ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

気持ちいい加茂~ 3

2015年03月21日 21時35分06秒 | ウォーキング

「この神社の神主は世襲制じゃないんですよ」
社務所の辺りを掃除していた女性がそう話してくれました。

「由緒ある神社なんですが、
うちは他から来てここの神主をしているんです。」
という話からもこの人が
昔からここに住む
「鴨」の子孫ではないことがわかる。

そんな話をしていたら、
「由緒書があるのであげましょう」
と言って社務所から出してきてくれたのがこれ。



明治33年に作られた
図柄の入った由緒書でした。

漢字とカタカナで書かれた由緒を頑張って読むと、
洛北の賀茂明神を勧請しておかれたとあります。

建角身命のゆかりの地であるということからも、
ここが葛城の「鴨」によって
開かれた地であることが伺えます。

樹木が二列に並んだ参道の様子は、
あの「一言主神社」をほうふつさせる佇まいではないですか。

参道入り口には先ほど見た石の道標と
同じ形のものが立っていました。

「左 いがいせ道」とあることから、



ここも交通の要衝であったようです。

白い花をつけた梅の古木に別れを告げて、



集落の中の街道道を歩いていくと、



木津川の堤防に出ます。



川が大きすぎて、
河川敷の中に森があったりするので、
一見堤防には見えないのですが、



こんな石が立っているのですから
堤防に他なりません。

「木津川距離標31km」
と刻まれています。



淀川の三川合流地点からの距離のようです。

その先で右折し
川に架かる橋長285mの
「恭仁大橋」を渡ります。







渡りきったところの万葉歌碑のある公園で、
そろそろお昼にしましょう。



そうそう、今日は昨年買った
ショルダーバッグのデビューでした。
快適だったなあ。

今日は加茂駅前の思い出のローソンで買ったこれ。



ごちそうですね~。

お腹が膨れたら
さあ後半部分に進みましょう。

堤防沿いをしばらく歩いて、
田んぼの中の道に降り、
恭仁宮を目指します。

このあたりは農業者の結束が強いようで、
こんな時計のある集会小屋や



農事掲示板のある立派な集会小屋も
立っていました。





遠く北の方の山を見上げると
「海住山寺」も見えますが、



今日はそこにはいきません。

集落の中にある「恭仁宮跡」に向かいました。

そこは、一時都が置かれたのですが、
都としての形態が完成しないうちに
近江に遷都され、
そしてその後、
先日歩いた大阪城横の難波宮へと
変遷していったものです。

だからここ恭仁宮はうたかたの都であったと
言えるでしょう。

今も七重の塔の礎石や



大極殿の跡が残っています。



石碑のこけているのが、



この都のはかなさを
物語っているようで悲しい景色でした。
わざとこかしてあるのじゃないでしょうね

ここからまたのどかな道を歩きますと、
茶畑などが現れます。



そしてまるであぜ道のような道が続きます。



また神社が現れました。



恵美須神社です。



ここにはそのロケーションから
別名「河原恵美須」ともいわれています。

昔、木津川の氾濫で
この神社が流され、
西宮の戎神社まで流れて行ったという由来を持ち、
以後地域の人々が船で
御神体を迎えに行ったそうです。

木津川が、淀川を経て
大坂、京都と開運でつながっていたからこその、
昔の一大イベントですねえ。

恵美須様は商売の神様ですね。
クリエイター仕事の注文が殺到するよう
祈っておきましょう。


こんな六地蔵を見ながら



再び木津川の堤防に登ります。



今の季節は少し寒いけど、
春たけなわの頃は
きっと気持ちいい川風が吹いていることでしょう。

堤防をずんずんと歩いた後、
再度恭仁大橋を渡って、
加茂の商店街に向かいました。



折しも商店街こぞって
雛人形飾りのイベントをされているようで、



あちこちの店先に
こんな雛人形が飾られ、



たくさんの人達で
かなり賑わっておりました。



結局、二か所の神社で鴨族に思いをはせつつ、
のどかな田舎道を気持ちよく歩き、
最後までアンコの詰まった楽しい加茂歩行でした。

大仏鉄道という新しい廃線跡も知ったし、
歩いてよかったカモ~

ということで今回のシリーズ終わり。

追伸

先ほど、スーちゃんの四十九日が
無事終わりました。
たくさんのお見送りに感謝です。

合掌


気持ちいい加茂~ 2

2015年03月20日 21時45分56秒 | ウォーキング

燈明寺は、行基の開創とされています。

行基は役行者より少し後、
空海以前に活躍した僧です。

この人の名前も各地に現れます。
特に大阪にはゆかりのところがたくさんありますね
(久米田池など)。

かつての本堂や三重塔が
今も横浜の三溪園に現存するそうです。
昭和23年の暴風雨で倒壊し
部材を残してあったものを、
その地で復元したそうです。

これがそこにある本堂、



そしてこれが三重塔です



(いずれもHPから)。

横浜に行く機会があれば訪ねてみましょう。
こうして訪ね場所を芋づる式に
増やしていくdoironなのでした。

ここ御霊神社の境内跡には
いまも仏像を安置している建物や
石の十三重塔、



梵鐘が残っています。



ん?この鐘はずいぶん低いところにありますねえ。
撞木もないのできっと
頭突きで鳴らすのでしょう。

とまあそんなアホなことを考えながら
ここを後にしました。

階段を下り、参道の途中にある



「燈明寺橋」を渡ったら右折です。



その橋の架かる加茂新川に沿って



広い堤防を歩きます。

この道は昔からの道らしく、
堤防の横には
「右 なら 加茂大明神


 
左 いが いせ」と刻まれた



古い道標が立っていました。

間近に山が迫り、
川沿いを歩く道は、
鴨族の人にとって
ふるさとの葛城山地と
葛城川を連想させたに違いないでしょう。

右に曲がって「薬師橋」を渡ると、
そこに「薬師寺」があります。



「医王山 薬師寺」とあります。



いずれも医薬に関する山号と
寺名がついているように、
薬師如来を祀る寺です。

寺の前にはこんな掲示板が・・・



浄土宗で「お十念」とは
「南無阿弥陀仏」を十回唱えることです。

たとえば友達を車に乗せるとするでしょ。
その時にスタートする前に
「南無阿弥陀仏」をまず十回
唱えてあげればいいわけですね。

友達が減るかもしれません

境内にはたくさんの石仏が
持て余し気味にゴロゴロし、



立派な宝篋印塔も立っていました。



道はこの寺の先で左に曲がり



狭い集落の中を
やや登り気味に続いていきます。



このあたりではすぐ横が関西本線です。



最近は「大和路線」の名前が
よく使われていますが、
残念ながらそれは木津以西に付けられた
関西本線の愛称です。
確かにこのあたりは電化している様子もなく、
単線です。



