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マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

前川講演を聞く

2019年12月11日 | 学び舎

 文部科学事務次官だった、あの前川喜平氏の講演を聞いた。北海道へ行く4日前のことで、私の記憶からはその多くが消えていたが、妻はよく覚えていたらしく文を綴っていた。その為、今回はそれを利用させて貰う。

 『
112410時、於文京区民センター・文京自治問題研究所総会記念講演「日本の教育のあり方」。

 どんな人なのか見たいという野次馬根性で出かけた。
 大変闊達に、いくらでも話が出てきそうな方だ。後半やや駆け足の題目よりも、ご自分の少年時代のお話の方が生き生きしていた。物足りないと思われた方もお出でだったようだが、初めての身としては、かなり新鮮であった。




 文句無しのおぼっちゃまであるが、奈良県御所市旧秋津村で、小学2年まで過ごされた、そんな雰囲気も感じさせられる。田舎の大地主である養祖父母(父は本家を継いだ養子とか)の言動を聞いていると、魯迅の『故郷』を連想するほど「明治の村」である。東京から来た嫁であるクリスチャンのお母様が、偏見の無い少年に育ててくれたと感謝される。
 実祖父は前川製作所の創業者である。長男を田舎の実家の跡取りにやる発想は理解できないが、呼び戻されて、秋津の名家三代は文京区民となる。少年は3年生。そうか、当時の奈良の田舎にはプールはない 夏休みのプールはいや、担任もいや、で不登校気味に。「母は無理に行かせなかった」 この経験が、不登校を学校に戻すという文科省の基本方針に疑問を持つのに繋がっているらしい。生活習慣も崩れたところに再度の転校で、「この学校は毎日行こう」と、なったそうだ。

 周りの大人から聞いた戦争体験。
 『ひょっこりひょうたん島』から学んだ、 人間らしい人間になるために勉強する 今日がだめなら明日がある=あきらめない
 高村光太郎は戦後、岩手の山に隠り、自分の戦争関与を自省した。彼はそうしたが、戦争に至った過ちを日本・日本人は精算していない。そうよね、それどころか、昨今自讃・我誉めばっかで、醜いねぇ。
 ドイツと違うのは、2回負けた国と1回しか負けてない国の差、なんて纏めもあるのか。

 日本の教育も、「国体」ではなく、個人を尊重しようという動きがなかったわけではない。しかし、大正の新教育運動は軍国主義に、戦後の改革は高度経済成長に呑み込まれてしまった。「ゆとり教育」は、教育基本法改定・全国学力テストの前に崩れ落ち、規律・軍隊式の教育に回帰し、落ち着いてきていた不登校者は増え続けた。毎年1万人増加が続いている。
 そんな中で、道徳の「教科」化まで行ってしまった。(戦前、「修身」の評価で進学が左右されたようなことを、あの人達は妄想しているのかね)

 前半話が滑り過ぎて、後半は、「教育のあり方」というより、「ありさま」で終わってしまったが、初見では十分。高級官僚の中にこんな人もいるのかとも思ったが、実のところは、まともな人もそこそこおいでだろう。いざという時、「本音」があるのなら出してよね。後から後悔したってしょうがないんだから。光太郎には、実は何十年もがっかりしたままだったのだが、考えてみりゃ、温々口を噤んでやり過ごしていた大多数の中で、ずっとましだったんだ、と考えが少し変わった。』


「江戸上水基礎講座(その3 玉川上水 2)」を受講

2019年08月23日 | 学び舎

 玉川上水に関して、前回同様「基礎講座」のまとめを綴ることにする。(写真:水道歴史館のパンフレットより)













 〇玉川上水の水路
 玉川上水は多摩川を水源とし、羽村堰から取水される。羽村堰は多摩川の屈曲する地を選び、投渡堰と呼ばれる破壊堰(丸太や木の枝、砂利などで造られ、洪水時には堰を取り払うことが出来る)で水をせき止めて、左岸から上水堀に引き込んでいた。(写真右:現代の投渡堰。土木学会選奨土木遺産に認定されている)

