「高天原」は古事記の中で、
天津神が住んでいたとされる場所です。
この高天原の所在地については
古来から諸説があります。
ひとつが「天上説」。
高天原は神が住んでいた場所だから、
当然地上にはなく天にあるんだ
という説が一つ。
もう一つが、神話には史実が含まれているから
高天原も実在した場所を表しているという
「地上説」。
この金剛葛城山麓に高天原があったというのは、
この地上説に起因しています。
地上説ではほかに、
滋賀県の伊吹山山麓、
宮崎県の高千穂、
岡山県の蒜山など
他説があります。
明治までは、
おおむねこの葛城山麓が
高天原とされていましたが、
新井白石が茨城県の多賀郡を唱えてから
混沌としています。
当然それぞれその地に行きますと、
そこが高天原ということで
種々由来などがつたえられていますので、
ここ葛城の説明書きなんかを読むときも、
そういう地元中心の由来であることを
頭に入れておく必要があるでしょう。
急傾斜の山道をどんどん登ってたどり着いた
「高天彦(たかまひこ)神社」
もこの地に高天原があったとしたうえでの
神社という説明になっています。
またここは金剛山の奈良県側からの登山口にもなっています。
駐車場も広く、
babiさんもよくここから登っておられるようです。
と思って登山道の方を見ていたら、
年配の女性がステッキを突きながら下りてこられました。
雪のあるところまで登っておりてこられたようです。
最近の山登りブームは
年齢に関係なく流行っているんですねえ。
駐車場の横には、
「鶯宿梅」があります。
若い僧の非運を嘆いて
鶯がここで歌を歌ったことから
この名前になっているそうです。
どんな史実が隠されているのでしょうか。
僧と梅と鶯なんて姿を想像しながら、
いにしえに思いをはせましょう。
登ってくる途中には「蜘蛛窟」もあったようです。
葛城族がここに王朝を作る前から住んでいた
土着の人々のすみかなんでしょう。
気を付けて歩いていたのですが、
見つけられませんでした。
この神社の祭神は、
高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)。
神話におけるもっとも初期の
造化三神のうちの一柱で、
高天原に住んでいたとされる神です。
神社に入ると、
背後の山を御神体として祀る社があります。
お社を取り囲む気がただ事ではありません。
思わず掌を合わせてしまいます。
ここを訪れた南風という人が
石碑にこう刻んでいます。
「・・森厳荘厳 霊気地に満ち
森羅万象総て神霊を帯ぶかに見ゆ・・」。
うんうん、まさにそんな感じです。
神社を出て集落の方に向かいました。
どの家も古風で、
まさに古道沿いの道という感じです。
この時期のけやきのシルエットはいいですねえ。
まるで絵に描いたように
空にそびえています。
集落を抜けて、のどかな道を進みます。
振り返ると先ほどの集落が
金剛山をバックにして寄り添うように集まっています。
ここに限らず、街道を歩いているとき、
のどかな人々の暮らしを見ながらいつも
羨ましい気にさせられるのですが、
ここはとりわけそんな思いを
強く抱かせる静かな山里でした。
そしてその先に現れるのが、
「高天原」といわれる史跡です。
人里から隔絶された山麓の台地上にあるこの地から、
高天原を連想させるのは簡単なように思えました。
ここから神は地上に降臨したのでしょうか。
やがて道は弘法大師を祀る
「橋本院」に出ます。
ここもまた静かな山寺です。
この地域で活躍した役行者が、
初期の密教を振りかざして
葛城を混乱させました。
その後、密教は弘法大師
すなわち空海によってはじめて体系化され、
発展を遂げて行くわけですが、
この地に空海が祀られているということは、
まるで役行者の行いを諌めるため
のような気がしてなりません。
いわれはよくわかりませんが、
今の世から振り返ってみたら
そういう目でここを眺める人もきっといるのではないか
とそんなことをふと思いました。
続く