多くの人が驚き、そして悲しみに
打ち震えたあの日から4年が経った。
東日本大震災。
あれ以来、僕らの暮らしは少しずつ変わった。
原発の見直し、災害対策の見直し、
東北に対する心の向け方は
間違いなく変わっている。
日本に住んでいる以上、
対岸の火事とばかりも言ってられない。
あの悲劇はどこにだって現れる可能性があるよね~。
そう思えること自体
災害に対する意識も変わっている証拠ですよね。
今日、メディアはこぞってあの日のことを
取り上げたこともあって、
今日という日は多くの人が、
あの悲劇を思い出しただろう。
いや誰も忘れてはいない。
ただ、自分の暮らしの中で
埋もれてしまっていただけだろう。
だから、あらためてあの日のことがよみがえると同時に、
あれ以後の自分の4年間をも
それとなく振り返った日になったに違いない。
doironもその一人です。
ていうか、doironの場合、
あの震災の少し前に
自分の身に降りかかった出来事が
重なって思い出さずにはいられない一日でした。
宝塚で起こった震災の前の心災。
自分の中でふたつの出来事は
互いに共鳴し、心を大きく震わせました。
あの時以来、いろんな面で自分は変化し
実際あれ以後の四年間、
人生さえめまぐるしく変わりました。
単に暮らしが大きく動いたというだけでなく、
生き方そのものが
大きく方向転換した4年でした。
そう、例えて言うなら
快速電車から路線バスに乗り換えたような感じかな。
最初は戸惑い、
どの道を通って
どこへ向かうのかもわからなかったのですが、
最近は行先など別に問題ではなく
トコトコ進む人生の景色にも
ようやく慣れてきたような気がしています。
そう考えたら
きっと東北の被災者の人達もそうなんじゃないでしょうか。
実際の生活はまだまだ震災以前には戻らないけど、
とりあえずは残った命を
今の暮らしの中でどう燃やしていけばいいのか、
少しずつ見えてきつつあるんではないかと、
自分の気持ちに照らしてそう思うのです。
4年という時間はそれくらいの時間じゃないかと・・・。
決してあきらめではなく、
まずちゃんと自分の運命と
向き合えるようになったことを素直に喜び、
次の道を一緒に探していこうよと、
肩を叩いて言ってあげたいと、
震災の数々のニュースを見ながら
そんなことを考えた一日でした。
ジム友にこんなマウンテンバイクをいただきました。
折り畳み式です。
もう何年も乗っていないとのことでしたが、
屋根つきのガレージの奥にしまっていたそうで、
状態は良好です。
まずそれを自分用にカスタマイズをしてみました。
先ずはタイヤ。
トレッドパターンはマウンテンらしく
ブロックタイヤでチューブ式です。
ひび割れもなくそのまま使えそうです。
空気を入れてみるとバルブの辺りから
漏れている音が聞こえているので、
イギリス式のダンロップバルブ
(いわゆる普通のママチャリ形式)
の虫ゴムを替えてみたら
漏れは止まったようでしたからチューブも生きてます。
ではパーツを見てみましょう。
いずれもシマノの製品でした。
ブレーキは普通のキャリパー式で
動きに問題はなさそうです。
ただ、この部分は非常に重要なパーツなので、
ワイヤーとパッドを交換すればなお安心でしょう。
変速機はグリップシフト。
これもほぼ問題なく動くようですが、
若干レスポンスが悪いので、
これもワイヤー交換が望ましいでしょう。
ペダルも問題なしです。
フロントもリアもショックがついてます。
様子を見ても動きは全然問題なしです。
とまあ、駆動系は全部生きてますので、
気長にいじっていきましょう。
次はアクセサリーです。
前かごがついているのですが、
これは折り畳み式なっているので、
そのままつけていてもいいでしょう。
簡単に取り外しもできますし。
欲しいのはボトルホルダーとライトです。
マウンテンといっても、
山をガンガン走るわけではなく、
お散歩マウンテンとしての使用となりますので、
このあたりはつけておきたいところです。
ボトルホルダーは、
ロードのを使いまわしできるか探ってみましたが、
取り付け位置がなさそうなので、
夏までには考えましょう。
とりあえずライトは急ぎます。
次のエイから乗車予定なので、
まずは整備しておきましょう。
今は百均のランチャーライトを
手に持って乗っていますが、
折角ですからこのライトを
取り付けれるようにしましょう。
そしたらあるもんですね、
ランチャーライト専用の固定具も
百均で売られていました。
透明なケースにライトを入れ、
それをケースごとこの固定具に
はめ込むだけで、あ~ら不思議。
いや不思議でもなんでもなく、
ピタッと設置完了です。
まあ、これで、オジチャリ2号がほぼ完成です。
次は置場です。
今のオジチャリは気の毒なんですが
雨ざらしで置いています。
しかしこの2号には変速機もついていますし、
ちょっと雨ざらしでは問題ありです。
かといって、納戸に入れてしまうと
出し入れが大変です。
で、結局初代オジチャリの横に
バイクカバーをかけて置くことにしました。
初代はミセスが使用することになります。
じゃあ、「ババチャリ」と改名したらどう?
