いロープ状になっていて、これなど身体に障害を持つ人への配慮でしょう。
 近年、旅館業の運営は厳しくなり、まして福島近辺の宿の経営は困難を極めていることでしょう。交通不便な土地にある湯の澤鉱泉では尚更の事と想像出来ました。その様な状況の中でも健気に健闘する、茨城県でたった一軒の「秘湯を守る会」の宿。見送りの女将の「又来てください」の声に惹かれて、応援に来たいなと思いながら宿を後にしました。
 
 次に向かったのが「袋田の滝」。30年数前とは様子が全く違っていました。入館料300円を払い、長いトンエルを抜けると観瀑台があり、更に奥にはエレベータが設置されていて、これで44mも上昇しました。ここから、滝を眺めると、袋田の滝が四段の滝であることが、はっきり分かります。(写真:袋田の滝)





 最後に訪れたのが「西山荘」。入山料735円の高さに吃驚。ここまで来て引き返す訳にもいかず、入山しましたが「光圀公が隠居した建物に、現役を引退した者の料金735円高すぎ。割引制度ないの」と、ついつい嫌味を言うと、受付嬢、申し訳なさそうな顔をして「スイマセン」。ここは「徳川ミュジアム」の分館なのです。(写真:西山荘内)

 かくして内原に戻り、一路帰宅の途についたのでした。


『湯の澤鉱泉』を訪ねて(その2 檜風呂も震災に)

2012年10月19日 | 秘湯へ

 2日間の旅案内と運転を任せた伊達君がまず案内してくれたのが「偕楽園公園」。
 言わずもがなですが 偕楽園は金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ「日本三公園」のひとつで、天保13年(1842年)に水戸藩第九代藩主徳川斉昭によって造園されました。と言うより、約13ヘクタールの広さを持つ園内には約百品種・三千本の梅が植えられ、梅の園として名高く、私も40年前に職場の旅行の折りに訪れた事がありました。

 まず護国神社に寄りました。忠君碑が多数ある神社は私の趣味に合いません。
 次に訪れたのが偕楽園。入場料190円のところ70歳以上は無料の恩恵にあずかり入園。梅林を観たのち、好文亭を見学。好文亭は木造2層3階建てで、斉昭はここに文人墨客や家臣、領内の人々を招いて詩歌や慰安会を催したそうです。(写真:好文亭表門)



 
今年2月7日、3・11地震での損壊から回復し見学が可能になっていました。1階では襖絵を鑑賞できます。3階に昇ると、そこからの展望が素晴らしい。高台にある偕楽園の一番高いところからは遮るものは何もなく、市内が一望できます。眼下に広がるのが千波湖と桜川。子供たちが遊ぶ広大な緑地や花園。常磐線電車が通り過ぎる光景も見られます。森林の更に向こうにはより大きい緑の敷地もあるそうで、広大な広さを持つ公園を眺めました。(写真:好文亭)

    (好文亭3階より、偕楽園公園を望む)

     (公園より好文亭を望む)     

 園内を歩きながら語る伊達君の話では、その広さは世界第2位との事。水戸ビイキの話でそんなことはないだろうと思った私は帰宅して調べてみました。
 
1999年7月に隣接する千波公園などとあわせて名称を「偕楽園公園」としていました。その結果公園の面積は何と合計300ヘクタールに及び、”都市公園”の括りのなかではニューヨーク市のセントラルパークに次いで世界第2位の広さであることを知りました。
 偕楽園の後は花園の散歩道などを歩み、合計2時間はたっぷり散策したでしょうか。徳川記念館へ回る時間はありませんでした。偕楽園を後に、愈々湯の澤鉱泉へと向かいました。

 湯の澤鉱泉へは、久慈川や水郡線と並行して走る国道118号線を北へと遡ります。車を走らせること40分ほどで左折し、山間への道をたどり、更に左折し沢筋への道を下ると、一軒宿の、今宵の宿がありました。
 早速湯に向かいますが、その時間帯男性は「岩風呂」。夕食中に男女が入れ換わります。食べきれないほどの夕食の後「檜風呂」へ。昨年の大震災でこの宿の地盤が沈下。檜風呂も大きな被害を受けたそうで、その修理に50日間を費やすも、復元叶わず、一部にタイルを入れての修復だったそうですが、それも又奇なり。柔らかい肌触りの湯で私は大満足。(写真:檜風呂。向こう側の湯床はタイル)
 50年振り再会の会話は50年前に遡ります。伊達君持参のアルバムで、若き日の自分達を懐かしみながら、夜遅くまで呑みかつ語りました。
 
 (付記 足立の花火を福寿会健脚3人組のKさん、私とは対岸での見学。私の位置からは見えなかった”富士山”などの写真を送ってくれました。そこでそれらの写真を挿入し、10月15日のブログ更新しました)

 


『湯の澤鉱泉』を訪ねて(その1 旧友と再会)

2012年10月17日 | 秘湯へ

 50年振りに高校時代の友人と再会し、秘湯を守る会の湯「湯の澤鉱泉」を巡る旅を楽しんで来ました。

 発端は、春と秋の年に二度ほど、山か旅を共にする瀧川さんへ「秋の旅路」と題してのメールを送付したときに遡ります。秋の旅先きを3つ提案しました。①旧友伊達君と三人で、湯の澤温泉への宿泊 ②高尾山から裏高尾への日帰り縦走 ③高川山+ハーヴェストクラブ山中湖への宿泊 がその内容です。そのうち①が希望との返信が来て、その準備を進めて来ました。

