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マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「松聲閣」で『竹取物語』(その2)

2016年12月12日 | 学び舎

 「松聲閣」は、1階に「菊」「朝顔」の和室が2つと、「花菖蒲」「芍薬」の洋室2つの、合計4部屋があり、こちらを利用するには事前の申込(抽選)が必要。私たちが使用した「芍薬」は最大24名までの利用が可能で、机・椅子など真新しかった。2階の2つの和室からなる展望所は誰でも自由に利用できる。その2階から眺める庭園の眺めは素晴らしい。Wi-Fiも完備され、1階の休憩室「椿」では抹茶と和菓子が500円で用意されている。(写真:展望所からの眺め)


 
            (2階の和室)

 私たち一行13名は2階から庭園の景観を楽しみ、記念撮影をして階下に降りて来た。1階玄関には肥後菊が飾られ、熊本のゆるキャラ熊もんも飾られていて、会員の中にはこの熊もんの大ファンがいて大喜び。
 松聲閣を後にして、全員で新江戸川公園内を散策した。ここは細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした池泉回遊式庭園で、目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、実に変化に富んだ景観を生み出している。晴天のこの日、皆思い思いに散策を楽しんだ。新江戸川公園の名称は「文京区立肥後細川庭園」と変更されるらしい。



 
                                (肥後菊)

 台地に上ると永青文庫。公園と
永青文庫は裏門で繋がっていて、公園の外へ出ることなく永青文庫へと通じていた。どちらも細川藩のものであった故に出来ること。永青文庫にはまだ1本の紅葉が残っていて、青空を背景に紅の鮮やかな色合い見せてくれた。
 ここで野間文庫へ行くグループと芭蕉庵へ行くグループとに別れた。私は芭蕉庵へ。
 芭蕉は2度目の江戸入りの後、3年間この地に住んだ。旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこの工事に携わったと言われている。後に芭蕉を慕う人々
は「龍隠庵」を建てたが、これが現在の芭蕉庵につながり、現在のものは第2次大戦後の建築。池の周りを散策すると「古池や蛙飛び込む水の音」の句碑が建てられていて、耳を澄ますと微かに水音が聞こえて来た。

 
(芭蕉庵内部に飾られていた、昔の神田川の絵)

 今日の二葉(北野天満宮御土居の紅葉)
   




 


「松聲閣」で『竹取物語』

2016年12月10日 | 学び舎

 1210日(土)の今日、文京区立「新江戸川公園」内の「松聲閣」で『竹取物語』読み合わせの最終回が行われた。
 松聲閣は、旧熊本藩細川家下屋敷のこの地で、細川家の学問所として使用されていたようで、一時期は細川家の住まいとして使用されていた。現在の建物は歴史性を生かして保存・修復を行うとともに、耐震性も確保して、今年の1月にリニューアルオープンしていた。この公園は入園料無料が大変に有り難い。(写真:松聲閣正面)





 公園には何度か足を入れたことはあったが、「松聲閣」を利用したことはなかった。機会があればこの建物内で「源氏物語の会」開催も良いなと考え、会員登録をしておいた。「松聲閣」を使用するには、直接現地で予約する以外に、オンライン予約も可能だが、その為には会員登録が必要で、抽選の結果「利用可」となれば使用料は自動引落としとなるシステム。会員登録の為には、必要書類を一式用意し「文京アカデミー」まで出向かなければならない面倒さがあったが、6月にそこは一気にやってしまい、この9月には予約完了まで終えていた。 
 今日は『竹取物語』の最終回でもあり、13名の会員が出席。今日の舞台は、かの有名な「天の羽衣」と「富士の煙」。かぐや姫は月に去り、帝は贈られた不死の薬は燃やしてしまったのでした。 
 
“逢ふことも涙に浮かぶわが身には死なむ薬も何にかはせん”と詠んで、帝の恋は悲恋に終わり、『竹取物語』は恋の物語と見れば完結していましたとは妻の弁。ここまで1年6回を語り終えて妻も肩の荷を下ろしたのだった。来年からは『更級日記』となる。

 
     

 昼食は亀戸「升本」の“すみだ川季節”(税込み1383円)を注文しておいた。富士前福寿会の誕生会などではここからお弁当を取り寄せることが多い。その縁で営業課長と知り合い、直接課長へ電話した。15000円以上の注文ならば、江東区から文京区のこの地まで運んでくれる。
 読み合わせは11時半には終了し、その後は昼食会。皆さん”すみだ川”を美味しい美味しいと、食してくれた。食事は食べきれないほどの量であったが、全員が完食していた。美味しいはお世辞ではなく本当に美味しかったのだと思う。会場準備と昼食確保は私の担当。この様な準備をしていて良かったとしみじみ思えた瞬間だ。その後、建物内部を見学し、永青文庫・芭蕉庵と廻ったが、それは次回に。