なんてことは口が裂けても言えません。
命名はミセスにお任せしましょう。
そんなチャリの話をしていたら、
ジムのトレーナに
「チャリンコにも安全基準ていうか、
セーフティマークのようなものがあるよ」
と教えられました。
次の課題はこれですな。
季節は着実に春に向かっています。
この春はこの2号で
各地の桜を見に行こうとか
ずっと実現できないでいる川の遡行をしてみよう、
あるいは訪ねのこしている名所旧跡を
チリンチリンと訪ねてみよう
などと夢を膨らませている今日この頃です。
えーっと、道がわからなくなってしまいました。
まさかここかなと思って試しに入っていくと・・・
正解でした。
前方にずっと道が続いています。
ここらあたりまで来ますと、
葛城山が近づいてきます。
なおも田んぼ道を進み、
集落に入ったところで道の真ん中に
でっかい岩がじゃまっけに置かれています。
よく見ると六地蔵が刻まれているようです。
じゃまっけなんて言ってすみません。
そこを目印に、山とは反対側に下っていきます。
小学生の下校時間らしく、
ちびっこどもが「こんにちは~」と大声であいさつしていきます。
さすがに写真は遠慮しておきましょう。
このあたりの地名は「櫛羅(くじら)」といいます。
海もないのになぜと思うでしょう。
この地名は古くからあって
「御霊」の読みからきているようです。
県道を横切ると「鴨山口神社」がありました。
う~ん、以前なら「変な名前の神社やなあ」
と思ったカモしれませんが、
ここまで読まれてきた人ならもうわかりますよねえ。
鴨族が住んでいる一帯への
入り口の神社なんやね。
と、思ったらそれは違ってました。
「鴨」はあの鴨族の鴨なんですが、
後の「山口」が朝廷に用材を献上する
「山口祭」というのがあって、
それを司っていたんですねえ。
この神社にある御霊大神坐像が、
「櫛羅」の起源という説もあるようです。
カメラを持った中高年が
熱心にあちこちを探っておられました。
きっと御同業なんでしょうねえ。
そこを後にして、葛城山ロープウェイへの道に出て、
山を見上げますと、
朝にはあんなに白かった山も
すっかり雪が溶けたようです。
ここで、何と携帯のバッテリーが空になり、
カメラのバッテリーも怪しくなっていることに気づきました。
カメラは予備のバッテリーがあるのですが、
携帯は車に戻らないと充電できません。
せっかくナビで距離を測っているのに、
アプリも中断したようです。
何とか生きててくれないかという思いで
急ぎ足で歩きましたがやはりだめでした。
あ、でも葛城のロープウェイが描かれた
マンふただけは撮っておきました。
それにしてもいつもならバッテリーもなんとかもつのに、
途中、仕事関係の長い電話があったことが
影響しているのかもしれません。
御所駅直前の15キロを過ぎたあたりで
お陀仏となっていました。
まあ、それでもとにかくこれで
今回の濃密な歩行は終わりました。
神話と山麓の神々に触れ、
気持ちのいい道を歩かせていただいた
とても素晴らしいコースでした。
一度歩いたところは、
かなり興味が薄れるのですが、
ここは是非もう一度歩きたい
と思わせる道でした。
今回の歩行を通じてまた
いくつか歴史の点々が増えたような気がします。
今後の歩行の中できっと
ここの点とつながる点と出会うことがあるだろうな
と確信できるコースでした。
葛城の神々に感謝して、
長くなりましたが
このシリーズようやく終わりです。
右手の社務所のところに
大きなムクの木が立っています。
司馬遼太郎も見上げた木です。
新しいお百度石も立っていました。
実は石切詣で以来、お百度石の
写真をコレクトしています。
もうかなりたまりました。
一言だけ願いを聞いてくれる一言主さんに
百回お願いをするんですね~。
効き目ありそうです。
その後ろには大きな銀杏の木が立っています。
中が空洞になり危険だということで
上部がバッサリ伐られています。
その伐り口の高さあたりに、
乳房のようなものが
いくつも垂れ下がっていることから、
お祈りすれば安産と
乳がよく出るといわれているようです。
丸太で支えられている老木の姿は
まるで、晩年の両親を見るようです。
本殿にお参りして、
ここを後にしました。
元の参道に戻り、
神社を左に見ながら古道は登って行きます。
ああ、ここにも橋が架かっています。
役行者はきっとここにも石橋を
架けるように命じたんでしょうねえ。
古色豊かでかつ何となくさびれた感じの集落を抜けると、
道は里山を巡るように続いていきます。
ここでは左の細い道に入り
堤防のような道を歩き、
段々畑の間の道を登って行くと
神武天皇に続く第二代の天皇である
