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マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

お話会「柳沢吉保と六義園」を終えて

2018年09月29日 | 学び舎

 (今日の一葉は、今朝5時40分頃、部屋から見えた虹を最下段に)
 9月25日(火)は第40回のお話会で、妻が「柳沢吉保と六義園」を語った。私は“映像”担当の助手役で、「
Power Point」に取り込んだ画像20枚ほどを映し出した。場所はいつもの本駒込地域活動センターで、降雨にも拘わらず参加者は24名と多かった。



 話し終えての感想は概ね好評だった。話が上手だったとか、聞きやすい声だっただけでなく、面白い内容だったとか、知らない事を多々紹介された等々。
 実は六義園に関しては、お話会で私が2度ほど語っていた。1度目は「お殿様の散歩道」と題して、吉保の孫の信鴻の、六義園での隠居生活や活発な散歩行動を紹介した。2度目では六義園への水の出入りを語った。妻はその六義園にかなり興味をもっていて、六義園について色々と調べて来ていた。その六義園と製作者柳沢吉保について調べて来た事を語ったことになる。
 話には二本の柱があった。六義園は何故和歌山県の和歌浦に模して造らえたのという点と、他の柱は柳沢吉保の人柄と功績。 

 奈良時代の神亀元(724)年には聖武天皇は紀伊国に行幸し玉津嶋に10日間滞在したと記録にあるように、ここは風光明媚な土地で、その時同行した「宮廷歌人」山部赤人は“若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴鳴き渡る”と詠んでいる。これ以降何度も行幸があり、この地で名歌が詠まれて来た。平安以降も貴族達の憧れの地だった。やがて貧しくなった貴族たちはその地に行けなくなり行幸も衰退していったが・・・。
 江戸時代、「古今伝授」を受けていた、幕府歌学方北村季吟は、和歌浦の新玉津嶋神社の神官を勤めたが、その季吟から吉保は元禄13年に古今伝授を受けた。元禄8年に六義園の土地を拝領した吉保は六義園の造園に取り掛かるが、歌の師匠たる季吟の影響大きく、季吟が設計のブレーンだったと思われる。元禄9年に千川上水完成。この水を引き入れての六義園造園。この水が無ければ、和歌浦は造れない!元禄15年に完成。多くの貴人が訪れたことが『松陰日記』に記載されている。
 一方、万治元年に武田氏一門一条氏の末裔として誕生した吉保は、7歳にして綱吉に初お目見え。その年譜をみると加増のスピードが一目瞭然。
 仕えた綱吉の改革は武断政治から文治政治への転換だった。理念に儒学を置き、皇室への敬愛の念深く、老中(家柄)の合議制から側用人(能力)を通しての親政。財政改革もあるが、悪名高い「生類憐令」もある。
 吉保はかなりの有能な人物だった。川越城主時代の三富開発は世界的にも有名。甲府城主時代は城下整備努め、物流活性化で繁盛し、領民に惜しまれながら大和郡山へ移封された。郡山では息子の吉里以降、養蚕・金魚の養殖に熱を入れた。柳沢家の地元での評判はどの地でも良い。問題点は何よりも綱吉の意志実現に尽力し、批判は一切なかったこと。
 現代への遺産としては①犬を食べなくなったこと。②各地の社寺等文化遺産の改修が為されたが、それが現在の観光資源へと繋がっている。

 妻は、上に記したことなどを2時間弱で一気に語った。私が翌日聞いた感想「か細いからだの方ですからか細い声しかだせないと思っていましたが、良く通る声で語られていましたね」と。私、答えて曰く「話すことで飯を食べて来ましたから」と。

 

 今日の一葉
 


東洋大学学長来る(その2)

2017年09月23日 | 学び舎

 この日の参加者は、学長・副学長の両先生を含めて28名と、予定の35名をかなり下回ってしまった。使用した部屋の定員は消防法上36名。まだ参加を連絡されてこない方もいそうなので、定員を上回ることが予想され、コッソリと、自前の椅子を持ち込む準備も整えたほどだ。しかし、直前に病となった方や、うっかり開催を忘れた方などが合計9名。飛び入り参加者が2名いたので、結局は359228名となってしまった。(写真:講演する学長)






