帯広滞在2日目は息子一家と「おびひろ動物園」に遊びに行った。帯広に行って初めての事で、多分孫が生まれていなかったら、訪れることは無かっただろう。息子夫婦はパスポートでの、私達は半額料金210円を支払っての入園。
孫は、動物を見るよりも「遊具」の乗り物にパパやママと乗り、大喜びだった。パパとは豆電車「弁慶号」に数回乗車した。ママとも、パパともメリーゴーランドに。ゴーカートは私も押してあげた。遊具ドーム内には滑り台やパンダ号があり、私も乗って二人で”記念撮影”した。
初日、6ヶ月振りに会った孫に泣かれはしなかったが、あまり懐かれはしなかったのだが、この動物園で一緒に遊んだのが効果テキメン。「じいちゃん」・「ばあちゃん」と懐いてきた。手も繋ぐ様になってきた。久し振りに会う私達に孫が早く懐くようにとの息子夫婦の気配りに私達は感謝した。
私は動物園は遊園地が中心かと思い込んだがそうでは無かった。相当広い動物園で、いろいろな動物がいるらしい。まずは象を見にいった。右写真のナナは既にここでの暮らしが54年。「象のいる動物園は北海道ではここだけ」と書かれている。エ!あの有名な旭山動物園に象はいなかったっけ。
息子夫婦とは一時ここで別れ、十勝川温泉で落ち合った。航空券とセットのホテルは、連続の2泊でなくてもよいとの事。そこで、息子夫婦が宿泊可能な土曜日から日曜日にかけての2泊目、私たちと息子一家の合計5人で温泉宿へ。計画は妻が立てていた。十勝川温泉の詳細は知らないのでネット情報を頼りに予約したのは「湯元 富士ホテル」。帯広駅からバスで25分のこのホテル、大正解だった。 温泉が自家源泉で、加水も加温もしない、100%かけ流しのモール温泉はぬべぬべして肌に心地よい。薄茶色の温泉は如何にも温泉という感じがする、入浴適温の42度。食事も接客態度も◎。無料での家族風呂も有難かった。帰京翌日には葉書の礼状も届いた。癖になるホテルだ。
3日目の朝、別れの時に孫は泣いた。


ここでもスタッフ3人によるコーラスが聞けた。孫は保育園に預けられていてまだ顔を見られなかったが、息子夫婦とは6ヶ月振りの再会。帯広での4日間はかくして始まった。(写真:翌日。動物園で)
今年の1月に、妻とその友のトモさんと私の3人で、金沢文庫・称名寺に出掛けた折に、トモさんから「これ大変にお得です」と『みさき まぐろ きっぷ』と名付けられたパンフレットを渡された。
よく読むと、三崎方面に出掛けるに、非常に便利でお得な切符が紹介されていた。品川駅から乗車の場合の発売額は3500円で、①京急の電車・バスの、1日自由乗車券。②加盟店でのまぐろ満腹券③三浦・三崎おもひで券、の3枚綴りがセットされていて、③を有効活用すると温泉入浴も可能。
いつかこの切符を利用して三浦・三崎方面へ出掛けようと考えていた。高校時代からの友人瀧川さんと久し振りの再会を決めた時に、横浜市に住む彼ならば三崎方面は比較的近いはず。称名寺裏のハイキングも良いなと思い至り、この機会を捉えての「きっぷ」利用を彼に提案すると二つ返事で「OK」との事。
かくして5月28日(月)、二人で三崎方面へ出掛け、称名寺裏ハイキング→三崎港で昼食→城ヶ島京急ホテル「雲母の湯」入浴→金沢文庫商店街すずらん通りで一献、と巡ってきた。 京急横浜駅で落ち合い、まず向かったのが称名寺裏ハイキング。金沢文庫駅で下車し、徒歩で称名寺へ。1月に参拝した時にこの寺の裏山が「称名寺市民の森」として整備され、ハイキングコースになっていることを知ったので、一度歩いてみようと思っていた。
称名寺本堂を出発点に裏山を一周して元へ戻って来るコースは、道がよく整備され、標高差150mくらい。所要時間1時間程度。途中石仏群などがあり、展望台からは対岸の房総半島も望め、ここで小休憩。家族で森林浴を楽しむにはベストの散策コースだ。 (下の写真:微かに房総半島をが)
京急電鉄とバスを乗り継いで三崎港へ。「きっぷ」に載っている32軒のお店のなかから一軒を選んで、B券利用でまぐろ満腹というシステム。瀧川さんにお店の選択を任せると、「お刺身だけでないは無い料理が味わえて、小ぶりのお店に行きたい」とのことで、港からすこし外れた「日の出」の「海浜割烹 柳」へ。右写真のマグロ尽し。私としては刺身三昧と行きたかったが・・・。
食後、バスで城ヶ島へ。ここは高校時代の遠足以来のことだ。ごつごつとした岩場で集合写真を撮ったことを思い出した。京急ホテル内の温泉「雲母」へ。ここの露天風呂からは大島・伊豆半島・真鶴半島が見渡せたが、曇りで富士山は眺められなかった。手土産が旅ソックス。 バスと京急の特急に乗車し金沢文庫駅へ。1月に、駅チカの「すずらん通り」には適当な飲み屋が沢山ある事を知った私はこの地へ彼を誘い、ここでの飲み屋の選択も彼に任せた。「手羽先番長」で良い気分になり帰路についたのでした。