ため池の下ののどかな道を歩き、



いわくありげな名前の
「開放橋」で関西本線を渡り、



木津側に向かって
ぐぅ~んと下っていくと
小谷の集落に入っていきます。

お、この車の停め方はすごい。



やるなあ、木津川市。

この地蔵堂の中には
「南元阿弥陀仏」の文字を刻んだ
石碑が建てられてあります。



すぐ横が浄土真宗本願寺派のお寺でっさかい、



「南無」ではなくて「南元」なんですねえ。

おお~お寺に隣接した
納屋の壁にスズメバチの巣らしきものが・・・



doironと距離にして10m。

ジダンのようにたわむれたりせずに
とっとと通り過ぎましょう。

道端の楠の根元に
小さなこんな神様が坐しておられました。



「加茂八幡宮」です。

加茂神社と八幡神宮が
合祀されたんでしょう。

由緒書がなかったので
それ以上のことはわかりませんでした。

その先にこんな立札がありました。



おお今度はマムシです。
日本の危険生物2種と出会えるかも
と喜んではいけません。

でもまさかね~、
まだ啓蟄も来ていなかったので、
まむしやハチは大丈夫でしょう。

だけど子どもは一体どこから飛び出すの?
というほど見通しの良い場所でした。

ていうか、ここで遊んでいる子供こそ
まむしに注意ですよね。

さて、田んぼ道から集落に入り、
ようやく今回の目的地のひとつ

「岡田鴨神社」

に到着です。

赤い明神鳥居の奥に社があります。



それも2社。



向かって右が「岡田鴨神社」、
左が「天満宮」です。

岡田鴨神社は
もともとは少し北の流岡にあったものが、
木津川の氾濫で水害が
頻繁にあったため
今の地に遷された
と伝えられているそうです。

社務所で掃除をしていた人に
話を聞いてみましょう。

続く

さて、明日はスーちゃんの四十九日です。
参列してくれた人へ渡す
粗供養も準備完了です。



滞りなく終わりますように


気持ちいい加茂~ 1

2015年03月19日 21時23分35秒 | ウォーキング

「鴨」、「加茂」、「賀茂」。

みんな葛城の「鴨族」が
いついた地域についている名前です。

京都の鴨川、下賀茂神社の「かも」もそうです。

もとはといえば
「神」からきているそうです。

神の言葉を発していた巫子の一族をそう呼んでいました。

奈良市の少し北にも、
「加茂」という地名があります。

「木津川市加茂」

「鴨族」の祖神である賀茂建角身命が
ここを通ったことに由来するところです。

そこにも「かも」の名を持つ
旧跡があるというので、訪ねてきました。

車で生駒山脈のトンネルを抜けて
1時間でJR加茂の駅に到着。



ここには以前柳生街道のドジ旅で
途中下車してビールを買ったローソンがあるはずです。



今日のお昼とホット―コーヒーを買い、
ポットに詰め直してさあ出発です。

今回はこんなコースを歩きました。



ローソンのある西口の反対側、
東口には公園があります。



ここにあったのが

「幻の大仏鉄道」の遺構のひとつ、

動輪モニュメントです。



大仏鉄道というのは、
ここ加茂と奈良東大寺を結ぶ
10キロ足らずの路線で、
明治31年から同40年までの
9年間だけ運行されていた路線です。

1世紀前の鉄道であるため、
当時の資料もあまり残っていないことから
「幻の・・・」といわれています。

この動輪のモニュメントは
当時の加茂町長が
私費で建立したそうです。

その鉄道の廃線跡が
ここ加茂から奈良にいたる
約13キロの道になっており、
遺構も点々と残っているそうです。