 
定員を上回ることを恐れて“今ひと押し”ビラを作成しながら配布しなかったことを悔やんだ。自分たち主催者も含め、お誘いする対象者の多くが後期高齢者。このことを肝に銘じながら準備しなければならない、と反省した。今後このようなイベント開催の時には、同じ様な失敗を繰り返さない方法を思い付いた。その方策は、次回この様な機会の成功時に記します!(写真:冒頭に挨拶する小林会長)

 竹村先生の講演は公開講座でお聞きしたように流暢で淀みのない話しだった。ただ、この方面に全く不案内なマーちゃんには簡単にまとめることが難しい面もあり、学長先生には申し訳ないが、講演の要約ではなく、私が理解した範囲内のことに付いてのみ記す。

 
     (熱心に聞き入る参加者)

 〇大学の紹介。
 東洋大学は今年創立130周年を迎え、この記念の年に法学部4年の桐生君が100m9.98の記録を出した。白山・朝霞・川越・板倉などの校舎の他、赤羽台に新設校舎も完成。赤羽台と白山で赤と白。紅白で大変お目出度いではないかという人もいる。全部で13学部。学生数が32000人を要する総合大学にまで発展してきた。
 最初は小さな学校で、哲学館と称した。麟祥院の部屋を間借りして開いた。その哲学館を始めたのが井上円了。妖怪博士とかお化け博士としても有名。中野区の哲学堂公園も円了が造った。
 〇次に井上円了の略歴
 
1858(安政5)年の生まれで、1919(大正3)年61歳で逝去。哲学を学び、哲学を基礎にした民衆教育に生涯を捧げた。哲学館設立を目指して日本の全国を巡行の他、海外の教育事情視察の為、3回の外遊。この大きな世界旅行を通じ地球の隅々にまで行った。
 〇井上円了の教え(彼の膨大な著作『仏教活論序論』などからの引用)
(先生はこの部分に一番時間を掛けて語られたのだが、なかなかまとめきれずに悪戦苦闘した結果、次の一言でここのまとめとする)
 
「諸学の基礎は哲学にあり」
 〇妖怪について
 所謂妖怪とよばれる現象を多数蒐集した。古今東西の文献を良く調べ不思議現象の解明に当たり分類した。単純に全てが科学で分かるわけではない。究極の不思議がある。天地万物は不思議に満ちている。それみな妖怪。例えば春に花が咲くのも、秋の月も妖怪。詩句で「老狐幽霊怪物でないものはない。清風明月これ皆怪」と書いた。
 〇活動主義について(『奮闘哲学』より)
 『奮闘哲学』に「天然にある物みな活動している。しからば私達も活動すべきである。吾人も古今東西の哲学を研究し、人生の目的は活動に外ならぬと知った。吾人の天職は活動によって、人生を向上させることを自覚した」と記している。
 〇向上門と向下門について(『奮闘哲学』より)
 哲学には、絶対の真を極めんとする向上門(理論門)と、人に益をもたらす応用としての向下門(実際門)を併置しておかねばならない。向下するため向上するのだ。向下門が目的で、向下するための方便として向上門がある。余は近来はもっぱら向下門に全力を注いでいる。例えば極楽往生した人はそこに安住せずに、苦しんでいる人の救済の為に娑婆に戻って来るという考え方に繋がっている。
 〇まとめとして、学長先生が強調され建学の精神
 「他者の為に自己を磨く」と、学生諸君には述べています。

 翌朝のラジオ体操時に、この講演の感想を聞いた。「難しかった」と語った方もいる一方、良かった・面白かったとの感想もあった。「大学時代に戻ったみたい」とか「哲学の話になるから難しいのは覚悟していた」との思いを語ってくれた方もいた。学長の講演内容ではなく、主催者を自己採点をすれば辛うじての合格点だったか。
 富士前福寿会は、4月の副学長講演会・7月の輪投げ大会3連覇に続きこの学長講演会と、又々大きな山を乗り越えた。

 



東洋大学学長来る(その1)

2017年09月21日 | 学び舎

 丁度1週間前の9月14日(木)、東洋大学学長竹村牧男先生が『東洋大学の創立者・井上円了の人と思想』と題する講演をして下さった。主催は私達富士前福寿会で、開催場所が「本駒込地域活動センター」。