 瀧川さん、伊達君と私は都立小山台高校定時制の同窓生。その内、特に伊達君は特異な人生を歩んできました。私とは同学年・同クラスでの高校生活をスタートさせましたが、高校3年生の時再び肺結核を患い、2年の留年を余儀なくされました。23歳での高校卒。結核療養中に政党活動に目覚め、30代で茨城県へ移住後は県議会議員選挙にも立候補したこともある”つわもの”。その名も伊達郷右衛門。今は県平和委員会の代表幹事を務めるなど、45年近い年月を”世直し”活動一筋に生きて来ました。高校時代も含め呑み友達でもありましたが、卒業数年後からは年賀状のみの付き合い。ずう~と気になる存在でした。

 さて湯の澤鉱泉ですが、朝日新聞にこの鉱泉の檜風呂が紹介され、水郡線「山方宿」駅下車の鉱泉宿と知りました。その時に水戸に住む伊達君の事を思い出し、何時かはと心に留めておいた事が実現したのです。(写真:湯の澤鉱泉玄関)


 
 その彼との再会は常磐線「内原駅」。駅の改札で、お互い直ぐには気が付きません。それらしき人物に、私は手を振り自らを名乗ると「道で会ったら誰だか全く分かんらんな」と彼。50年振りの再会の、最初に交わした会話です。

 この40年、車で地球を10周はしたと豪語する彼の運転に任せて、
 10月14
日(日)~15日(月) 内原⇒水戸偕楽園⇒湯の澤鉱泉⇒袋田の滝⇒西山荘⇒内原 と巡った旅は次回ブログに。(写真:偕楽園の梅林)


足立の花火

2012年10月15日 | 身辺雑記

 久し振りに花火見物に出掛けた。それも秋の花火である。
 毎年、我がマンション屋上での「隅田川花火鑑賞会」で、遥か遠くに花火を観ることはあっても、近くに花火を見上げるのは、諏訪湖の花火大会以来、実に10数年振りの事。

 10
月13日(土)、地元区議会議員高畑さんの呼びかけで、駒込病院前から北千住行きのバスに乗車した一行9名は千住桜木で下車し、会場に向かいました。西新井橋付近の荒川河川敷には、土手にも平地にも既に大勢の観客がシートを敷き、缶ビールを飲みながら18時の打ち上げ開始を待っています。高畑グループも持参のシートを敷き、配られた弁当を食し、缶ビールを味わいながらその時を待ちました。花見の宴と雰囲気が全く似ています。

 荒川の花火大会は今年が34回目にあたるそうで、一昨年までは夏に開催されていたものを、昨年は3・11大地震に鑑み、開催を夏から秋に変更しの開催。その時期での実施が好評だったのかは知りませんが、今年も秋10月の実施。
 18時前からの放送で花火の内容が語られます。四部に分かれて総数15000発の花火が70分間で打ち上げられ、昨年は50数万人の人出であったそうな。足立区制成立80周年を記念しての大会でもあるとの事。

 18時丁度、”ズドン! ズドン! ”との轟音とともに落ち上げ開始。速射砲のように連続して打ち上げられ凄い迫力で、頭上真上に花火が輝きます。暫し、ときを忘れ光と色彩の祭典を楽しみました。終演間近にはナイアガラも登場し、拍手喝さいを浴びてイベント終了。花火鑑賞の楽しさを再認識し、来年も是非と思って会場を後にしました。














『幸福の黄色いハンカチ』は”戻りたい!”の意思表示

2012年10月13日 | 身辺雑記

 新協建設工業という名の建設会社を知ったのは今年の3月19日のこと。会社主催の「首都圏外郭放水路」の見学会に出掛けたときです。非常にお安い費用のバス見学で、豪華ランチも付き、又、利益を社会に還元したいとの会社精神にも惚れて、「友の会」に入りました。3ヶ月に一度送られて来る機関誌が『住まいの友』。その秋季号に荒浜が取り上げられていました。新建設家集団による「建設とまちづくり」セミナーに参加した事務局長の報告です。

 10月10日のブログと重複する部分もありますが、その冒頭部分を紹介します。
 ≪宮城県若林区荒浜。セミナー3日目に訪れました。真っ白な広い海岸、青い空。絶好の海水浴場として賑わっていました。防潮堤の内側には多くの民家があり漁業施設もありましたが、今は建物基礎のコンクリートが、一面の夏草に覆われています。ここは災害危険区域に指定され、建物を再建することができません。「あんな恐ろしいところに二度と帰りたくない」という人と、「どうしても帰りたい」人が分かれています。
 帰りたい人が自宅の跡地に”幸福の黄色いハンカチ”を掲げ、小さなテントを張っています。「移転を希望するものも住み続けることを希望するものも、ふるさと荒浜が大好きです。どちらも生きていける道を求めて努力しております。」という看板が立っていました。復興への選択肢は画一ではないでしょう。安全な暮らしを再建するため勉強会を続けている住民の人たちもいます≫と記され、以下南三陸町などの現状報告が続きます。


 映画『幸福の黄色いハンカチ』の舞台は北海道。高倉健主演でした。リメイク版では、確か武田鉄也が主人公を演じていました。どちらも夫の帰りを待つ妻が”貴方を待っています”と掲げた旗が、翩翻とひるがえっていました。その黄色い旗は、今東北仙台の
荒浜では”ここに戻りたい”の意思表示となっています。