今回は「鴨の痕跡を訪ねて」
の歩行ですから、
別の機会に必ずまた訪ねてこようと思いました。

ここ加茂の駅は、
当尾の石仏群散策や
doironの大好きな浄瑠璃寺へ行く
起点となっていますから、
きっとまだ何回か来ることになるでしょう。

さて公園を出て、
最初の目的地「御霊神社」に向かいましょう。

駅前はモダンな感じに整備されています。



加茂は天王寺から一時間以内で来られる場所ですから、
閑静な住宅街や広い道もできて、
近年こちらの開発が
どんどん進んでいるように見受けられます。

マンふたは、松とアジサイ、
シイタケとツバキがあしらわれています。



これが御霊神社の参道入り口の鳥居です。



「よく来たにゃあ」とさっそくニャンコがお出迎えです。



御霊信仰とは、世を震撼せしめる
厄災や疫病が流行ったときに、
その原因となる怨霊を鎮めるところに
生まれたものとされています。

ここの御霊神社もまさしく、
その信仰に依るものでした。



祟道天皇という名前があります。

一度も皇位を継承したことがないのに
「天皇」の称号を持っています。

それは、様々な悲劇の中で
絶食により薨去された
早良親王の怨念により、
数々の厄災・疫病が流行ったため、
その霊を鎮めるために、
没後に「天皇」の称号を追称されたそうです。

この神社も主祭神としてを祟道天皇を祀っています。

ところで、「御霊」という名前に記憶はありませんか?

そうです葛城古道の「鴨山口神社」の由来の中で、
「御霊」がその地域の名前である
「櫛羅」の起源となるなっていると書きましたよねえ。

御霊大神を祭神の1柱とする
鴨山口神社にある木像の
「御霊大神座像」が彫られた年代と
祟道天皇の時代は同じ時代です。

両社にどんな関係があるのかまではわかりませんが、
祟道天皇の遺構は
奈良市内に多くあるにもかかわらず、
そこから離れたここにもあるということと
鴨族がここに在住していたことに
関連があるのか。

その辺はどうなんでしょうかね。

いずれにしても、
当時、祟道天皇の存在ゆえに、
大和を中心に御霊信仰が
盛んだったことが伺えます。

そんなことを妄想しながら
お参りをしました。



そしてこの地には、
燈明寺という寺が隣接しています。

そこも訪ねてみました。

続く。


あるスーパーの貼り紙

2015年03月18日 22時16分36秒 | 生活

以前のブログを読むと、
この時期によくスーツを買いに行ったりしていたものだ。

新年度に向けて気分一新
ということもあったのだろう。

でも最近は、そんな気の張る仕事でもないし、
取材もフットワーク重視で
失礼のないギリギリのところの服装で対応しているから、
スーツを買いに行くこともないし、
それどころか普段の服にかけるお金自体も
格段に少なくなった。

遊びでもそうだ。

トライアスロンをやってた頃は、
レース中に写真を撮ってくれるのに備え、
出場し始めた頃は毎年ウェアを替えて出ていた。
でないと毎年同じ写真になってしまうやん
というのが当時言ってた理由なのだが、
まあ多分にイチビリなところもあった。

それが最近は全く無頓着で、
下手をしたら半年あまり服を買ったことがない
ということもざらにあったりする。

全く気楽なものなのである。

それはミセスの場合も、
上着に関しては同様なのである。

2着のユニクロフリースを、
交互に来ている。
中のウェアに関しては、
さすがに女性なので
こまめに買い替えてはいるものの、
それにしたってユニクロやシマムラがメインである。

