6月22日(土)、東京都水道歴史館主催の『江戸上水基礎講座』第2回に出席してきた。担当学芸員は前回と同様の金子氏。多分全6回を講義されるのだろう。パワポを使用してのテンポの速い講義になんとか食らい付いてきた。
今回のテーマ「神田上水」がポピュラーであったからか、100席ほど用意された椅子席は殆ど満席で、不覚にも講義開始5分前に着いた私は最後列に座らなければならず、パワポの画面を見るのに立ち上がらなければならない場面もあった。
このブログの読者の方も知っているだろう基礎的な事柄も含めて、この日の講義内容をまとめておきたい。
(1)神田上水とは
江戸時代の初めに造られ、1901(明治34)年まで機能した、江戸の二大上水のひとつ(他は玉川上水)。その流路は井之頭池の湧水に発し、善福寺池、妙正寺池からの水を合せながら現在の神田川の経路をたどり、目白台下の関口大洗堰から分流し、水戸徳川家の小石川邸を経て、お茶の水の掛樋を通り、駿河台下から神田・日本橋方面へ導水されていた。大洗堰で分流された余水は江戸川(1980年からは神田川に名称変更)と呼ばれ隅田川へ。(写真:三田上水などを除いた江戸四上水概略図)
(2)平川の付け替え
明治まで存在した神田上水の流路が確定するのは、元和年間(1615~24年)の平川の付け替え以降となる。この付け替えは、現在の神田川→日本橋川→東京湾へと流れていた旧平川を、隅田川へと流れを変える仙台藩の堀削で、お茶の水駅のホームから眺められる流れがそれ。
(3)神田上水の誕生
実は、神田上水の成立年代や、その経緯を明確に記した資料は発見されていない(玉川上水の成立年代は明確に資料に残る)が、家光の寛永年間後期には流路が固まっていたことが、各種絵図からわかる。
今のところ、神田上水の存在が確実に分かるのは、その流路が描かれた臼杵市教育員会所属『寛永江戸全図』のようで、江戸城の整備過程を考えれば、幕府成立後の慶長期あるいは仙台堀掘削後の元和~寛永前期あたりと推測できる。(私の感想・・・学芸員ともなる、物言いが慎重になるな)
(4)神田上水の流路
井の頭池・善福寺池・妙正寺池からの湧水を併せた流れは関口大洗(文京区関口)に至る。そこで神田上水を堰き止めて水位を上げ、分岐導水した。石組みで、方形の堰が設けられていて、中央に造られた溝から余水を下流に流す。増水した際に、堰が壊れないように、水が堰の上面を越えて流れる仕組みになっており、上面の石畳を水が洗う様に流れることから「洗堰」と呼ばれた。
堰から取り入れられた水は、白堀と呼ばれる開渠で水戸徳川家の上屋敷に入り、屋敷 では園池(後楽園)にも水を供給し、その後本管は暗渠(地下)となって、お茶の水換樋を渡り江戸市中に配水された。(写真:上は関口大洗堰。下左は神田川と立体交差する懸樋。いずれも『江戸名所図会』より。下右はこの地点に懸樋があったことを示す碑で、現工芸高校前辺り)
(5)神田上水の終焉
水質管理の為、関口大洗堰から水屋敷間の白堀部分のアーチ状の石蓋が為され(その辺りは現在巻石通りと呼ばれている)などの補修はあったものの、1901(明治34年)神田上水と玉川上水は利用停止となった。