A Day in The Life

主に映画、ゲーム、同人誌の感想などをコンクリートミキサーにかけてブチまけた、ここはいいトシしたおっさんのブログ。

TOHOシネマズ梅田「バイオレント・ナイト」塚口サンサン劇場「マッドゴッド」ほか見てきました!

2023-02-22 23:31:01 | 映画感想
 今日は久しぶりに1日に映画を3本見てきました。なかなか疲れた。
 まずは今日が上映終了ということで慌てて見てきましたこの作品。
 
 
 クリスマスを題材にした作品は数あれど、R指定になってる作品なんてこれくらいでしょう。
 バイオレンスに振った作品もありますが、大抵の場合は「サンタの格好をした殺人鬼」とかであって、大抵の場合はサンタそのものではないのがお約束。
 しかし本作にてデヴィッド・ハーバー演じるサンタはガチの本物。本物のサンタが出る作品は数あれど、こんだけバイオレンスやらかすサンタは初めて見ました。
 しかも本作のサンタは、子どもたちがすっかりサンタを信じなくなり、プレゼントのリクエストにも「現金」とか書くようになってしまった世情に嫌気が差して飲んだくれになってしまってます。「サンタを信じる・信じない」もクリスマスものの映画のお約束ですが、「子供がサンタを信じなくなっている」という状態を「プレゼントのリクエストに現金って書く」という形で出してくるのがなかなかショッキング。
 わたくし一般人がサンタさんの気持ちを推し量ろうなどというのは恐れ多いというのは先刻承知ですが、サンタさんにしてみればこれはかなりショックだろうなー……。
 そしてサンタさんはプレゼント配りには行くものの、ひとんちのクッキーを勝手に食うわ酒は勝手に飲むわとやりたい放題。……とかやってるうちサンタさん、大富豪ライトストーン家を訪れます。
 しかしそこには、地下に隠してある3億ドルを狙う武装集団が忍び込んでいたのでした。サンタさん大ピンチ!
 本作におけるサンタさんは、煙突から出入りする、袋からプレゼントを取り出すといったサンタの魔法は使えるものの戦闘はからっきし。しかし少しずつ戦いの勘を取り戻していきます。
 このバトルがまた面白い。ただ単に殴る蹴るだけではなく、サンタさんならでは、クリスマスならではのサンタクロース殺法が炸裂。なんだよサンタクロース殺法って。
 飾り付けのリースで絞め殺す! クリスマスツリーの星を顔面にブッ刺す! クリスマスものの映画にあるまじきエグい殺し方で画面はすっかりクリスマスカラーですよ。あと腹の傷を縫うのはまだいいとして
 特にラストのサンタクロース四次元煙突殺しはまさにサンタさんにしかできないフェイタルストライクで最高でした。
 そしてなぜかサンタさんの愛用の武器はハンマー。なんでハンマー? それはサンタさんはもとヴァイキングだったから! そんな無茶苦茶な設定があってたまるか!!!
 しかしこの設定があるからこそ、本作におけるサンタさんがサンタの仕事をしてる理由として「かつての略奪と殺戮の償いをするため」という設定を置くことができているのは完全に設定勝ちといえるでしょう。まあ略奪はともかく殺戮のほうはだいぶやらかしてる気がするんですが……。
 また本作のもう一方のドラマを担っているのが武装集団に狙われたライトストーン家の人々。
 パパからもらったトランシーバーでサンタさんと連絡を取りつつ裏から協力する少女トゥルーディはもちろんのこと、女傑と言うにはあまりにも高圧的な家長ガートルード、その息子ジェイソンと妻リンダ、娘アルバとその夫モーガンらは、経済的には豊かであるものの家族としては崩壊寸前。
 そんな彼らが自宅襲撃をきっかけに家族としてもう一度団結するというのも本作の重要な縦糸となっています。そのキーワードとなるのが「サンタを信じる」というところなのもクリスマスものとして大正解と言えるでしょう。
 また、武装集団のリーダーであるスクルージが、ただ悪人・悪役というだけでなく、「サンタを信じられなくなった子供の成れの果て」としての「悪い子」な点にも触れておかなくてはならないでしょう。
 ストーリーが進むに連れ、スクルージは3億ドルを奪取することよりもクリスマスという日をぶち壊しにすることにこそ心血を注いでいるような言動が目立つようになります。そんな彼の言動からは、クリスマスが来るたびにサンタさんが自分を救ってくれると期待し続けてからのこの状態ということが察せされて、かなり切ない気分になりました。
 パンフレットにもある通り、「バイオレンスなのに道徳的」「R指定なのにハートフル」な怪作と言えるでしょう。
 