「綏靖天皇の宮跡」
に出ます。
日本書記や古事記にも
系譜の記載はありますが、
その他の記述は少なく、
「欠史八代」の一人に数えられています。
他の書物では、この天皇は
人を食べたといわれています。
そのことの理由はよくわからないのですが、
これまで書いてきた話と総合すれば、
このあたりの土蜘蛛といわれる原住民を
退治してきた話につながるような気がします。
当時の土蜘蛛退治はきっと
凄惨を極めた有様だったのかもしれません。
なおも山の縁に沿って進んでいきますと、
またもやイノシシ除けの柵がありました。
それを開け閉めして、歩いていると
気持ちのよさそうな休憩所がありましたので、
最後の休憩を取ることにしました。
ここからは田んぼの向こうに
大和三山が見渡せます。
これが今回のベストシーンでしょう。
近頃道歩きに欠かせないのが、
この保温水筒です。
ここにコンビニで買ったカップの
コーヒーを注いで持ち歩きます。
ここまで、濃密に歩いてきた頭を休め、
大和三山を眺めながらのコーヒータイムは
格別でしたわい。
コーヒーを飲んでいたら
二人で歩いている人が通りかかり、
少し話をしました。
地元の人だそうで、
ここを良く歩いているとのこと。
そういえば、今回の歩行では
いろんな人に話しかけられました。
風邪の森の入り口には
こんな看板も立っていたのに、
道ですれ違った女子高生も愛想よく
「こんにちは」と声をかけてきましたし、
小学生の子どもらにも
「僕ら2年生やねん」といいながら
話しかけられました。
きっと、気持ちが良くて
にこにこしていたからかもしれません。
そうそう、高天原から下りてきたところでは、
同じような恰好で反対向きに歩いていた
若い男性も、「いい道ですねえ」と言ってましたな。
さああとひと歩きです。
こんな看板を見ながら、
進んでいきますと
「九品寺」に到着します。
境内はよく整えられています。
浄土宗のお寺は、
檀家からの寄進も多いのでしょう。
素朴な葛城の神々の社から下りてきて、
こういう寺に詣でると、
俗っぽいことを考えてしまいますなあ。
西国三十三か所を巡り歩けるコーナーも歩き、
この寺の裏山から発掘されたという
千体仏の一部を眺めながら
逆にどんどん現世に近づいてきているような気になりました。
御所の街を見下ろす大地を
もう少し北に進みます。
新しく区画整理された道と、
古道が入り混じり
このあたりはちょっとややこしくなっていますので、
地図をよく見て進みます。
駒形大重神社の鳥居がありました。
登ってみましょう。
名前に「駒」の文字が入っていることから、
馬に関係する人がよくお参りするそうです。
「たまに買ったら競馬が当たりますように」
さていよいよ歩行も終わりが近づいてきました。
ここに掌を合わせて、
あと1話続きます。
「一言主神社」は地元の人たちに
「いちごんじさん」などと呼ばれ、
親しまれています。
この神社を語るときに、
どうしても触れておかないといけないのが
「役行者(えんのぎょうじゃ)」です。
今日は少しそのことを書きましょう。
「役行者」の名前は山に登る人なら
各地で目にし、耳にしたことがあるでしょう。
あまりにたくさんの地に痕跡をとどめているので、
人々の信仰が作り出した架空の人ではないかとか、
「役行者」は何人もいる
複数の集団の名前だという人もいます。
でもそうではなくて、
役行者はやはり実在する一人の人間のようです。
ちょっと前に、
葛城の神々の言葉を聞いて
人々に伝える能力のある人々を
「鴨族」ということを書きましたよねえ。
実は彼はその「鴨族」の一人なんです。
古来神々を奉じてきた「鴨」の一族でありながら、
異端児ともいえる彼は「もはや葛城の神の時代ではない」として
仏教へと傾倒していきました。
まだ空海以前の時代で、
密教は体系化されておらず、
修行と称して野山を駆け回り、
果ては飛行術まで身につけたという
彼のその姿は、仏教への畏敬と相まって
各地に数多くの痕跡をとどめました。
彼が登りその痕跡をとどめた山は
100名山どころではありません。
1000山を越えるといわれています。
数多くの山野を跳梁跋扈することで
悟りを得ようとした彼の思いが
どれだけ強かったかがよくわかります。
それが、「役行者野山にはびこる」の正体です。
そんな彼と葛城の神々は
次第に対立を深めていきます。
もはや自分は神以上の存在だと思っていた彼は
あるとき、葛城の「一言主」の神様に
「一帯の川という川に土橋を架けよ」
という途方もない土木工事を命じました。
役行者の命令があまりにも
目に余るひどいものであったことから、
一言主の神が人々の口を借りて