ミセスはあまりファッションに関心がないのだ。

いつも交互に来ている2着のユニクロフリースについて、
ミセスはこう語る。

「母の介護や福祉のボランティアで重宝しており、
別の服にすると、お年寄りたちに誰かわからへんかった
と嘆かれる」から決まった服で活動しているのだそうだ。

そう、まさにその2着は
秋冬早春の制服といっても過言ではない。

いつも勇ましく、気持ちを盛り上げて出かけて行くので、
doironはその服を「特攻服」と呼ぶことにしていた。

そのフリースを羽織ったら
「あ、また特攻服でお年寄りの家に突入やな」
などとはやしたてている。

とまあそういうことを踏まえて
先日、買い物に出かけたときのことだ。

そこは専門店が色々と軒を並べている複合店舗である。

車を降りてさあ店に入ろうとした時に、
出入口にこんな張り紙があった。



フムフム、コスプレはあかんのかあ。

待てよ。コスプレってどういう意味じゃ?。

語源はたしか
「コスチュームプレイ」じゃなかったっけ。
そ、それがどういうものか
doironはあまり知りませんけど・・・

だったら、メイドさんの服や、
看護士さんの恰好、
果ては女子高生の制服もあかんのでしょうか?
(知ってるやん)

と思いきや、調べてみたら最近は
「コスプレ」は世界的な共通言語で
アニメやゲームなどの登場人物や
キャラクターに扮することを言うのだそうだ。

まあ、ナース姿でスーパーに来る人もないだろうが、
学生服は絶対あるもんな。

しかしいつから「コスプレ」が
そんなメジャーになったんだろう
という感じですわ。

まあ、それは百歩譲っていいとして、
じゃあじゃあ、doironが青い服を着て
手をグーにして入っていったら
「ドラえもん」はお断りってことになるのかなあ。



どこまでがコスプレなんでしょう
とまずひとつ疑問を持った。

そして次に「卒ラン」とある。

むむむ、これは初耳じゃ。

雰囲気的には、
卒業式に現れる丈の長い学生服で
刺繍なんかが施されているいかついやつだろうが、
これも言葉としてメジャーなんだろうか。

きっとdoironより10歳上くらいになったら
わからんだろう。

ちなみに学ランにも使われる
「ラン」という言葉ですが、
江戸時代の隠語で洋服といえば
「オランダ」というところから
「ランダ」になり、さらに略されて「ラン」になったそうです。

「卒ラン」もいわば現代の隠語なんでしょうねえ。

しかし、隠語で立ち入り制限の
ポスターなんてやっぱり変やなあ。
かといって、別の表現といっても難しいけどね。

まあ、店の人も苦労してますね。

次の「扮装」というのもまた大まかだ。

何を持って「扮装」というのか
店の人に聞いてみたいくらいだ。

小さいニットの帽子をかぶって
丸眼鏡をかけて漫画家を装ったら
「扮装」になるのでしょうか。

だとしたら紛争になりそうです

そして最後に書かれてあったのが

「特攻服」。

やーいやーい、
いつものその服着てたら
店に入られへんで~とミセスに言ってやったら、
「あんたが勝手にそう呼んでるだけや」と一蹴。

そ、そんなまともな反論されてもねえ。

ちなみにもちろん買い物してても
「ちょっと、お客さん困りますねえ」
と声をかけられたりはしませんでした。。

しかし、貼り紙一枚でよう遊ばせてもらいますわ。


ぐるっと大阪城 3

2015年03月17日 21時33分55秒 | ウォーキング

天主閣の裏手に回ってふと気になったのが

「隠し曲輪」

石垣の間の狭いところを抜けて
入って行くと猫の額ほどの広場があります。
といってもほんとに猫の額のような
大きさではないですけど・・・
20平米もないくらいの曲輪
(くるわ・・・広場)です。

ここの石垣から下を見おろしますと
二の丸庭園の迎賓館の森が見えます。



そして振り返ると
大きな石垣の石に何か刻まれています。



石垣の築造をした藩の刻印だそうです。



おお~これにはあみだくじのような刻印も。



江戸幕府の築造時、
誰が缶コーヒーを買いに行くか
くじでも引いたのでしょうか。

じつはこの刻印石は
徳川による築城時に刻まれたもので、
城内では数万個見つかっているそうです。

この先の「山里丸」の刻印石広場には



刻印された石が多数展示されていました。



ん?この刻印はなんでしょう。



いやいや刻印ではありません。
大阪大空襲の際の機銃掃射の痕跡です。

玉造の鳥居も倒れてましたねえ。
砲兵工廠もあったので
このあたりの攻撃も激しかったようです。
文字通り戦争の爪痕なんですねえ。

このあたりは人も少なくなってきました。
恋人たちもゆっくりと語らっています。



その刻印石広場の片隅にあるのが、
この山里丸で自刃した淀君並びに殉死者33名の忠霊塔です。



ここが今回場内で一番のパワースポットでした。



内濠の北側に架かる橋は、



この地に本願寺があったことの名残を伝える

「極楽橋」です。



それを渡り濠に沿って右に行くと、
ようやくミセスがお待ちかねの
「大阪城梅林」に出ます。



こんな梅や



こんな梅が



花をつけていましたが、
満開にはまだ少し日にちがかかりそうです。
それでも梅の香りが当たりに漂っていました。
先日歩いた南部の梅が
「一目百万、香り十里」と
いわれていたように、
ここでも少しの花でもいい香りを放っていました。