  今日の一葉(自宅撮影の富士山)
 


向丘高校平成元年卒の同窓会に出席

2015年07月03日 | 学び舎

 6月25日(木)に新東京丸に乗船した帰り、何年振りかで「ゆりかもめ」に乗車したというのに、その僅か2日後にも「ゆりかもめ」に乗車する巡り合わせが待っていた。向丘高校の平成元年卒の同窓会が台場の「ホテル グランパシフィック LE DAIBA」で行われ、出席して来た。私はこの学年の担任ではなかったが、お招きを頂き出席したのだった。
 実は、4月25日に自宅前で、その学年の吉橋さんと、お互いが自転車に乗車した状態ですれ違った。彼女はUタウンし私を追いかけてきて、電話番号などを聞いた。それが切っ掛けとなり、6月27日(土)の同期会が開催されることを知った。彼女は高校時代は陸上部員で、私は顧問。確か黒姫の合宿に参加していた。言わば同じ釜の飯を食した間柄。そんな彼女からのお誘いが出席への後押しとなった。(ホテルグランドパシフィック内の会場)




 会場はビル内の瀟洒なパーティースぺース(「g&g」か?)で行われた。立食形式ながら、テーブルに椅子が用意されていて、参加者の多くは着席しながらの飲食。これは楽だった。出席教員は元担任が6名/8名。担任外が3名の合計9名で、生徒諸君は62名/360名(分母は推定)。卒業後26年を経ての同期会としては頑張って多くの参加者を集めたというべきだろう。(写真:テーブルや椅子席が用意されていた)







 どのテーブルも、懐かしい旧友との再会に、食べるよりも語り合うことの方が忙しいようだった。会の
進行半ば、高校時代の学校行事の一つ「合唱祭」のモノクロ映像がスクリーンに流れた。3年生のときの全てのクラスの合唱の様子が登場。若く、細かったあの頃の、元気溌剌たる一瞬。
 
 私が名前を思い出せる生徒は数少なかったが、元生徒さんから話しかけられ、その頃の私の様子を語ってくれた。これは嬉しかった。集合写真を撮る場面で、撮影者のフラッシュが機能せず、私はしゃしゃり出て、私のカメラを使ってもらった。そのときの写真を見ると皆いい顔をしている。
(写真:26年前の合唱祭)


 

 同窓会として、ここを会場にしたのには訳があった。卒業生の平出秀雄君がここの料飲部の課長補佐にしてシェフパティシエ。その引きがあったと知った。彼の作るスフレチーズケーキはその世界では有名らしい。ネットで見ると、ホテル主催の「バレンタイン 親子お菓子教室」で、彼は講師を務めているようだ。卒業生の活躍に触れることは、担任ではなくても嬉しいものだ。帰路についたのは22時頃。東京湾の夜景を眺めながらの「ゆりかもめ」。二日前とは全く違う姿が見られたのだった。(写真:シュフパティシエの平出君)


大泉高校同期会に出席

2015年05月20日 | 学び舎

 5月17日(日)、大泉高校定時制を1968(昭和43)年3月に卒業した生徒たちの同期会が、中村橋「味三昧」で行われ、参加してきた。毎年5月の第三日曜日に行われるこの会へ、私は3年振りの出席だった。参加者は、元教員が3名、元生徒が7名(男子2名、女子5名)の計10名。
 大学を卒業したばかりの25歳だった私は、彼らが4年生の時の学年の、副担任として教員生活をスタートさせたから、年齢差は僅かに6歳。元生徒さんの最年少は67歳、という高齢者社会を象徴するような同期会だ。

 今回は、一人一人の“近況報告”は無かった。飲み放題のご酒を銘々愛飲しながらの、3時間に及ぶ雑談。話題の中心は、過去の曖昧な思い出話と、現在進行形の“健康と病”。これは学年会・同期会などの共通事象。長年幹事だったO君が、この会場予約直後に脳梗塞で倒れ入院し、現在はリハビリの日々とのこと。O君の人柄と脳梗塞と不親切な病院に話題は集中した。
 私は、そのO君を含む数名と尾瀬三条の滝付近で偶然会ったことがあった。その日の山小屋が一緒だったとは全く記憶になかった。同宿となり、一献傾けたらしい。S女曰く「そのとき、先生は私に向かって、“あの真面目なSが、酒を飲むようになったのか”と言ったんですよ」。そんなことを今さら言われても困る。しかし、私の授業が分かり辛いと愚痴っていたSさんと、40数年の時を超えてお喋りのときを共有する面白さ。ビールのみをかなり痛飲するSさんに成長していたが・・・。