朝廷に「役行者世間を惑わしており
謀反のおそれあり」と
注進したところ、それを聞き入れられ
彼は伊豆の方に流されました。
その時にも彼は富士山に登ったり、
(初めての富士登山者といわれています。)
相変わらず野山を駆け回っていたので
ますます彼の名前は各地に残りました。
そして3年。
ようやく許された役行者は
帰ってきてまず一言主の神の元に行き、
告げ口した神を怒って
縛り上げて谷底に蹴落としたそうです。
以後、仏教を尊しとする時の政権の陰で、
神々は衰退していき、
これではいかんと鴨一族が
全国に散らばり、加茂の名前を広めて行った
というのは前に書いた通りです。
で、その縛り上げられ、
谷底に蹴落とされた一言主の神様なのですが、
他の神様がどんどん仏教に帰依していく中で、
一言主の神様は「神」であることを貫いた
気骨のある神様として言い伝えられています。
かつて天皇とけんかをし、
土佐に流された後に、
許しを得て再び鴨一族によって呼び戻され、
またここでも仏教の圧力に抗い
信念を貫いた神として、
全国各地から
「ひとことの願いであればなんでも聞き入れてくれる神様」
として信仰を集めています。
というのが一言主神社のいわれと、
それにまつわる役行者のお話なんです。
それを念頭に置いて、
さあ、葛城古道は長柄の集落から
山の方に向かってつけられた
一言主神社への参道を進んでいきます。
傾斜地に石垣を組んで建てられている
民家の間を登って行くと、
やがて杉の木が並ぶ道に入っていきます。
なかなか雰囲気のある参道です。
葛城古道の看板や道しるべ、
石の道標も立つのを眺めながら
県道の下のトンネルを抜けると、
再び鳥居が立っており、
まだ参道が続いています。
途中見かけたのがこれ。
何度も書いたように
土に籠もって暮らす土着の人々を退治して
埋めた塚だという話が残っています。
やがて遠くの高台の上にある
神社が見えてきました。
そこまであと少し。
ここから最後の階段を登って行きます。
高さを稼いでいくとともに
運気も向上していきます。
むむ、ありがたや~。
登りきったところが境内です。
少し歩きまわってみましょう。
続く
橋本院の裏手にある「瞑想の庭」を通り、
イノシシ除けの柵を開け閉めして進んでいくと、
鬱蒼とした暗い山道に入っていきます。
古道というよりトレイル道です。
結構な距離を下っていきます。
途中、幅が20cm位の堰堤の上も、
足を滑らさないように注意しながら通ります。
そうして再びイノシシ柵を手動で開け閉めし、
里に出たところの景色がこれ。
あれだけ下ってきて、
まだ集落の屋根を見下ろす高みに立っています。
まさに高天原からの降臨ともいえる景色でしょ。
段々畑の中を道標に沿って
集落に向かって降りてゆき、
集落に入ってしばらくしたら、
山麓を南北に走る車道に出てきます。
葛城古道はすぐにその道を右にはなれて、
少し低い所を進んでいきます。
このあたりから、大和盆地を見下ろしながら
眺めの良い歩行が続きます。
それにしても、深い山の中の道であったり、
旧跡を訪ねる道であったりと変化も多く、
本当に気持ちのいい道です。
思わずにこにこ笑いが止まらないほどです。
ハタから見たらきっと変なオッサンでしょうねえ。
でも仕方ありません。
体内にある歴史好きの親父から引き継いでいる
DNAをくすぐられているからです。
遺伝子レベルで楽しい道であると言えます。
そうそう実はdoironのマラソン好きも
親父のDNAです。
若いころは800mの選手で
通っていた高校の当時の
学校記録を作ったそうですからね。
「親の因果が子に報い~」
という講談が浮かびました。
柿の木畑を通り、
大和棟の民家を眺める集落に入ったところにあるのが
「住吉神社」です。
大阪の住吉大社の分霊を勧請して
7世紀頃に斎祀った古い神社です。
なぜ大阪の住吉大社の分社がここにあるのか、
それには理由があります。
大阪湾岸の交通の要衝である難波(なにわ)には
海上交通を担う海人集団がいました。
その集団を統率する氏族の拠点が、住吉大社です。
その氏族と葛城族とは深い関係がありました。
全国に散らばる葛城系氏族の分布と
海人集団が交通の要衝としていた地域と
重なることが多いことからもわかるそうです。
そんなわけで鴨のふるさとであるこの地に
住吉大社の分社がある
ということ・・・だと思います。
なにせ、この神社にも由緒書はあったのですが、
文字がかすれて読めなかったものですからね。
でも境内は広くてベンチも置かれ
いい雰囲気でした。
ここまで歩き始めて約2時間。
ちょうど時刻も12時頃です。
ここでお昼にしましょう。
今日のお昼はこれ。