受けたサービスの代金の概算。京急電鉄1600円。京急バス1200円。昼食2200、雲母の湯1000円の合計6000円ほど、3500円を払っても満足度は高かった。(下の写真:微かに大島が)
女性の住職も外国人僧侶も珍しくはない。女性の宮司さんも随分前に誕生している。2年前には、三島神社の宮司さんから苦労話を伺ったこともあった。いずれ、女性の行司だって出現するかも知れない。しかし、女性住職と外国人僧侶とのカップルは非常に珍しいのではないだろうか。それ故毎日新聞も取材に出掛け記事にしたのかも知れない。
5月21日、願成就院大御堂内で、副住職さんは自ら進んで、二人はゴルフ全英オープン会場内のレストランでデートしたこともあったと語り、途中からは夫さんも話しに加わり、会話こそしなかったが、彼は終始ニコヤカだった。
送付を依頼していた、毎日新聞4月2日朝刊(静岡版)もようやく届いたので、その記事も加え、夫・小崎キース(49歳)さんに焦点を当てながら、今日のブログを綴ることにしたい。(右上の写真:毎日新聞に載った二人の写真。大御堂内で)
キースさんはロンドン警視庁の事務員として働きながら大学を卒業。2000年から5年間、鹿児島県・奄美大島や金沢市で英語教師をした後英国に戻った。2009年に、願成就院住職の次女で、英国の企業で働いていた小崎淳子さんとロンドンのレストランで知り合い、交際が始まった。
いずれ寺を継ぐこと決めていた淳子さんは帰国。(私の推測だが)淳子さんのあとを追って、キースさんも日本にやってきて、姓を小崎と変え、2012年に二人は仏前結婚。勿論願成就寺で。
キースさんは毎朝6時の鐘撞に始まり、大御堂に安置されている運慶作の国宝に線香を上げ、庭をはき清める。日中は拝観受付をしたり、拝観者の案内をしたりしている。私達が訪れた時にも彼は札場にいたのだった。
修業は容易ではない。外国人には難しい正座、漢字の経文。ローマ字で読み仮名を振り、住職と淳子さんの読経を何度も聞き、般若心経だけは何とかそらんじられるようになった。「全く違う文化の中で、よく乗り切ってくれています」とは淳子さんの弁。その淳子さんは昨年、高野山での120日の修行を終えて僧侶となった(この寺は高野山真言宗だった)。
「訪ねて良かった」と、大御堂を開けて5体の国宝の姿を目にした瞬間の参拝客の笑顔が大きな励みという(私の驚きも御堂の扉を開け阿弥陀如来の姿を目にした瞬間だった)。キースさんの僧侶目指して精進の日々が続く。
“英国人男性 愛の修行僧”が記事の見出しだった。
運慶作の阿弥陀如来坐像などの国宝を拝観し、副住職から色々なお話を伺った後、御堂内に、願成就院の往時の模型がある事に気が付いた。仏像ではないので可能かと思い、撮影をお願いすると、「済みません。堂内は一切撮影禁止なのです」とのことで、残念ながら諦めたが、全盛期には願成就院が如何に広大な寺院であったかが一目で分かる模型だった。巨大な池と小島が橋でつながれ、多くの堂宇が配置された模型だった。
大学受験の頃、鎌倉幕府の成立は1192年(いい国作ろう)と覚えたものだが、今では、それ以前の1185年には鎌倉幕府は実質的に成立していたとされている。4年後の1189年に、鎌倉幕府の初代執権北条時政によって建立された、北条氏の氏寺としての願成就院。壮大な伽藍を誇る、伊豆屈指の大寺院として、栄華を誇ったことは容易に想像出来た。この地で、1186年には運慶の造仏も開始されていた。 本堂を出て私達は「浅山講五十回団参記念之碑」に向かった。本堂に入る前に「浅山講」の文字の刻まれた碑を目にし、講は神社に固有のものと思い込んでいた私は、お寺さんで“講”の文字の入った碑があるのが不思議で、何だろうとの思いを込めて、2002(平成14)年に建てられた碑の全文を読んだ。概略次の様に刻まれていた。
1954(昭和29)年、創講者のひとり故高坂公一氏は友人と初めてここを訪れ、阿弥陀如来の慈顔に平伏合掌する一方、荒廃せる堂内に驚いた。浅草に帰って直ぐに、国宝護持の目的で、「雷おこし」社長を講元として、信仰団体「浅山講」を創立。第一回団参には約八百名の参加者があった。浅草の浅と韮山の山から「浅山講」と命名した。
1982(昭和37)年に2月に新しい大御堂が建立されが、再建の原動力は「浅山講」だった。浅草と願成就院の因縁深きことを刻して碑は終わっていた。 帰宅して願成就院の歴史を辿った。
1491(延徳3)年、北条早雲によって寺は全焼。僅かに再建されるも、豊臣秀吉の小田原征伐の際にも全焼。本尊を始めする仏像などは僧侶らの手によって、辛うじて運び出され、焼失を免れた。が多くの寺宝は灰塵に帰し、願成就院は事実上消滅した。江戸時代、北条氏の末裔北条氏貞によって再建されるも、昭和期に荒れ果てるに至っていたが、信仰心篤い、浅草商人衆の財力を得て、再建された。
過去829年を振り返れば、波乱万丈の歴史があった。それは今、英国人と結婚された女性副住職へとバトンタッチされようとしている。