 上水堀部分は、大木戸門に達するまでに33ヵ所に「分水」(用水)が設けられ、飲み水とともに灌漑用水として周辺の村々に配られた。有名な、青山・三田・千川は一時期「上水」として江戸市中に導かれたが、享保7年(1722)に廃止となった。灌漑用水が供給されたことにより、多摩地区での農業は飛躍的に発展した。(下の写真は『上水記』より。)

 

 四谷大木戸門から地下に潜り、四谷見付門の手前で江戸城方向へ外堀を越えるものと南下し虎ノ門に向かうものに分かれた。江戸城内には半蔵門から入った。

 〇玉川上水の構造
 羽村堰→
四谷大木戸門は開渠。暗渠部分は四谷大木戸門→四谷見付→虎ノ門付近のみ石樋で、市中の大部分は木樋や竹樋。市中では水圧がないため、水の利用は上水井戸から釣瓶で汲み上げられた。
 羽村堰→四谷大木戸間は距離43Kmで、この間の標高差は92m。10m進むのに2.14cmという僅かな傾斜で造られている。(上の写真は享保5年頃の江戸時代の水道。地図は東西が逆になっている)

 〇玉川上水の終焉
 明治維新後も近代水道が完成するまでの長期間、上水としてに役割を果たした。明治31年(1898)、淀橋浄水場から神田・日本橋方面への通水開始によって、東京の近代水道の歴史が始まり、その3年後の明治34(1901)、神田上水とともに玉川上水は使用が停止された。ただし、淀橋浄水場の水は玉川上水から引かれ、玉川上水には引きつづき滔々と水が流れていた。
 
 羽村堰をまだ見ていない。一部であれ、まだ現役として残る玉川上水路も含めて訪れたい。
 


 
 
 


「江戸上水基礎講座(その3 玉川上水 1)」を受講

2019年08月21日 | 学び舎

 8月17日(土)、「江戸上水基礎講座その3 玉川上水」を受講してきた。会場の「東京都水道歴史館」へは開講1時間前の13時に到着。前回、開講直前に到着した為、席が最後列という失敗から学んだ積りで、今回は最前列で見易く聴きやすかった。今回の参加者は150名近かったと思う。1つの机に3名が並ぶ席が出るほどの盛況。このテーマへの関心の高さが分かる。
 「玉川上水」についてはある程度のことは知っている積りで、このブログにも書いたと思うが、今回受講した事柄を改めてまとめておきたい。

 〇玉川上水とは
 玉川上水は、江戸時代前期の承応3年(1654)に完成し、明治34年(1901)まで機能した、江戸二大上水のひとつ。創設にあたっては、町人玉川庄右衛門・清右衛門がその実務に当たった。その経路は、多摩川羽村堰から取水して開渠で武蔵野台地上を走り、四谷大木戸に達する。そこからは暗渠となった。
 
 〇玉川上水の誕生
 成立年代のはっきりしない神田上水に対して、玉川上水はその造られた年代については、『公儀日記』に記されているように、完成は承応3年(1654)の6月。この時点で江戸城東側と丸の内方面への取り入れ口である虎ノ門まで水路が完成したものと考えられる。開渠の、羽村から四谷大木戸部分(43Km)については8ヶ月という短期間で完成した。
 
 〇玉川上水の給水範囲
 少なくとも寛永期(1630~40年代)に完成した神田上水が江戸の北東部に給水したのに対して、玉川上水は江戸の南西部に給水された。


 〇玉川上水誕生に関する逸話
 『公儀日記』には、玉川兄弟に対して7,500両が渡されたとあるに対して、資料「玉川庄右衛門・清右衛門書上」には6,000両と記され、齟齬が見られる。
 他の資料には取水口の変更や「水喰土」(みずくらいど)についての記述も見られる。