葛城山を見上げる御所のコンビニで購入した
おにぎり弁当です。
お弁当を食べながら境内の広場を眺めて見ると、
ちょうど真ん中あたりに
黒く焦げた地面があります。
きっとお正月にとんどでもするんでしょうねえ。
ここは南郷地域の氏神様なんでしょう。
お腹が膨れたところで歩行再開です。
相変わらず気持ちのいい道が続きます。
見えているのは、大和三山のひとつ
「畝傍山」でしょうか。
お、道に矢印が書かれてあります。
マラソンか駅伝の大会でもあったのでしょうか。
こんな矢印を見たら走りたくなるのも
親父のDNAのせいでしょう。
これは大木の根元にあった庚申塚。
植物の種が風に乗っていろんなところに運ばれるように、
長い年月の間にいろんな信仰が
各所に根付いていきます。
その先が長柄の旧家が建ち並ぶ道に入っていきます。
「長柄」とは、山麓に続く
長い「山麓道」があることからついた名前
だといわれています。
途中にはこんな杉玉の上がる酒屋があったり、
慶長年間すなわち1600年頃に建てられた
古い家屋があったりして、
葛城古道のまた一つ違った
顔を見たような気がします。
この集落内の1本道の途中で、
少し山を下ったところにあるのが
「長柄神社」。
飾り気のないシンプルな神社でしたが、
建物は相当古いものだそうです。
古代のDNAを引き継いでいることでしょう。
また、途中で道は水越峠を下ってきた道と交差します。
いわゆる要所ですねえ。
ん?ここはJAです。
広い駐車場に売出し中の商品を書いた旗が
いっぱい立てられてありました。
専門的過ぎて、
何がなんだかどんな商品なんだか
さっぱりわかりませんね~。
その街道筋の突き当たりに
左の山の方を向いて開かれた鳥居が立っていました。
葛城地域の代表的な神様、DNAの本家である
一言主神社への参道入り口です。
向かいましょう。
続く
「高天原」は古事記の中で、
天津神が住んでいたとされる場所です。
この高天原の所在地については
古来から諸説があります。
ひとつが「天上説」。
高天原は神が住んでいた場所だから、
当然地上にはなく天にあるんだ
という説が一つ。
もう一つが、神話には史実が含まれているから
高天原も実在した場所を表しているという
「地上説」。
この金剛葛城山麓に高天原があったというのは、
この地上説に起因しています。
地上説ではほかに、
滋賀県の伊吹山山麓、
宮崎県の高千穂、
岡山県の蒜山など
他説があります。
明治までは、
おおむねこの葛城山麓が
高天原とされていましたが、
新井白石が茨城県の多賀郡を唱えてから
混沌としています。
当然それぞれその地に行きますと、
そこが高天原ということで
種々由来などがつたえられていますので、
ここ葛城の説明書きなんかを読むときも、
そういう地元中心の由来であることを
頭に入れておく必要があるでしょう。
急傾斜の山道をどんどん登ってたどり着いた
「高天彦(たかまひこ)神社」
もこの地に高天原があったとしたうえでの
神社という説明になっています。
またここは金剛山の奈良県側からの登山口にもなっています。
駐車場も広く、
babiさんもよくここから登っておられるようです。
と思って登山道の方を見ていたら、
年配の女性がステッキを突きながら下りてこられました。
雪のあるところまで登っておりてこられたようです。
最近の山登りブームは
年齢に関係なく流行っているんですねえ。
駐車場の横には、
「鶯宿梅」があります。
若い僧の非運を嘆いて
鶯がここで歌を歌ったことから
この名前になっているそうです。
どんな史実が隠されているのでしょうか。
僧と梅と鶯なんて姿を想像しながら、
いにしえに思いをはせましょう。
登ってくる途中には「蜘蛛窟」もあったようです。
葛城族がここに王朝を作る前から住んでいた
土着の人々のすみかなんでしょう。
気を付けて歩いていたのですが、
見つけられませんでした。
この神社の祭神は、
高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)。
神話におけるもっとも初期の
造化三神のうちの一柱で、
高天原に住んでいたとされる神です。
神社に入ると、
背後の山を御神体として祀る社があります。
お社を取り囲む気がただ事ではありません。
思わず掌を合わせてしまいます。
ここを訪れた南風という人が
石碑にこう刻んでいます。
「・・森厳荘厳 霊気地に満ち
森羅万象総て神霊を帯ぶかに見ゆ・・」。
うんうん、まさにそんな感じです。
神社を出て集落の方に向かいました。
どの家も古風で、
まさに古道沿いの道という感じです。
この時期のけやきのシルエットはいいですねえ。