 さて次は塚口に移動してから連続で2本。
 
 
 「スターウォーズ」「ロボコップ」「スターシップ・トゥルーパーズ」など、誰もが知る有名作品における特殊効果を手掛けてきた巨匠フィル・ティペット。
 彼が実に30年の時をかけて完成させた狂気の産物とも言えるストップモーションアニメが本作です。
 CGの台頭によって表舞台から退いていたストップモーションアニメですが、「KUBO」や「JUNK HEAD」といった作品で、再びこの手法が注目されるようになってきました。
 折しも久しぶりにお会いした塚口ファンの方が「ロボコップ2」のED-209のプラモを持ってきてたりして、初めてロボコップ2を見たときの衝撃を思い出したりなどしました。
 さて本作は、「アサシン」と呼ばれるガスマスク姿の怪人が、謎の地下世界に深く潜っていくというもの。セリフは一切なく、ストーリーは明確に語られることはありません。
 しかし、フィル・ティペットの脳内イメージをそのまま抽出したかのような狂気的、譫妄的、悪夢的な映像がスクリーンから溢れ出すさまはそれだけで圧倒されてしまいます。
 「筆舌に尽くしがたい」とはまさにこのこと、って感じです。文章として感想を書きにくいタイプの作品ではありますが、映像からは死と再生のイメージが強く感じられました。
 というかわかる人にはわかる言い方で言うと、バロックとガラージュとクーロンズゲートを足して足しっぱなしって感じなので琴線に触れるものがある人は即刻見に行くこと。
 そして3本目はこれ。
 
 
 みんな大好きギレルモ・デル・トロ監督のこれまたストップモーションアニメ。
 タイトル通りストーリーの筋はピノキオなんですが、かなり風刺的な側面が強調されているアレンジが施されています。
 特に印象的だったのが、いわゆる大人側のキャラクターであるゼペット爺さん、サーカスの座長、市長の3人が、それぞれ「死んだ息子」「衆目を集められるスター」「理想的な不死身の兵士」と三者三様の理想をピノキオに押し付けていること。
 ピノキオは人形、しかもDollではなくPuppet、つまり操り人形だということを考えると、ゼペット爺さんを含めた周囲の大人たちは一貫して彼を都合のいいように操ろうとしていることがわかります。
 本作においてはこの図式は、単に病的、支配的な親子関係にとどまらず、戦争中である作中でしばしばポスターなどのスローガンとして提示されている「盲目的に従う・従わせる」という構造を表していると感じました。
 ピノキオの友人となるキャンドルウィックとその父親である市長との支配的な親子関係、そして国家と国民の支配・非支配関係は完全にこれに当てはまります。さらにはピノキオを作ったゼペット爺さんもまた、ピノキオに理想の息子の代わりを意識的にも無意識的にも求めているというのがかなり斬新というか意外というか。
 つまり、生まれたばかりでまだ自我がはっきりしていないピノキオに対して、周囲の大人はあの手この手で彼をいいように支配しようとします。これに対してピノキオは、まだ彼自身の自我がはっきりしていないので気ままに行動しているものの明確に自分の意志を示すことはできていません。まだ自分の意志を持っていないから当然と言えば当然なんですが。
 そんな彼の副次的な意思とも言えるのがコオロギのセバスチャン・J・クリケットでしょう。彼が住処としているのがピノキオの心臓の部分と言うことからもそれは明らかでしょう。自我が未発達なピノキオを導く使命を帯びた彼ですが、彼自身は非常に弱く小さな存在として描かれています。しかし、彼の存在によってピノキオは次第に自我を獲得していき、最終的にはゼペット爺さんを救うために何度も蘇ることができる永遠の命を失うことすら受け入れる選択をします。この「選択」という行為こそが「誰に従わせられたわけでもない自らの意思」の象徴と言えるでしょう。
 かくしてピノキオはゼペット爺さんの失われた息子の身代わりではなく、独立したいち個人として本当の息子となります。エンディングでは、ゼペット爺さんやセバスチャンに先立たれたピノキオが、彼らの弔いを済ませて自らの足で冒険の旅に出る姿が描かれます。そしてセバスチャンによって、冒険に出たピノキオが不死身の命を失った「本物の少年」として生涯を終えることが語られる、という形で物語は締めくくられます。
 総じて本作は「支配からの脱却としての意思の芽生え」の物語だったと言えるでしょう。盲目的に従っていた模範的な軍人である父に己の意思で反抗したキャンドルウィック、自分を支配していたサーカスの座長についに反抗した猿のスパッツァトゥーラ、そして周囲が押し付けてくる理想の自分ではなく、自分が見出した自分を見つけたピノキオ。
 本作も紛れもなく誰もが知る「ピノキオ」という物語であり、本筋もおおむね原作と変わりませんが、その周辺部分をぐっと広げたことでまた新しい味付けに成功した作品だったと思います。
 
コメント
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