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葛城古道 鴨神とは

2015年03月03日 21時03分16秒 | ウォーキング

風の森を目指して歩きはじめましたが、
そういう名前の森はないということを前回書きました。

地名表記もなく、
もしかしたら昔の「字(あざ)」名で
残っているかもしれませんが、確認できません。

現在ではこの地域を「鴨神」と言います。



地図の赤丸

住所が「御所市鴨神」なんです。

実はこの名前にも、
語りつくせないほどの意味が含まれています。

大変数多くため池があるので、
きっと鴨もたくさんいたんだろう
というのは間違いです。

かつての古代葛城王朝が
この山麓で栄えていました。
まずこの「葛城」の意味から書かねばなりません。

この山麓には古墳時代に入っても穴倉を築き、
そこで暮らす人々がいました。
しかし後にこの地にやってきた人々が
それらの異族を退治したそうです。

土に籠もる人だから土籠(つちごも)と言われ、
それに「土蜘蛛」と言う字があてられたんだろうと
司馬遼太郎も書いています。

このコース上に点在し、
後ほど登場する「蜘蛛塚」や「蜘蛛窟」は
そんな人々を退治した名残の旧跡として
置かれたんだろうとのことです。

その「土蜘蛛」を退治した人々は、
この地の現人神(あらひとがみ)として、
村々を統治するようになりました。

それらの人が「葛(かずら)」を叩いて作った服を
着て築いた地域ということで
「葛城」ということのようです。

と、ここまで書いても「鴨神」の理由にはなっていません。

話はもう少し続きがあります。

これら葛城の人々が現人神となり
この地域を支配するようになりました。
それを葛城族といい、古代葛城王朝が
繁栄をしました。しかし、ある時
時の天皇の怒りに触れたために、葛城族は
殺されたり四国に追放されるという事態になったそうです。

今も、彼らが流された高知県には葛城の神を
祭神とする神社があるそうです。

神がいなくなった葛城の山麓ですが、
人々の心の中から信仰心までは
追放することはできません。
なので神が不在となった
葛城の村にも信仰は残りました。

そんな出来事を背景に、
ある時より神の声を聞き、
その声を民に伝えるという
巫子(シャーマン)的な役割をする一族が
台頭をしてきました。

それが「神」を語源とする「鴨」族です。
葛城族に成り代わって
この地域の神々を奉り、人々の支えとなって
いた一族です。

その「鴨族」の本貫の地であるこのあたりを

「鴨神」

というのがこの地域の名前「鴨神」の
いわれとなっています。

この「鴨族」からは歴史上重要な人物が出ています。
その内の一人が「役行者」と呼ばれる
「役小角」です。
彼がこの地でどんな行動をしたのか、
それはまたのちほど紹介しましょう。

他にも鴨長明や鴨田守も
耳にしたことがある名前だと思います。

いずれにしてもこの「鴨族」は
後の氏族の流出で
各地にその痕跡を残しています。

京都の下鴨神社、上賀茂神社、
鴨川といった神社や川の名前だけでなく、
「加茂」という表記の地名も
日本全国に残っています。
京都の木津川にも加茂という地名があり
岡田鴨神社や加茂八幡というところがあるので
近々訪ねてみようと思っています。

またお近くの高石市の「加茂」町もそうなんでしょう。
あ、偶然にも「高」の字がつきますね。
高丘、高天、高鴨など
この葛城の地域にも「高」がつく地名や字名
そして旧跡が数多くあります。
金剛葛城の山麓に住み
大和盆地を見下ろしていた
葛城の人々の暮らしゆえのことでしょう。
「高石」とそれと関係あるのかないのか
その辺はよくわからないので
時間のある時に図書館にでも行って
「高石市史」でもひも解いてみましょう。

とにかくそのころ丁度、日本に仏教が伝来し、
神々信仰は肩身の狭い思いをするようになっていくわけですが、
各地で「かも」が芽吹いて今も花を咲かせていることは
その信仰が消えてしまうことは決してなく
根強く人々の中に残っていったということなんですね。

さて葛城古道に戻りましょう。

風の森へと西向きに山を正面に眺めながら登ってきて、
このあたりから道は
山麓に沿って南北の道になります。

突き当たりに出て右を見ると、



赤い鳥居が見えてきました。

「高鴨神社」です。



「鴨」の字がついているように、
「鴨」族の祖神を祀っています。

司馬氏も書かれているし、
歴史的にも重要なお寺なので、
山中の辺鄙なところであるにもかかわらず、
参拝客の姿が結構見られました。

皆さん車で来られているようです。

神社に入るとまず目に入るのが、
大きな池です。



このあたりは山麓であるがために、
水は勢いよく流れ下ります。
その流れを利用できたからこそ、
導水、排水の楽な山麓で棚田の米を育てていたのが、
葛城王朝の暮らしです。

しかし、流れが急なだけに
あっという間に流れ去ってしまうのを防ぐために、
この地には大小さまざまなため池が多く作られています。
そういえば、風の森バス停から歩いてきた道にも
大きな山々を背景にした高台に
小さなため池がたくさんありました。



さすがに鴨族の根拠地というべき景色でした。

続く。