まるで絵に描いたように
空にそびえています。
集落を抜けて、のどかな道を進みます。
振り返ると先ほどの集落が
金剛山をバックにして寄り添うように集まっています。
ここに限らず、街道を歩いているとき、
のどかな人々の暮らしを見ながらいつも
羨ましい気にさせられるのですが、
ここはとりわけそんな思いを
強く抱かせる静かな山里でした。
そしてその先に現れるのが、
「高天原」といわれる史跡です。
人里から隔絶された山麓の台地上にあるこの地から、
高天原を連想させるのは簡単なように思えました。
ここから神は地上に降臨したのでしょうか。
やがて道は弘法大師を祀る
「橋本院」に出ます。
ここもまた静かな山寺です。
この地域で活躍した役行者が、
初期の密教を振りかざして
葛城を混乱させました。
その後、密教は弘法大師
すなわち空海によってはじめて体系化され、
発展を遂げて行くわけですが、
この地に空海が祀られているということは、
まるで役行者の行いを諌めるため
のような気がしてなりません。
いわれはよくわかりませんが、
今の世から振り返ってみたら
そういう目でここを眺める人もきっといるのではないか
とそんなことをふと思いました。
続く
高鴨神社の池でバタバタとセルフタイマーで撮影した後、
神社の中に入っていきます。
この神社の主祭神は
「阿治須岐高日子根命(迦毛之大御神)」といいます。
読み方は難しいのですが、ともかく
「迦毛(かも)」の字が含まれていますね。
古事記や日本書紀はいわゆる後付けの神話です。
現実にはありえないような
神がかり的なことも含まれていますが、
何らかの史実に基づいていることも多く、
それがどんな史実からきているものか
といういわば逆引きの歴史探索にならざるを得ないために
様々な解釈が生まれます。
古事記と日本書紀は同じような時期に制作されました。
ともに歴史書として作成されましたが、
古事記はおとぎ話的な色合いが濃く、
日本書記はより「歴史書」的な色合いが
濃いものとされています。
高鴨神社の祭神も前述のように
長い名前ですが、
鴨族の神であったという史実は伝えられています。
いわばここは神話の故郷です。
本殿がこれ。
本当はもっと近くから撮っているのですが、
そこまで行くと「写真撮影はご遠慮ください」
と書かれてあったので、ここからにしときます。
立派な鐘楼もありました。
この地を歩き回ること、
「鴨」の人々を文書でいじること
のお許しを願って、参拝をしておきました。
神社を出るとすぐ横に「葛城の道歴史文化館」がありました。
神社名にちなんだ「そば」が食べられるようでしたが、
まだ時間も早いので食べずに、
併設している写真展だけを見て、
ぐるっとひとめぐりしてきました。
葛城古道はこの神社に沿って
右へ大きく曲がり
ふたたび北を向いて進んでいきます。
金剛葛城の山々から
雪解け水なのかそれともため池の放流時期なのか、
常にじゃぶじゃぶと流れている水の音が聞こえていました。
急流は深く谷を削り、
それを横切るようにつけられた道は
クネクネと曲がり、
微妙なアップダウンを繰り返して続いていきます。
ところどころに建てられた道標を見ると
「近畿自然歩道」の字が書かれてあります。
公的な力を借りて、
整備し維持しているわけですね。
南北に通る一本の道と
その枝道を総合して「葛城古道」といわれます。
なので、道沿いにある「菩提寺」なんかも、
案内が建てられて誘導されています。
土着の神々の里に、
平安末期に建てられたという古いお寺があるというのも、
実はこの地をかつて取り巻いた
神と仏のせめぎ合いの名残なわけです。
それはまた別に書くとして、
今日は歩行を優先に進めましょう。
山を背景に立つこんな地蔵も見ながら進んでいきますと、
おや?バスが走っています。
あの奈良交通の長距離路線バスではありません。
こんなところを走ってきた覚えはありません。
近くにあった「伏見」のバス停を見ますと
御所市のコミュニティバスとありました。
歩くコースや時間によっては
このバスの利用も可能なわけですねえ。
近頃はどこの自治体もこういうバスを
出しているようですねえ。
行先によって路線バスがなければ
一度こういうバスを探ってみるかちはありそうですねえ。
(ただ、ここは一日3便だけでした)
伏見を過ぎると西北窪という地域に入っていきます。
すると左に「高天原」への登り口が見えてきました。
高天原とはまた大上段に振りかぶった名前です。
どんなところなんでしょう。
行ってみなくてはなりません。
急な坂道をエッチラオッチラ登って行きますと、
広い道路に出ました。
道はまだその広い道を横切って、
水の流れる音が一層大きくなる中を