 発端は東洋大学が主催する公開講座だった。『学長による土曜講座「仏教入門」~日本人の心に脈々と生きる仏教とは何か~』の第1回講座を聴いて来たラジオ体操仲間がいた。「大変面白かった」と語っているのを、ラジオ体操に参加している、東洋大学副学長松原先生が聞いて、「そのうち学長に講演に来てもらいましょうか」と言って下さった。身近で学長先生の講演が聞けるとは大変に有難いお話で、これは是非と、こちらから講演会をお願いしたところ、わざわざ「地域活動センター」まで足を運んで下さった。
 以下はその講演会へのご案内文で、ラジオ体操仲間を始めてとして近隣の方々などに配布したものである。この間の経過など重複する部分もあるが、小文字化するなど若干の編集をした文章。
 
『講演会へのご案内
 
「東洋大学の創立者・井上円了の人と思想」
  
”東洋大学学長 竹村牧男先生来る”
  
日 時  9月14日(木) 13時30分開場 14時講演開始
  
場 所  本駒込地域活動センター 4階A室
  
講 師  竹村 牧男先生(東洋大学学長)
 
 主 催  富士前福寿会 (入場無料・一般参加歓迎)
 
私達が住む街から一番近くにある大学が、学生数3万2千人を擁する東洋大学です。この4月からは学長先生による公開講座「仏教入門」が開催されています。かつて箱根駅伝で“山の神”と呼ばれた柏原選手や、大相撲で大活躍している御嶽海の母校でもあり、馴染みの深い大学です。大学構内には学生食堂のみならずレストランもあります。
 
今まで以上に大学を利用させて頂こうと思っていた矢先、はからずも松原先生とのご縁から、学長先生自ら足を運んで下さり、「東洋大学の創立者・井上円了の人と思想」と題する講演をして下さることになりました。これを機会に東洋大学と私達との交流をより深めたいと思っております。
 
井上円了は「諸学の基礎は哲学にあり」という教育理念を掲げ、「余資なく優暇なき者のために教育の機会を開放する」という趣旨のもと、29歳という若さで「哲学館」を創立しました。東洋大学の前身です。
 竹村先生の公開講座を小林会長と川口は受講していまして、淀みない語り口と分かり易く聞きやすい講演を毎回楽しみにしています。創立者の人と思想を分かり易くお話して頂けるものと期待をしているところです。皆さま、是非ご参加下さい。
 竹村牧男先生略歴
 1971年 東京大学文学部卒
 
1974年 東洋大学文学部哲学科教授
 2007年 東洋大学文学部長
 
2009年 東洋大学学長(現在に至る)
 著書に『入門 哲学としての仏教』、『大乗仏教のこころ』、『日本仏教 思想のあゆみ』などその他、多数。 
 
所属学会、日本印度学仏教学会、国際井上円了学会などで活躍中』
 (その後、東洋大学4年桐生祥秀選手が、9月9日に行われた「日本学生陸上競技対校選手権大会」で、100m9秒9.8の日本新記録達成した)
 講演会の様子は次回ブログで。


『お殿様の散歩道』を話終えて(その2)

2017年02月04日 | 学び舎

 まずは、前回のブログで書き忘れたことから。
 職場での経験から、自前でレーザーポインターを購入し、当日に使用した。パソコン操作位置から移動することなく、やや暗い場所でも説明がスムースに出来た。良かった点に加えておきたい。(写真:右がレーザーポインター)
 このブログには書かなかったが、「お話会」で語ったことが幾つかあった。
 
(1)会の4日前の1月27日(金)、六義園から白鬚橋付近の石浜神社まで“実踏”してきた。1775年9月15日にお殿様信鴻が目指した真崎は、隅田川沿岸の石浜神社より少し上流にあった。この日、お殿様はどのくらいの時間をかけて、どのくらいの距離を歩いたか知りたかった。信鴻の歩いたと思しき道は部分的には何度も歩いていたが、通しで石浜神社までは歩いていなかった。
 
そこで六義園→諏方神社→三島神社→石浜神社と歩き、万歩計を見ると12405歩。1歩を65Cmとして計算すると約8Km。往復で16Kmと推定した。要した時間は、出発が九半(午後1時)で帰家が五頃(午後8時)と書かれていたから、7時間。意外に遅い出で、暗くなってからの帰宅だった。



 
(2)真崎は広重の『江戸百景』の34景に「隅田川水神の森真崎」として登場してくる。隅田川に沿って築かれた向島の堤から対岸を見下ろしている。絵の右下に描かれているのが現在の隅田川神社で、左手に見える対岸が真崎。当時はこの辺り一帯は隅田川を見下ろせる景勝地だったらしい。正面が筑波山。この銅板が白鬚橋の袂に設置されている。(右が34景「隅田川水神の森真崎」)












