マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

運慶仏を拝観に浄楽寺へ(その2)

2019年03月19日 | 仏像

 浄楽寺で運慶仏を拝観し、岡崎の瀧山寺以東では栃木の光徳寺を除いてすべて運慶仏を現地で観たことになった。それにしても運慶仏に間違いないとは誰が何をもって”認定”しているのだろうか?更にまた、何故そのお寺さんに運慶仏はあったのか?

 願成就院や浄楽寺の場合、X線透視により銘札に書かれた造像の経緯から運慶仏とわかったそうな。瀧山寺ではX線透視の結果、聖観音の像内納入品が判明し、それが決め手になったとの話を1月に聞いてきばかりだ。

 浄楽寺では資料を頂いたり、購入したりしてきた。それらに拠ると、
 「浄楽寺の五体の運慶仏は長らく成朝という仏師によるものとされてきた。しかし、1959(昭和34)年にレントゲン撮影が行われ、毘沙門天と不動明王の体内から銘札と言われる木札が見つかり、それにより、依頼主である和田義盛とその夫人の名、仏師運慶の名、更に小仏師(弟子)十人を率いていたことも分かった。本尊より先にこちらが運慶仏と認定された。(右写真:毘沙門天と不動明王の体内の銘札に書かれていたものに運慶の文字がある)
 阿弥陀三尊には銘札は発見されなかったが、三体の体内に陀羅尼(だらに:梵字)が墨書されていて、その筆跡が銘札と一致したため、五体すべてが運慶仏と確定した。
 銘札は「月輪形」と言い、上部の円形部が月を模し、月は仏像の魂を表し、それを体内に収めることで、仏像に魂を込めることと、仏師の名を体内に残すことの二つの意味を持つ。運慶は体内にこうした像内納入品を残していることが多く、浄楽寺の銘札発見は関東の運慶仏研究に大きな影響を与えた。」と。

 お内儀と思しき方は「本寺は鎌倉にある光明寺の末寺です」とも語った。確かに大きな敷地を有するお寺には見えなかった。ではどうしてここに運慶仏はあるのか?
 再び資料から、
 「ここの仏像はすべて和田義盛が1189(文治五)
年に運慶につくらせた。北条時政が1186年に韮山に願成就院を建立した際に運慶仏をつくらせたことを聞いた義盛は北条時政への対抗心からその3年後に運慶仏を作らせたとも、造像の発願は奥州遠征の勝利を祈願してとも言われている」と書かれているが推測の域を出ない。

 造仏から24年後の1213(健保元)年、和田義盛は北条氏との戦いに敗れ、67歳の生涯を閉じている。よくぞ運慶仏は無事であったなと思う。
 

 
 
 
 
 

 
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。