さらに登って行きます。
今回歩き始めて一番の急坂です。
すると、前方に鳥居らしきものが見えてきました。
ここから参道の山道に入るようです。
ここからさらに傾斜がきつくなり、
針葉樹に囲まれた山道になりました。
トレイルというにはあまりにも急です。
途中、山中にこんな地蔵もあります。
そこでいったん休憩し、
まださらに登って行かねばなりません。
はあはあ、ゼイゼイ。
まさに神話のふるさと、高天原というだけあって
天に登って行くようです。
と、そうこうしているうちに
ようやく、人里に出ました。
正面に「高天彦神社」が見えます。
続く。
風の森を目指して歩きはじめましたが、
そういう名前の森はないということを前回書きました。
地名表記もなく、
もしかしたら昔の「字(あざ)」名で
残っているかもしれませんが、確認できません。
現在ではこの地域を「鴨神」と言います。
地図の赤丸
住所が「御所市鴨神」なんです。
実はこの名前にも、
語りつくせないほどの意味が含まれています。
大変数多くため池があるので、
きっと鴨もたくさんいたんだろう
というのは間違いです。
かつての古代葛城王朝が
この山麓で栄えていました。
まずこの「葛城」の意味から書かねばなりません。
この山麓には古墳時代に入っても穴倉を築き、
そこで暮らす人々がいました。
しかし後にこの地にやってきた人々が
それらの異族を退治したそうです。
土に籠もる人だから土籠(つちごも)と言われ、
それに「土蜘蛛」と言う字があてられたんだろうと
司馬遼太郎も書いています。
このコース上に点在し、
後ほど登場する「蜘蛛塚」や「蜘蛛窟」は
そんな人々を退治した名残の旧跡として
置かれたんだろうとのことです。
その「土蜘蛛」を退治した人々は、
この地の現人神(あらひとがみ)として、
村々を統治するようになりました。
それらの人が「葛(かずら)」を叩いて作った服を
着て築いた地域ということで
「葛城」ということのようです。
と、ここまで書いても「鴨神」の理由にはなっていません。
話はもう少し続きがあります。
これら葛城の人々が現人神となり
この地域を支配するようになりました。
それを葛城族といい、古代葛城王朝が
繁栄をしました。しかし、ある時
時の天皇の怒りに触れたために、葛城族は
殺されたり四国に追放されるという事態になったそうです。
今も、彼らが流された高知県には葛城の神を
祭神とする神社があるそうです。
神がいなくなった葛城の山麓ですが、
人々の心の中から信仰心までは
追放することはできません。
なので神が不在となった
葛城の村にも信仰は残りました。
そんな出来事を背景に、
ある時より神の声を聞き、
その声を民に伝えるという
巫子(シャーマン)的な役割をする一族が
台頭をしてきました。
それが「神」を語源とする「鴨」族です。
葛城族に成り代わって
この地域の神々を奉り、人々の支えとなって
いた一族です。
その「鴨族」の本貫の地であるこのあたりを
「鴨神」
というのがこの地域の名前「鴨神」の
いわれとなっています。
この「鴨族」からは歴史上重要な人物が出ています。
その内の一人が「役行者」と呼ばれる
「役小角」です。
彼がこの地でどんな行動をしたのか、
それはまたのちほど紹介しましょう。
他にも鴨長明や鴨田守も
耳にしたことがある名前だと思います。
いずれにしてもこの「鴨族」は
後の氏族の流出で
各地にその痕跡を残しています。
京都の下鴨神社、上賀茂神社、
鴨川といった神社や川の名前だけでなく、
「加茂」という表記の地名も
日本全国に残っています。
京都の木津川にも加茂という地名があり
岡田鴨神社や加茂八幡というところがあるので
近々訪ねてみようと思っています。
またお近くの高石市の「加茂」町もそうなんでしょう。
あ、偶然にも「高」の字がつきますね。
高丘、高天、高鴨など
この葛城の地域にも「高」がつく地名や字名
そして旧跡が数多くあります。
金剛葛城の山麓に住み
大和盆地を見下ろしていた
葛城の人々の暮らしゆえのことでしょう。
「高石」とそれと関係あるのかないのか
その辺はよくわからないので
時間のある時に図書館にでも行って
「高石市史」でもひも解いてみましょう。
とにかくそのころ丁度、日本に仏教が伝来し、
神々信仰は肩身の狭い思いをするようになっていくわけですが、
各地で「かも」が芽吹いて今も花を咲かせていることは
その信仰が消えてしまうことは決してなく
根強く人々の中に残っていったということなんですね。
さて葛城古道に戻りましょう。
風の森へと西向きに山を正面に眺めながら登ってきて、
このあたりから道は
山麓に沿って南北の道になります。
