多分そうなるだろうな、と昨夜の段階で予測はしていたのですが、目が覚めると外は一面銀世界に変貌しておりました。目覚まし代わりになったのが、道行く自動車の走行音。なにやらべしゃべしゃと水溜りの中を走るような音がしていたので、ひょっとしたら途中で雨になったのかな? と一瞬だけ思いましたけど、結局アスファルト上だけ水気の多いシャーベットになっていただけで、駐車場や車の上はしっかりと雪が積もっておりました。推定される積雪量はおよそ3~4センチほど。でも、職場のある山のほうは10センチ以上にもなっていて、思わず、「雪の進軍」を歌いながら新雪に足跡をつける、というおバカな行為にふけったりしてしまいました。
ところで明日からは2日間、中国路を仕事しに回るのですが、岡山も広島も明日明後日とも雪の予報が出ているのがちと厄介です。以前にも雪で交通が麻痺して難儀したことがある方面ですので、できれば無事つつがなく胃って帰ってこられたら、と祈らずにはいられません。
さて、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が、『スピリチュアルカウンセリング』に警鐘を鳴らす内容の意見を公表しました。夏にあったフジテレビ系の27時間テレビなる番組の中のコーナーで行われた内容について、放送倫理違反があったとした上で、「面白さを求めて『スピリチュアルカウンセリング』をPRするような構成・演出は避けるべきだ」というコメントを付したそうです。
フジテレビには、3カ月以内に改善策などの提出を求めているとのことですので、何らかの報告がまた改めて出ることでしょう。
昨日の「たかじんのそこまで言って委員会」でも取り上げられておりましたが、テレビ局も「スピリチュアルカウンセラー」なる方も、自分達が霊感商法の片棒を担いでいる、という状況をもっと真摯に考えるべきです。拠るべき宗教を持たず、日々不安にさいなまれる現代日本人にとって、カウンセリングそのものには、それなりの存在意義もあるのだろうことは理解できますが、なぜにそれを行うに際して、「スピリチュアル」なる冠をつけてやる必要があるのでしょう。人生相談ならもっとほかにやりようがありそうなものなのに、安易に霊的な世界を持ち出すのは人心を惑わすばかりのように思います。
私は霊的なものを否定はしません。むしろ、そういう世界が是非現実にあって欲しいと願いますし、それを客観的に解析し、理解できるような科学的体系化が、いつの日か必ずできる、と信じています。また、自分で日々易を立て、占いを日常生活に必須のものとして暮らしておりますが、一方でそれらを無批判に妄信することのないよう、自らを戒めるようにしています。あくまで占いは意思決定のための一つの道具であり、その文言は判断を下す上でのアドバイスに過ぎません。意思決定する主体はあくまで私にあり、占いの結果を妄信して思考停止状態になってはいけないことを、常に自分に問いかける必要があるのです。そういう態度を保持している限りにおいて、易は無上の益を私の人生に与えてくれますが、それを忘れた途端、手痛いしっぺ返しをくらいます。
今のスピリチュアル系番組や霊感商法の類に、そんな個人の主体性は存在するのでしょうか。わらをもつかみたいくらいの悩みに苛まれているときこそ、自身の拠って立つ確とした己の存在を意識できるような人間を作る教育が、今こそ求められているのかもしれません。
ところで明日からは2日間、中国路を仕事しに回るのですが、岡山も広島も明日明後日とも雪の予報が出ているのがちと厄介です。以前にも雪で交通が麻痺して難儀したことがある方面ですので、できれば無事つつがなく胃って帰ってこられたら、と祈らずにはいられません。
さて、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が、『スピリチュアルカウンセリング』に警鐘を鳴らす内容の意見を公表しました。夏にあったフジテレビ系の27時間テレビなる番組の中のコーナーで行われた内容について、放送倫理違反があったとした上で、「面白さを求めて『スピリチュアルカウンセリング』をPRするような構成・演出は避けるべきだ」というコメントを付したそうです。
フジテレビには、3カ月以内に改善策などの提出を求めているとのことですので、何らかの報告がまた改めて出ることでしょう。
昨日の「たかじんのそこまで言って委員会」でも取り上げられておりましたが、テレビ局も「スピリチュアルカウンセラー」なる方も、自分達が霊感商法の片棒を担いでいる、という状況をもっと真摯に考えるべきです。拠るべき宗教を持たず、日々不安にさいなまれる現代日本人にとって、カウンセリングそのものには、それなりの存在意義もあるのだろうことは理解できますが、なぜにそれを行うに際して、「スピリチュアル」なる冠をつけてやる必要があるのでしょう。人生相談ならもっとほかにやりようがありそうなものなのに、安易に霊的な世界を持ち出すのは人心を惑わすばかりのように思います。
私は霊的なものを否定はしません。むしろ、そういう世界が是非現実にあって欲しいと願いますし、それを客観的に解析し、理解できるような科学的体系化が、いつの日か必ずできる、と信じています。また、自分で日々易を立て、占いを日常生活に必須のものとして暮らしておりますが、一方でそれらを無批判に妄信することのないよう、自らを戒めるようにしています。あくまで占いは意思決定のための一つの道具であり、その文言は判断を下す上でのアドバイスに過ぎません。意思決定する主体はあくまで私にあり、占いの結果を妄信して思考停止状態になってはいけないことを、常に自分に問いかける必要があるのです。そういう態度を保持している限りにおいて、易は無上の益を私の人生に与えてくれますが、それを忘れた途端、手痛いしっぺ返しをくらいます。
今のスピリチュアル系番組や霊感商法の類に、そんな個人の主体性は存在するのでしょうか。わらをもつかみたいくらいの悩みに苛まれているときこそ、自身の拠って立つ確とした己の存在を意識できるような人間を作る教育が、今こそ求められているのかもしれません。
