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心から楽しまないとねえ。

葛城古道 役行者のこと

2015年03月07日 21時23分34秒 | ウォーキング

「一言主神社」は地元の人たちに
「いちごんじさん」などと呼ばれ、
親しまれています。

この神社を語るときに、
どうしても触れておかないといけないのが

「役行者(えんのぎょうじゃ)」です。

今日は少しそのことを書きましょう。

「役行者」の名前は山に登る人なら
各地で目にし、耳にしたことがあるでしょう。

あまりにたくさんの地に痕跡をとどめているので、
人々の信仰が作り出した架空の人ではないかとか、
「役行者」は何人もいる
複数の集団の名前だという人もいます。

でもそうではなくて、
役行者はやはり実在する一人の人間のようです。



ちょっと前に、
葛城の神々の言葉を聞いて
人々に伝える能力のある人々を
「鴨族」ということを書きましたよねえ。

実は彼はその「鴨族」の一人なんです。

古来神々を奉じてきた「鴨」の一族でありながら、
異端児ともいえる彼は「もはや葛城の神の時代ではない」として
仏教へと傾倒していきました。

まだ空海以前の時代で、
密教は体系化されておらず、
修行と称して野山を駆け回り、
果ては飛行術まで身につけたという
彼のその姿は、仏教への畏敬と相まって
各地に数多くの痕跡をとどめました。

彼が登りその痕跡をとどめた山は
100名山どころではありません。
1000山を越えるといわれています。

数多くの山野を跳梁跋扈することで
悟りを得ようとした彼の思いが
どれだけ強かったかがよくわかります。

それが、「役行者野山にはびこる」の正体です。

そんな彼と葛城の神々は
次第に対立を深めていきます。

もはや自分は神以上の存在だと思っていた彼は
あるとき、葛城の「一言主」の神様に
「一帯の川という川に土橋を架けよ」
という途方もない土木工事を命じました。

役行者の命令があまりにも
目に余るひどいものであったことから、
一言主の神が人々の口を借りて
朝廷に「役行者世間を惑わしており
謀反のおそれあり」と
注進したところ、それを聞き入れられ
彼は伊豆の方に流されました。

その時にも彼は富士山に登ったり、
(初めての富士登山者といわれています。)
相変わらず野山を駆け回っていたので
ますます彼の名前は各地に残りました。

そして3年。

ようやく許された役行者は
帰ってきてまず一言主の神の元に行き、
告げ口した神を怒って
縛り上げて谷底に蹴落としたそうです。

以後、仏教を尊しとする時の政権の陰で、
神々は衰退していき、
これではいかんと鴨一族が
全国に散らばり、加茂の名前を広めて行った
というのは前に書いた通りです。

で、その縛り上げられ、
谷底に蹴落とされた一言主の神様なのですが、
他の神様がどんどん仏教に帰依していく中で、
一言主の神様は「神」であることを貫いた
気骨のある神様として言い伝えられています。

かつて天皇とけんかをし、
土佐に流された後に、
許しを得て再び鴨一族によって呼び戻され、
またここでも仏教の圧力に抗い
信念を貫いた神として、
全国各地から
「ひとことの願いであればなんでも聞き入れてくれる神様」
として信仰を集めています。

というのが一言主神社のいわれと、
それにまつわる役行者のお話なんです。

それを念頭に置いて、
さあ、葛城古道は長柄の集落から
山の方に向かってつけられた
一言主神社への参道を進んでいきます。



傾斜地に石垣を組んで建てられている
民家の間を登って行くと、
やがて杉の木が並ぶ道に入っていきます。



なかなか雰囲気のある参道です。

葛城古道の看板や道しるべ、
石の道標も立つのを眺めながら



県道の下のトンネルを抜けると、



再び鳥居が立っており、
まだ参道が続いています。

途中見かけたのがこれ。



何度も書いたように
土に籠もって暮らす土着の人々を退治して
埋めた塚だという話が残っています。

やがて遠くの高台の上にある
神社が見えてきました。



そこまであと少し。

ここから最後の階段を登って行きます。



高さを稼いでいくとともに
運気も向上していきます。



むむ、ありがたや~。

登りきったところが境内です。



少し歩きまわってみましょう。

続く