見ると皆さんあちこちの陽だまりで
お弁当を広げています。

そういえば、もうそんな時間です。

doiron一行もお昼にしましょう。
たしか、青屋口を出たところが



各種マラソンのコースになっていて、
その脇に売店があったはずです。
向かいましょう。

と、その時ふと濠の方を見ると
たくさんの鳥が集まっていました。

鳥もお昼の時間なんでしょう。

これはキンクロハジロの一団ですね。



冬に越冬のために渡ってくる渡り鳥です。

あれ?よく見ると、
なんかひとつ変なのが混ざっていますよ・・・
ドヒャー、でっかいネズミが泳いでいます。



たぶんヌートリアでしょう。
一瞬グーちゃんに見えました。

水生植物などをエサとし、
土手の穴に住むというこの外来動物にとって、
巣となる石垣の隙間も無数にあるこの濠は
絶好の生息場所なんでしょうねえ。

愛想を振りまけば観光客から
おいしい食べ物ももらえるしね。

でも特定外来生物なので
エサは与えないようにしましょうね。

で、doironのエサの時間です。
今日は電車で来ているのでこんな感じ。



電車で渡ってきた純潔在来種なんで、
ビール付きのエサでもかまいません。

立ち上がって、愛想よく片手を上げたら
ミセスが与えてくれました
(シロクマかっ)。

食後は外濠に沿って反時計回りで
歩いていきましょう。

ここは「桃園」です。



梅林に比べて、ここはあまり有名ではありませんね。

その先の京橋口あたりには
「旧大阪砲兵工廠化学分析場」の建物があります。



今は何に使われているのでしょう。

敷地の中には運送会社の車が
たくさん止まっていました。

これで城内探索はほぼ終わりです。

寝屋川に架かる京橋を渡り、



先日、大坂八百八橋シリーズで歩いたコースを辿り、



天満橋を渡って地下鉄で帰宅した



doiron一行なのでした。

帰ってからもいろいろ調べてみると、
大阪城には謎の
石組や穴や遺構が他にもいろいろあることがわかりました。

ぜひ次に行くときは
そんな謎の場所も訪ねてみたいと思っています~。

このシリーズ終わり。


ぐるっと大阪城 2

2015年03月16日 21時55分23秒 | ウォーキング

仕切り門を過ぎて
太鼓櫓跡を見ながら進んでいきますと、



武道場である「修道館」があります。



剣道、柔道、なぎなたなどの武道の会場です。
ここが、かつて築城前に
この地にあった本願寺の推定地とされています。

あ、露店が出て賑やかです。
行ってみましょう。



豊国神社の入り口横に
いろんなお店が出ています。

大勢の人で賑わっていますが、
どうも何か様子が変です。

原因は聞こえてくるのが、
ほとんどが中国語です。

春節祭で来日し、
家電などの爆買いに飽きた
かの地の人達が、
大勢たむろしておりました。

日本人の肩身が狭いほどでした。

豊国神社の案内所に行き、
地図を見ていると
中から係の人が出てきて
こちらの様子をじっと伺っています。

「地図はこれしかありませんか」と聞くと、

「何や日本人か」みたいに
急に親しげになり、
いろんな資料を出してくれました。

それにしても何人に見間違えたんでしょうか?

フランス人?
イタリア人?

まあ大体そんなところでしょう。

この豊国神社は国宝の唐門を持つ
京都にある豊臣秀吉を祀る神社の分社です。



京都は今のところ、
doironの中では禁断の地です。

一度行きはじめると、
とめどなく通ってしまいそうです。

こうして各地の史跡を巡っていますと、
どこかで京都とつながっていることが多く、
現に最近ではこの神社や、
上賀茂神社や下賀茂神社にも
興味を持ってしまいました。

その内に京都めぐりが始まりそうな予感です。

さて鳥居をくぐらずに
中に入ると立派な秀吉の像が立っています。

出世開運の神社だそうですから、
「天下一のフリーライター、
並びにクリエイターになれますように」
とお祈りしておきましょう。



ここから少し足を戻して、
桜門から本丸へと向かいましょう。



この門は本丸の正面玄関にあたります。
大勢の外国語が飛び交う中を歩いていますと、
まるでdoironが異邦人になった気分です。

桜門から入ってまず目に入るのがこれ。

城内で最も大きいといわれる
「蛸石」と名付けられた巨石です。



表面の大きさが36畳敷きで
重さは約108トンある、
備前(岡山)産の花崗岩だそうです。

なぜ「蛸石」なのかというと、
石の左隅に蛸の姿が浮き出ているからだそうです。

なんか大坂っぽい命名ですねえ。

さて本丸に突入です。

この建物は古いですねえ。



陸軍造兵廠から大坂府警本部を経て
大阪市立博物館となっていましたが、
冒頭に出てきた大阪歴史博物館の完成によって
今は廃止になり、
現在は何も活用されていません。