突き当たりに出て右を見ると、
赤い鳥居が見えてきました。
「高鴨神社」です。
「鴨」の字がついているように、
「鴨」族の祖神を祀っています。
司馬氏も書かれているし、
歴史的にも重要なお寺なので、
山中の辺鄙なところであるにもかかわらず、
参拝客の姿が結構見られました。
皆さん車で来られているようです。
神社に入るとまず目に入るのが、
大きな池です。
このあたりは山麓であるがために、
水は勢いよく流れ下ります。
その流れを利用できたからこそ、
導水、排水の楽な山麓で棚田の米を育てていたのが、
葛城王朝の暮らしです。
しかし、流れが急なだけに
あっという間に流れ去ってしまうのを防ぐために、
この地には大小さまざまなため池が多く作られています。
そういえば、風の森バス停から歩いてきた道にも
大きな山々を背景にした高台に
小さなため池がたくさんありました。
さすがに鴨族の根拠地というべき景色でした。
続く。
御所駅の観光案内所から再びバス停に戻り、
少し待っていると、
時間より少しだけ遅れてバスがやってきました。
おお~全く普通の路線バスです。
前の扉が開いて乗り込むと・・・
ガラガラだろうと思っていた予想を大きく裏切り、
ほぼ満員状態でした。
二人掛けシートのほとんどに、
年配の男女が座っているではないですか。
しかも、皆さん大きな荷物の
旅支度をされている人がほとんどです。
このバスに乗るための旅行という感じでしたね。
運よく一列だけ空いていた席に
腰かけることができました。
バスはなかなかいい雰囲気で、
右に山頂周辺に少し雪を被った
金剛葛城の山々を見ながら進んでいきます。
このあと歩く道はその山麓の
高台を通っているはずです。
このまま十津川とかの山の中を通って
新宮まで行くのも楽しいでしょうねえ。
いつか必ず、このバスで旅行してやると思いました。
途中バスはいくつか停留所を通過するのですが、
一人の乗降もありません。
すべての停留所をスルーしていきます。
そして目的の「風の森」の一つ手前の
「かもきみの湯」という温泉施設の停留所でも
誰も降りず、少し時間調整しただけで出発しました。
結局「風の森」停留所で降りたのも
doironだけでした。
ナビをセットして、さあ歩きはじめましょう。
道の入り口のところにはこんな看板がありました。
よ、読めません。
でもこれを目印に、のどかな道に入っていきましょう。
あ、こんな石の道標もありました。
「至風ノ森」と刻まれています。
この「風の森」なんですが、
なかなかいい名前ですよねえ。
ジブリの映画に出てきそうです。
どんなところでしょう。
道は小さなため池や田んぼを見ながら
どんどん登って行きます。
近くの金剛葛城山系の山の見渡せる
とても気持ちのいい道です。
やがて風の森に到着したようです。
でも、あれ?森がないぞ。
石標のまわりは全て田んぼです。
遠くにちょっと木の生えた場所が見えていますが、
その森を指しているわけではなく
石標はこのあたり一帯を指し示しているような置かれ方です。
調べてみますと、
現在の住居表示では
「風の森」という表記をする地番はありません。
わずかに「風の森神社」や
「風の森峠」といった名前で残っているだけです。
この日は穏やかな気候でしたが、
普段このあたりに吹く金剛葛城山系からの風が
とてもきついそうです。
なのでその風から守ってもらうために、
風の神様である
志那都比古神を祭神とする
「風の森神社」が祀られています。
ではその神社の森が「風の森」なんでしょうか。
どうもそうでもないようです。
さらに調べてみますと実は
ここが「風の森」という名前の森です
という森があるわけではないようです。
石標の置かれ方から感じた印象は
間違いではなかったんですね。
ではなぜ「風の森」なんでしょうか。
風が強くて森が点在していたから?
そうかもしれませんが、
もう少し考えてみました。
桜井の大神神社が背後の三輪山を
御神体とするように、
神社と山や森は信仰上深いつながりがありました。
かつて神は山であり森であったようです。
万葉集でも「神社」と書いて
「もり」と読む歌もあります。
と考えると、
「風の神社」を「かぜのもり」と言い、
「風の森」と表記するようになったのではないか
と思うのです。
風が強く、風をつかさどる神様がおられた場所・・・
それが「風の森」なんです、きっと。
道の正面には、
稜線辺りが白くなった金剛山が見え、
遠くには奈良の山々も見渡せる
気持ちのいい道が続きます。
分岐点にはこんな道標が立っています。
その道しるべでは「葛城の道」となっていますが、
このブログでは「葛城古道」と書くことにして、
さらに続きます。