 新米教員の私を何度もコケにしてくれたのがK君。今から丁度48年前に、引率した修学旅行先で、仲間数人と飲酒し、風呂場で大声で歌っているところを見つけて説教をしたら、「数発殴って気合を入れて下さい」と来た。私には死ぬまで忘れえぬ強烈な出来事だったが、そのK君は十数年前に亡くなったとの話を聞いて、私は一瞬シュンとしてしまった。

 会終了後、池袋で本を購入予定の、79歳のI先生と「服部珈琲館」にご一緒した。多分教員としての大切なことを一番多く教えて頂いた。仕事の仕方や生徒との接し方など、その後姿から学んだ事が多い。山登りや地図の見方も学んだ。決して自己自慢しない、控えめな人柄だが、大切な事は職員会議などできちんと論陣を張る。教員出発時点でそういう先輩を、身近に持てた有難さ。一昨年はご一緒に野川を歩いた。今後は低山に登り、詳しい高山植物のあれこれを教えて頂ければと思う。
 ほゞ半世紀前の記憶が一瞬過った日だった。

今日の一葉:つつじ咲き始めた六義園

 
 


『旅立ちの日に』を歌い終えて

2015年03月20日 | 学び舎

 昨3月19日(木)が、荒川5中の卒業式だった。感動的な素晴らしい卒業式だった。卒業生にとって生涯の思い出に残るだろうと思える式だった。
 荒川5中にボランティア教員として3年、卒業生が1年生の時から関わりを持ち、知りたる生徒が多々いたこともあり、初めて卒業式に出席したのだった。過去に、教える身として出席したのはすべて高校の式のみ。中学校の式が高校とどう違うのかにも興味があった。
 卒業生に続いて入場して来た来賓の多さにまず驚いた。式途中の「来賓紹介」では近隣の小学校の校長や副校長、町内会の会長が多数紹介されていた。一人一人が賞状を受け取るのは、卒業生の数の多い高校でも実施されているかも知れない。子供の少子化が進んでいる現在は卒業生も少数。ここ荒川5中でも2クラス74名の卒業生一人一人に卒業証書が手渡された。

 高校との違いが顕著になり始めたのは、「卒業生を送ることば」からだった。卒業生と在校生の間に小さ式台が運ばれ、指揮者がその上に立った。送ることばが語られ、在校生は”時をこえて”の合唱をことばに添えた。
 圧巻は「卒業生門出のことば」だった。卒業生全員が舞台を背に正面を向き、予め用意された段の各段に18名ほどが、4列に整列した。ことばの語り手は4人。第1節では、その4人によっては、まずは中学生活3年間の思い出が語られた。クラブ活動が、修学旅行が、運動会が、そして合唱祭が。ことばが終わると「南風」が合唱された。
 第2節では、感謝とお礼が語られた。一番手は先生方への。二番手は、先生以外で、学校を支える、給食担当や用務さんへの。学校支援担当員(広い意味では私はここに属する)への感謝もあった。三番手は地域への。四番手は家族への感謝のことばを語った。この頃になるとことば滞りがちとなる。私はハンカチを忘れてきたことに気が付いたが時既に遅し。4人が語り終えて「大地讃頌」の大合唱。昨年の合唱コンクールで3年生全員で歌ったことのある曲ではあったが見事なハーモニー。ここで拍手が湧いたが、ことばはまだ続いた。
 第3節では2年生へのことば。荒川5中の伝統をあなた達にバトンタッチすると。1年生にはもうすぐ後輩が出来るのだよと。最後に将来へ向けての決意を語り終えると「旅立ちの日に」の合唱。大きな声が体育館に響いた。在校生は自分たちもかくありたいとの思いに駆られたことだろう。10時開式から1時間50分が経過していた。
 
 式を終え、最後の学級活動を終えて、校庭に姿を現した卒業生を、在校生・教職員・地域の方々・保護者・PTAの方々が待っていて、その門出を見送った。

 私が初めて5中での教室に入った時、彼らは1年生だった。小学生の面影が残り、やんちゃの一面がのぞき、講師の先生を手こずらす場面があったほどだった。あれから3年、その変化・成長は著しい。先生方には人知れないご苦労もあつたことだろうが、その成長に手を貸し、成長を見守り続けてこられて来たからこその今日。ご同業であった身にはよくわかる。「よい卒業式でしたね」と一言感想を漏らして、私は5中を後にした。私にとっても、今日が5中を去る日かなと思いつつ。

 今日の一葉:富士神社の本殿脇の桜 陽光:3月18日撮影