本丸にはでっかい銀杏の木が立っています。



周りをベンチで囲まれて
夏場は絶好の日蔭の休憩場所になるんでしょうねえ。
その奥には「明治天皇駐蹕之所」が立っています。



明治天皇は大阪城に大変な関心をお持ちのようで、
先の豊国神社の分社を
この地に持ってきたのも明治天皇でした。

おお~、これはなんだか懐かしい
大阪万博の時のタイムカプセルです。



1号機と2号機があり
1号機は万博が開催された1970年の
5000年後の6970年に開封されるそうです。

もう45年経ちましたから、
あとわずか4955年ですねえ。

その頃の地球は・・・想像もつきませんね。

そして2号機は2000年に第1回の開封が行われました。
かすかに記憶が残っています。
以後は100年ごとに開封されるそうです。

これは切り出されたものの、
石垣等に使われなかった石で
「残念石」としゃれた名前です。



そ、その石がそういう名前で呼ばれるのなら
doironの場合も「残念記事」が
いっぱいあるといえますねえ。
ははは・・・笑えません。

天主閣には入りません。



まあ、今回は場内の史跡めぐりですから・・・
それに入城料600円もいるしね~。

結局まあそれなんですが・・・へへへ。

続く


ぐるっと大阪城 1

2015年03月15日 21時38分36秒 | ウォーキング

山を歩いた翌日は、街中歩行です。

仕事の合間と天気のいい日を選んで
出かけているので連続になったりします。

今回は、その前の週に歩いた玉造の続きで、
大阪城内探索歩行です。



大阪城内にはいろんな史跡が
点在しているように思われます。

そしてその季節なら、梅も咲いているだろうし、
距離も短いのでミセスが同行しました。

まず大阪城の変遷を簡単に書いておきましょう。

大坂城を最初に築いたのは
ご存じ「豊臣秀吉」です。

時に1583年。

本能寺の変の3年後に
大坂本願寺の敷地で築城が始まりました。

それを受けて大阪築城400年のイベントが
昭和58年(1983年)に行われています。

そしてその築城開始の32年後、
1615年の大坂夏の陣で豊臣は滅び、
城は消失し、続いて1620年に
徳川幕府による再建が始まります。

それを受けてまさしく今、
「大坂の陣400年天下一祭」が開催されているところです。

さて徳川による築城後、
この城は火災による損傷を繰り返し、
ついには落雷による火災で天主を焼失したまま、
昭和を迎えました。

近年は陸軍用地として活用された後、
スーちゃんのうまれた昭和3年に
天主が再建されています。

当時、大阪市民の寄付が150万円だったそうです。
今のお金に換算すると、
多分10億くらいだと思われます。

そうして再建された三代目の天守閣が
今の「大坂城」あらため「大阪城」なんです。

あらすじはざっとこんなものです。
そのことをまず確認しておいて、
ナビをセットしてさあ歩きはじめましょう。

今回は地下鉄の谷町四丁目駅から歩きはじめました。



ミセスもdoironと共働きで働いていたのですが、
特殊な役柄だったので
このあたりの官庁街には
ほとんど来たことがないそうです。

doironはさんざん来ました。
なので土地鑑はあります。

「ホンマにあってるの?」
と疑われながら、官庁街の裏道を通り、
大阪城の南西にある大手門口に出ていきます。

背後には前回訪ねた大阪歴史博物館がそびえています。



入り口から入ってまず目につくのが、
南外濠です。



一番広いところで75mの幅があるそうです。
徳川幕府の再構築、
二代目の天主が築造されるときに
この堀も整備されました。

内側には1番櫓から7番櫓までの
7櫓が築造されましたが、
戦争などで焼失し、
今残っているのは1番櫓と、
この写真の木の葉の陰に写っている
6番櫓だけだそうです。

場内には城とは関係なく様々な
祈念碑も設置されています。

これは被爆40年、



これが30年の



祈念植樹の石碑です。

これは、秀吉が本願寺のあった地に
築城するに当たり、
ここにあった生國魂神社を
今の天王寺区生玉町に移転させたそうです。
その後、昭和7年に
ここにはお旅所が設けられたそうで、
その石碑も立っています。



