当時の舟は、木を刳り抜いて作った舟形に、舷側を張り合わせた準構造船と呼ばれるものである。舟の末端には張り出しを設け、その上に立って櫓を漕ぐ仕組みだ。従って、後世作られるようになる竜骨を通した構造船よりも、遙かに脆弱で壊れやすい。それを狭いところに何百艘もつなぎ止めていたのだから、破損しない方が不思議であろう。それでも義経は、使用に耐える舟だけを応急に修理し、僅かな手勢でも出撃することを諸将に告げて、およそ肝の太さでは人後に落ちない面々を驚かせた。そこへ、義経の軍監として頼朝から付けられた梶原景時が、この出陣に待ったをかけた。老練でなる景時からすれば、このような嵐の中舟を出すなど正気の沙汰ではない。更に、従三位高階泰径を通し、後白河法皇までも、この出陣を一時見合わせるように勧告してきた。自然形としては、若い悍馬そのものの義経が猛々しくおのが主張を叩き付け、老練でなる梶原景時が切り返して諫止するのを繰り返すことになる。だが、いつまで立っても平行線のまま埒が明かぬ二人のやりとりが、次第に取り巻きの血の温度を高ぶらせた。双方とも既に主将の後で手に手に刀の鍔口に効き手をかけ、いつでも目の前の相手に日頃の丹念な手入れぶりを味あわせてくれんと身構えている。ほんの一瞬、誰かがくしゃみでもしようものなら、たちまち辺りは剣戟飛び交う修羅場と化したかに違いないほどに、爆発寸前の怒気が充満していたのである。間に立つ泰径とては、後白河院より託された自分の目的から言っても、何とか梶原方に与した形でこの場を仲裁したい。だが、無闇にここで口を開いては、お互いに目の前しか見えてない荒くれ者共の目がそのまま自分の方へ向くやも知れぬと思うと、一言半句も口を挟めたものではなかった。
その内にも景時は、あくまで口調を抑え、また同じ事を義経に繰り返していた。
「御大将は出陣なさると言うが、我らが舟は昨日来の風で大方壊れ、修理なくしてはまともに海に浮かぶことすらかなわぬ。それにこの風、この波をどうなさる? とても櫂はこげぬし、帆を張ればたちまち水を含んで舟をひっくり返すに決まっている。今それ程に急がずとも、範頼君と呼吸を合わせて堂々と西下なされば、平氏の残りかすなど掌の間に挟んだ卵も同然、ただ一揉みに揉み潰せよう。それが判っていて何故にそうも無理をなさる」
対する義経も、強硬な態度で自説を繰り返した。
「この風、この波で平氏の一党は絶対に源氏は出て来るまい、と油断しておるに決まっている。そこを突けばこそ、勝利は容易う手に入るのじゃ」
「そこを突く、と御大将は申すが、舟もなく波風も凌げずどう突くとおっしゃる」
「舟はある! 修理を急げば五艘でも一〇艘でも出せる舟はあるはずじゃ! それに、わしとて逆風に逆らって漕ぎ出せと言うほどおこではない。幸い今の風は追い風じゃ。これなら幾らでも凌ぎようがあろう」
「たった五艘や一〇艘でどれほどの兵が送れようか。せいぜい三〇〇騎を過ぎまいに。平氏は屋島に数千騎を集めているのですぞ。それにここは淀の河口で海からは一段も二段も奥まった所にある。その奥でさえ舟をこぼつ程に大風が吹きすさんでおる。外海へ出れば、波も風もこんなものではなかろう。それを凌いで無事四国までたどり着くなど到底不可能だというのが判らぬのか」
「判らんのは景時の方じゃ。送り出せる兵力が少ないからこそ、相手の意表を突く必要があるのだ! 波がなんだ。風がどうした? そんなもの、必勝の信念で乗り出せば、必ず四国まで到達できる!」
景時は、何と度し難い若君じゃ、と心中苦虫を噛みつぶしながらも、なお根気よく説得を続けた。
「御大将が、そんな猪武者同然にただ突っかかるばかりでいてどうなさる。突くときは突き、退くときは退く。その呼吸を心得てこそ大将軍と言えるのですぞ。それも判らぬでは、いつか必ず命を落としましょうぞ」