 「水喰土」については『玉川兄弟』(著:杉本苑子)で大変面白く読んだ記憶がある。上水道が完成したと思い、水を流したところ、ある地点まで来た水がそこで消えてしまった(=吸い取られるように地下へ潜ってしまつた)。工事のやり直しである。これらの記述は内容を吟味する必要があるとも、学芸員の金子氏は語っていた。が、水道歴史館内では、水喰土の話は実際にあったかのような映像が流れている。
 学芸員金子氏の話はテンポが良く、声も大きく、分かり易い。

 今日の一葉。富士神社付近に咲く白い蓮の花
 
 

 
 
 


元山からの引揚げ 少女は11歳

2019年08月02日 | 学び舎

 ”バックギャモン”は先送りします。
 7月29日(火)の「お話会」に用事があり私は出席出来なかった。参加した妻はその内容を纏めていた。それを以下に掲げる。

 《今回のお話会、語り手は伊藤さん、元山は38度線の向こう、訪ねるすべはない。
 伊藤さんは、南北分断の歴史を憂い、昨今の日韓関係を、「1番近い国」のことを、もっと考えなければと述べられる。欧米人に対する考え・態度とは、全く違うとも。
 伊藤さんのお話は2回目なので、前回も含めてご紹介する。

 少女の一家は、朝鮮生まれの朝鮮育ちだった。敗戦後、「内地」へ帰ることになる。それから、翌年5月末まで、帰国の日を待つ。中国人・朝鮮人は親切だった。近くの中国領事館の運動会、朝鮮の華やかな結婚式、にも招いてくれた。日本人が行くと危ないからと、買い物もしてくれた。男は皆出征していたから、祖母・母・叔母達は、衣類を売って食いつないだ。よく言われることだが、囚人が多かったというソ連兵の、女性達への暴行は激しく、もっと北にいた22歳の若い叔母は、金日成軍兵士に助けられ、少女の家にたどり着いた。(やっと着いたのに、生き残った幼い従妹はすぐに亡くなる。その子の火葬の記憶は忘れない) 少女は5年生、母は「子どもでよかった」と言ったが、6年生の美少女はレイプされ、お母さん共々死んだ。
 そんなソ連兵なのに、行進中の合唱はすばらしく、ロシア語で覚えた。後年、「うたごえ喫茶」で、それらが、「ともしび」や「トロイカ」「カチューシャ」だったと知ることになる。

 1946年5月末、元山駅から貨車で38度線突破の、2回目の決行。途中「水商売の人」の犠牲による、ソ連兵の「マダム、ダワイ」まであった。
 そして38度線間近の鉄原駅から、真夜中・雨中の突破だった。すぐにアメリカ軍のテントに収容される。にこやかで清潔なアメリカ兵、コンビーフ・白いんげんの缶詰、チョコレート、全身かけられた白い粉・DDT。テントには1~2日で、船で釜山、列車で木浦へ、そこから引揚げ船興安丸。北朝鮮に在住していた人達は30万人もいたそうだが、それにしても満州の155万人は桁外れだ。

 玄界灘を渡ればすぐに博多なのに、腸チフス患者の多発、引揚げ者の殺到等で、博多にも下関にも仙崎にも上陸できない。船は鹿児島南端をまわり宮崎の沖から太平洋を北上、潮岬で座礁したりして、1週間もかかって、三浦半島まで。そこでまた1週間、陸軍病院で診察後、列車で、祖父の実家萩に着いたのは、元山出発から3ヶ月経っていた。

 少女は、ソ連兵の襲撃・暴行から、戦争に負けるとはこういうことだ、と知った。同時に、黒パンをくれたソ連兵のやさしさや、ロシアの歌の美しさもあったのだった。
 敗戦後も、元山の朝鮮人や中国人はやさしく親切だった。そういう体験を持つ彼女は、今の日本人の言動に納得がいかない。
 釜山から木浦への途中のこと。すれ違ったアメリカ兵の貨車から日本人に投げられたチョコレート、ガム、缶詰。列車から飛び降り、われがちに拾う日本人。母まで腰をうかし、少女は必死で止めた。頑固だったとあきれた母だが、少女には、敗戦を終戦と言いつくろう大人への不信感の芽生えだった》