場内各所にそんな歴史の盛衰の跡が
小さな遺物になって残されています。

そして、この大手口から
さらに城内深く入っていきましょう。



残念ながら工事中のため
大手門や千貫櫓、多聞櫓、
大手口枡形などの旧跡の
全貌を見ることはかないませんでした。



これは大坂の陣400年天下一祭のマスコットです。



そのイベントの一つとして、
大阪城スーパーイルミネーションも行われています。
いわゆるプロジェクションマッピングですね。

一般の入城者が普段は入れない
二の丸庭園で行われているそうです。

先日、そこに行ってきた友達から
いただいた写メールがこれ。







結構迫力があったそうです。
入場料は2000円だったそうですが、
残念ながらこのブログがアップされるころには
もう終了しているイベントです。



今度二の丸は、大花見会場になるはずです。

門の隙間からパチリ。



そういえば昔、働いていた頃ここで花見の
場所取りをさせられた記憶がよみがえりました。

桜の時期ももうすぐですね。
オジチャリ2号の活躍が楽しみです。

続く。


59回目の春

2015年03月14日 20時34分15秒 | 生活

本日はdoiron生誕記念日です。
なので全国的に休みの会社も多いようです。
え?土曜日。
ああ~最近は曜日の感覚も
薄れがちです。
認知の始まりかもしれません。
59回目の春を迎えていますから
そういうお年頃といっても不思議じゃないですね。

我ながら、この時期の誕生日は
大変気に入ってます。

まあ、特に今日は
世に言うホワイトデーで
ちょっと特別な日だし、
JRのダイヤもこの日に新しくなることが多く
何となく「さあ始まるよ」って感じなのが
いい感じですしね。
北陸新幹線も開業しました。
doironのもう一つのふるさと金沢が
最近よくマスコミで取り上げられていて
懐かしいなあと思うと同時に
うわ~えらく変わったなあと驚いたりもしています。

とにかくまあ世間もどんどん進んで行く中
相変わらず全然落ち着きのないまま
太陽の周りを59回もまわってしまいました。
よく目が回らなかったことです。
そして、多分これからもきっと
落ち着きなく
ガサガサ、ゴソゴソと暮らすのでしょう。

とりあえず
今日の我が家の晩餐は
大好物のこれ。



ハッピーバースデー ディア 自分


雨山登山 2

2015年03月13日 21時56分23秒 | ウォーキング

さて雨山を目指しましょう。

相変わらず露岩の気持ちのいい道を進んでいきます。



お、ど根性松です。
岩の隙間から伸びてきています。



種が落ちたところがどんなところでも、
わずかな土と水があれば
芽を出し大きくなっていくのは植物の宿命なんですが、
岩の隙間が狭すぎてこれから先どうなってゆくのでしょうか。
岩を砕いて成長していくんだろうかと
行く末を案じます。

まるで自分自身を見るようです。
いやいやそんな現実的なことも
考えないでおきましょう。
なんくるないさと生きていきましょう。

犬鳴方面の棚田がきれいですねえ。



四季折々にどんな顔を見せるのでしょうか。
また来なくてはなりません。

春っぽい風と花粉を浴びつつ進んでいきます。

周りの植物に目を向けてみましょう。
これは「ネジキ」です。



ねじれながら成長していきます。
そんな人おりますね。

じ、自分もそうかもしれません。
もうとっくに成長は止まってるけど・・・。

植生は単純です。
ツツジやネジキの他に
松やソヨゴ、



ウバメガシの森や



シダが生い茂る道。

だいたいそれがこのあたりの代表的な植物の姿です。

ようやく「月見亭」と名付けられた場所に出ました。



南側に大きく開かれた空が見えます。
雨山城の住人が風流に月見をした場所なんですねえ。
そこにはこんな看板が・・・



山を大事にしたいという気持ちはわかるんですが、
折角の「月見亭」なんですから
もう少し風流に

「名月や ごみひとつ無き 山愛でる」

と、まあ駄作ですけど
これくらいのことは書いててほしいもんですなあ。

ここが、雨山頂上です。



標高は314mとあります。
312mだと思っていたのですが、
三角点がないのでまあ誤差の範囲内でしょう。

城址の祠の前には、
これまでのdoironが見た史上最大のヤマモモがありました。



祠は雨山神社跡です。



こんな山の中に孤独に耐えて
ひっそりと祀られているなんて、
なかなかできることではありません。
さすが神様です。

それにしても昔の人はこんな山の中に暮らすなんて、
水の確保も大変だろうなあと思っていたら・・・
土丸城に向かう道の途中に
井戸があるようです。
行ってみましょう。