「義経の戦に退くという言葉はない! 戦というものは、ただ平攻めに攻め勝ってこそ気持ちのいいものじゃ! それに、我が命は既に兄者たる鎌倉殿に預け奉っているのだから、今更あえて顧慮する必要もない。それとも景時は命が惜しいか? この期に及んで、命を的にする事が怖くなったのかこの臆病者!」
この一言には、さすがに根気よく相手をしていた景時も顔色を変えた。
「この景時を、臆病者だと?」
「ああそうじゃ! 風が強いの波が高いのとぐずぐず言い訳してこの絶好の好機を棒に振るなど、臆病者でなくて誰がなしえようぞ!」
思わず景時は、自分の右手が太刀に伸びそうになるのを懸命に堪えた。ここでこの若造を斬りつけるのは簡単だが、自分には鎌倉殿より申しつけられた大事な務めがある。景時は全身の筋肉を硬直させて心中荒れ狂う衝動を抑え付けると、今にも暴発しそうな後ろの若者達をきっと睨み付け、やっとの思いで口調を整えた。
その内にも景時は、あくまで口調を抑え、また同じ事を義経に繰り返していた。
「御大将は出陣なさると言うが、我らが舟は昨日来の風で大方壊れ、修理なくしてはまともに海に浮かぶことすらかなわぬ。それにこの風、この波をどうなさる? とても櫂はこげぬし、帆を張ればたちまち水を含んで舟をひっくり返すに決まっている。今それ程に急がずとも、範頼君と呼吸を合わせて堂々と西下なされば、平氏の残りかすなど掌の間に挟んだ卵も同然、ただ一揉みに揉み潰せよう。それが判っていて何故にそうも無理をなさる」
対する義経も、強硬な態度で自説を繰り返した。
「この風、この波で平氏の一党は絶対に源氏は出て来るまい、と油断しておるに決まっている。そこを突けばこそ、勝利は容易う手に入るのじゃ」
「そこを突く、と御大将は申すが、舟もなく波風も凌げずどう突くとおっしゃる」
「舟はある! 修理を急げば五艘でも一〇艘でも出せる舟はあるはずじゃ! それに、わしとて逆風に逆らって漕ぎ出せと言うほどおこではない。幸い今の風は追い風じゃ。これなら幾らでも凌ぎようがあろう」
「たった五艘や一〇艘でどれほどの兵が送れようか。せいぜい三〇〇騎を過ぎまいに。平氏は屋島に数千騎を集めているのですぞ。それにここは淀の河口で海からは一段も二段も奥まった所にある。その奥でさえ舟をこぼつ程に大風が吹きすさんでおる。外海へ出れば、波も風もこんなものではなかろう。それを凌いで無事四国までたどり着くなど到底不可能だというのが判らぬのか」
「判らんのは景時の方じゃ。送り出せる兵力が少ないからこそ、相手の意表を突く必要があるのだ! 波がなんだ。風がどうした? そんなもの、必勝の信念で乗り出せば、必ず四国まで到達できる!」
景時は、何と度し難い若君じゃ、と心中苦虫を噛みつぶしながらも、なお根気よく説得を続けた。
「御大将が、そんな猪武者同然にただ突っかかるばかりでいてどうなさる。突くときは突き、退くときは退く。その呼吸を心得てこそ大将軍と言えるのですぞ。それも判らぬでは、いつか必ず命を落としましょうぞ」
「義経の戦に退くという言葉はない! 戦というものは、ただ平攻めに攻め勝ってこそ気持ちのいいものじゃ! それに、我が命は既に兄者たる鎌倉殿に預け奉っているのだから、今更あえて顧慮する必要もない。それとも景時は命が惜しいか? この期に及んで、命を的にする事が怖くなったのかこの臆病者!」
この一言には、さすがに根気よく相手をしていた景時も顔色を変えた。
「この景時を、臆病者だと?」
「ああそうじゃ! 風が強いの波が高いのとぐずぐず言い訳してこの絶好の好機を棒に振るなど、臆病者でなくて誰がなしえようぞ!」
思わず景時は、自分の右手が太刀に伸びそうになるのを懸命に堪えた。ここでこの若造を斬りつけるのは簡単だが、自分には鎌倉殿より申しつけられた大事な務めがある。景時は全身の筋肉を硬直させて心中荒れ狂う衝動を抑え付けると、今にも暴発しそうな後ろの若者達をきっと睨み付け、やっとの思いで口調を整えた。
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