 今日の一葉:富士神社の朝。夜は盆踊りが行われる
 

 


前泊講演「”日米地位協定”と憲法」を聞く

2019年06月03日 | 学び舎

 一昨日の6月1日(土)、神楽坂にある「ラポール日教済」で都高教退職者会の定期総会が開かれ、その後憲法学習会として、前泊博盛さんの講演「”日米地位協定”と憲法」を聞いた。
 話は格別に面白く、身を乗り出すように聞いた。会終了後の懇親会では前泊さんを含めて18人が参加。前泊さんの人柄に直接触れることが出来た。ユーモア溢れる方だった。感想を述べるひとりひとりの話をメモとる姿に元新聞記者の片鱗が見て取れた。


 前泊さんは沖縄県宮古島の出身で、大学院で政治経済学を学んだのち、琉球新聞社に入社。同社の論説委員長を経て、現在は沖縄国際大学大学院教授。「国家機密法と沖縄」で日本ジャーナリスト会議受賞、「検証 地位協定~不平等の源流」で、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞するなど、沖縄の基地問題に大変詳しい。(写真:身振り手振りで語る前泊さん)
 私達の組織でも数年前に講演をして頂いたばかりだった。今、沖縄と憲法の関連を考えることが重要と判断し、再度の登板をお願いしたのだった。

 前泊さんはパワポを活用し、「沖縄基地の現状と日本の主権」・「安倍政権と沖縄県政」・「沖縄の基地と経済」・「県民投票と辺野古問題」など、沖縄の問題を多方面にわたり、1時間半語った。不勉強な私は初めて知る事が多く、講演内容をまだ整理仕切れていない。今回は日本の主権が侵されている面について綴り、更には、驚くべき事柄を併せ記すに留めたい。(写真:熱心に聞き入る聴衆はこの日66名)

 日米安全保障条約第6条の規定によって締結された”日米地位協定”には大きな問題点が3つある。
 米軍の活動に対する国内法は原則不適用である。
 日本政府と地元自治体は米軍の同意がない限り基地内には立ち入り出来ない(米軍の排他的管理)。
 個別の訓練を米軍が日本側に事前通知し、承認を得る必要がない。
 明らかに主権が侵されている。これらについては、第二次世界大戦の敗戦国で、基地が多数置かれている、ドイツ・イタリアと比較すると日本の特異性が浮き彫りになる。
 ここから様々な問題が発生することとなる。米軍人・軍属による殺人・暴行等々。
 これに関連したいろいろな問題が生じていたし、現に生じている。
 その1 サンフランシスコ講和条約締結に署名した当時の吉田首相はそれとセットで締結した安保条約ついては、その屈辱的内容を認識していて、「政治家で(安保条約)に署名するのはためにならん。私一人が署名する」と語り、吉田首相のみが署名した。
 
その2  北方領土に関する日ロ交渉への影響。2018年12月20日の記者会見でロ首相は北方領土を日本に返還した場合米軍基地が置かれる可能性について「日本が決められるのか、日本がどの程度主権を持っているのか分からない」と指摘。これに関して1982年当時の外務省機密文書には「あらかじめ一般的に日本側が負うようなことをソ連と約束することは安保条約・地位協定上問題があるということになる」とある。
 その3 沖縄新都心公園の水道水から高濃度の有機フィ素化合物が検出されている。発生源として米軍基地で使われている泡消火財が指摘されているが県が内部に立入検査することは当然出来ない。まだまだ多数語られたが・・・。
  
 一番驚いた事柄は「普天間基地は”世界一危険な基地か?」という問題だ。この点に関して前泊さんは今年の3月15日に、参議院予算委の公聴会で「普天間が世界一危険」の根拠は何なのか、と政府に問い掛けていた。実は1972年から2017年の間に普天間基地内での米軍事故17件に対して嘉手納基地内での事故は508件。普天間基地は一番危険だから、その危険除去には辺野古移設が唯一の方法と言い続けて来た菅官房長官の論理の前提部分が既に嘘で固められていたことになる。