それがこれ。



シダに覆われておいしそうな水が湧きそうです。

これは森林造成の告知看板です。



おや?看板の横にこんなものが付けられています。



「有田みちくさクラブ」と書かれています。

熊野古道の有田へ下るミカン畑にも
このクラブのプレートが貼られ
道案内をしていましたねえ。

どんなクラブなのかネットを探ってみましたが
HPはないようです。

でも、各地で精力的に活動されていることがわかりました。
いろんな集団があるもんですねえ。

崖っぷちの上に設けられた
安全柵を眺めつつ、



ウバメガシの森を抜けると土丸城跡です。



なぜか伊勢鳥居の立てられた祠があるだけですが、
さすがのパワースポットぶりです。



この土丸城まではふもとから
登山道に町石が設けられています。



古いのや新しいのが混在しており、
古いのには地元の有志の名前が刻まれ、



新しいのは熊取町役場が設置しているようです。

先ほどの井戸跡近くのコルに戻って、
下山開始です。

そんな町石に沿って下っていきます。





途中こんな看板が・・・



そういえばナニコレの取材があった時に
役場の人が追加指定の話をしていたっけなあ。

木の階段を下っていきます。



よく人が歩いているような道です。

左手に池が見えてきたら、



阪和道の高架下に出て、



山道は終了です。

熊取ロードレースのコースになっている道路を



駐車場までてくてく歩いて本日の歩行は終了。



全長約5.3キロのお手軽登山でした。



全体的にはアルペンムードの漂う
初心者コースといったところでしょうか。

半日あれば十分楽しめるおススメのコースでした。

電話ボックスで昼寝をしている猫を
起こさないように注意しながら撮影して



このシリーズ終わり。


雨山登山 1

2015年03月12日 21時34分46秒 | ウォーキング

葛城古道を濃密に歩いた後は、
頭をからっぽにして楽しい山登りをしよう
ということで、その3日後、
熊取町にある雨山に行ってきました。

前からいこうと思っていたのですが、
行こうと思った日に限って雨降りで、
さすがに「雨山」だけのことはあると思っていました。

その日は曇っていて少し寒かったのですが、
雨はどうやら降らなさそうなので
やっと実現しました。

その山は熊取町にあって
和泉山脈の前衛峰で標高は312m。

低い山ですが、露岩の尾根のある
アルペンムードたっぷりの山です。

永楽ダムの駐車場に車を停めて、
ナビをセットしてさあ歩きはじめましょう。

登り口は駐車場のすぐ脇にあります。



道路からいきなりの階段を登って行きます。
このあたりは里にも近いので
きっと毎日登山をする人もおられるのでしょう。
地元の人々に好かれているようで、
こんな杖も置かれていました。



尾根に出るまでは階段と急な傾斜が続きます。



山に階段があるときには、
できるだけそれを使いましょう。
いつも同じ側の足で登るのは辛いからといって、
脇を歩くと道はどんどん荒れていきますからね。

ちょっと傾斜が緩くなると山道になります。

おお~、これは「宝くじ松」と書かれていますが、
すっぱり切られています。



ううっ、縁起でもない。

雑木越しに永楽ダムがだんだん見えてきました。



標識もしっかり整備されています。
道にはジダンがいっぱいいます。
あ、ちゃうちゃう、
シダがいっぱい生えてます。

そんな山道から、



露岩の尾根に出る直前には、



ダムもすっかり姿を現します。



向こうの方に見える展望台は、



以前「ナニコレ珍百景」に出演した時に観た展望台です。

あの時にダム湖から防火用の水を揚げる
ポンプが展望台の下に据えられていることを
役場の人に教えてもらいました。

さて、ここまでくれば急傾斜はもうほとんどありません。



登り始めて30分。

コースが短いので家を遅く出たために、
ベンチのあるところでもうランチです。



今日の豪華メニューがこれ。



いつもと変わらないやんとお思いでしょう。
違うんです。
今日はおかずだけの弁当も持参です。



車じゃなかったら、
じぇったいビール付きなんですがねえ。

一人の中高年ハイカーとすれ違いました。
腰にラジオをぶら下げて、
ガンガン鳴らしています。

せっかく山に来てるんやから、
自然の声や音に耳を澄ませばいいのになあ、
と思ってしまいますが、
動物よけだったとしたらゴメンナサイ。

その人に道を聞くと、
細かいところまで記憶をたどりつつ
詳しく教えてくれました。

さすがにベテランハイカーでした。
おみそれいたしました。

目指すは二本目の鉄塔です。



あ、コバノミツバツツジが咲き始めています。



モチツツジも咲き始めています。



クリエーターdoironは
いつ花が咲くんでしょうか?

つぼみ固しです。

露岩の尾根をフンフン進みます。

おお~これはなんと岩を削って作った階段です。



弘法大師の爪書階段でしょうか。
そんなわけはありません。

ひとつめの鉄塔に着きました。
まるで電線が大阪平野とつながる
ロープウェイのように空に架かっています。



永楽ダムもかなり小さくなりました。



分岐を標識の通り右に曲がって、
急坂を上ると小屋谷頂上です。



三角点もないし、標高の表示もないのですが、
地形図から読むと標高約310mほどでしょうか。

そこを出てしばらく歩くと、
左手に犬鳴温泉街が見えてきました。



露岩で、背の高い樹がない尾根道ですから、
眺めはなかなかのものです。

そして前方には、雨山が見えてきました。



古くから雨乞いの神がおわす山として
崇められてきた山です。

そしてその向こうには
土丸城跡のあるピークも見えています。

雨山にも雨山城跡があるそうです。

誰が築いたんでしょうか。

おっと、今回はあまりその手のことは
考えないように気楽に山歩きを楽しみましょう。

続く