 (3)その付近にあったと思われる真崎稲荷神社は1926(大正15)年に石浜神社に併合されてしまった。実踏でまずは石浜神社を目指したのはそのためだ。27日に石浜神社に行ったときに、宮司さんに「真崎稲荷神社はどこにあるのですか」と聞くと「真崎さんは、この建物の端にあります」と指さされた。“さん”に象徴されるように同じ建物内にありながら、いまだに別の神社として存在していることが分かる。その前に立ち撮影した。千木を見ると石浜神社とは別個のものが造られていた。(真崎神社の千木。石浜神社のそれはその左側に別個にあった。下は”真崎稲荷神社”と書かれていた額)

  

 
(4)現在の動坂の上にあった赤目不動の地の変遷を時系列に沿って整理すると、次のような“波乱万丈”な歴史を有していた。
 元和年間に
赤目不堂が建てられた
 1
628年に南谷寺へ移転し目赤不動となった
 赤目堂跡と呼ばれた地に、1793年日限(ひきぎり)地蔵が建てられた
 1893年地蔵堂修理中に土器出現
 それを記念する碑が建てられた
 1985年日限地蔵は徳源院へ移転
 記念碑は南谷寺と徳源院へ移転
(5)御行の松の絵が山本松谷によって描かれていた(右図)。芭蕉庵にも彼が描いた神田川の絵が掲げらている(下の図)。

 

 今日の一葉(微かに紅富士)
 
 
 


『お殿様の散歩道』を話し終えて(その1)

2017年02月02日 | 学び舎

 一昨日の131日(火)に行われた、第30回の「お話会」は、会場一杯の29名の方の参加を得て、なんとか『お殿様の散歩道』の話を語り終えられ、ほっとしている。
 
イベントの開始から終わりまでの間には、多かれ少なかれの波乱万丈があるように、この「お話会」にも幾つかの波があった。今日のブログではその点に触れたい。
 
まずは“薄氷を踏む”思いのほうから。1週間前の24日、私が常用しているパソコン「Surface」が突然作動しなくなったのだ。一昼夜作動しなかった。搭載している「Power Point」を使用し、プロジェクターを通してのプレゼンテーション。パソコンが壊れては何も出来ない。焦って、行きつけのパソコン相談所の「ばんゆう」に駆け込んだ。そこでパソコンを電源コードに接続すると簡単に作動した。私のミスは電源コードとパソコンを繋ぐのが逆だつた。一晩作動しない時点では、お誘いした方の一覧表を作成し、会の中止連絡を考えたほどだ。






 
当日にも薄氷を踏む思いを経験した。パソコンとプロジェクターを接続するも『お殿様の散歩道』の最初のフレームが現れない。「スライドショー」の表示をクリックすると画面は現れたが、『重ね地図』などの他のソフト画面には移行せず。ここの会場で2回ほどプロジェクターの試用をして、大丈夫と確認していたにもかかわらず、思い通りの画面表示が出来なかった。この器械を熟知していなかったからだと思う。(写真:表示出来なかったパソコンソフト『重ね地図』)
 杞憂していたこともあった。参加人数が椅子の数を超えてしまうかもしれない心配。
会へのお誘いには、途中から「お出でになるときのみ連絡下さい」と書いて、人数把握に努めていたが、お誘いの文が多くの方の目に触れる場所に置かれたこともあり、参加人数が読めなかった。4A室の椅子は36脚。それ以上の方が来られると立ち見となってしまう。メールで参加希望の方にお断りをしなければならなかった。





 全員に文京区と台東区の地図を用意したことは良かったと思う。会の冒頭で私は話の狙いは二つあります語った。お殿様はどの道を行ったのかを推定することと、私がその道を実際に歩いた際に発見した事柄の、道先の案内人となること。二つの地図はその狙いに適っていたように思う。(写真:文京区の地図)
 
嬉しかったのは「面白かったよ」との感想を多々頂いたこと。他の機会に又やってほしいとか、実践バージョンの企画をお願いして一緒に散歩したいとも言われた。
 一時曇り後晴れといつた心境。兎も角終了したのでありました。




 今日の一葉(富士神社に咲いた河津桜)