(続きです)
◎疑問点14:
1号機の直流電源喪失が早かったのはどうしてか?
津波で電源喪失後、バッテリーさえもが使用不可となってしまい、計器類はもちろん照明も落ちた、ということだったはず。事故の数か月後に作られたNHKの再現ドラマでもそれに基づいて真っ暗とされていた。だが、それは本当だったのだろうか?
まず、中央制御室の構造として、1号機と2号機は同一の部屋となっていたようであり、大部屋を左右に分けるような形で1号機側と2号機側があったようである。そうすると、2号機が照明アリの場合、1号機の方にも灯りはもれるはずで、部屋の遠くの角付近は暗いかもしれないが、操作盤あたりが全く見えないということはなかったのでは?
ただ、バッテリー節約の為に、照明をカットしていたかもしれないので、それなら1号機も2号機も暗闇で操作せねばならなかっただろうけど。けれども、津波が到来した途端に非常用D/Gが止まって発電できなくなり、いきなり一般家庭の停電時みたいに真っ暗になるというのは、本当なのだろうか、と疑問に思える。
少なくとも、2号機においてはRCICが何日か動いていたわけで、RCICの機能は直流電源の存在下でなければ維持できないことは確実だ。すなわち、2号機の直流電源は生きていた、ということ。
ここで新たな疑問が生じる。
2号機のバッテリーはどこにあったか?
C/B(コントロール)建屋の地下1階に設置されていたのである。コントロール建屋というのは、原子炉建屋とタービン建屋の間にある、中央制御室の入った別棟の建物なのだ。人の出入りについて、放射線量の管理上もあって、厳しい制限があるのはもちろん、保安上でも侵入防止から簡単な構造ではないであろう。その建物の地下に設置されていた、ということだ。
では、1号機のバッテリーはどこにあったのか?
中央制御室は1、2号機は同一で、同一建物内にあったわけだが、1号機バッテリーもやはりC/B建屋地下にあった。同じような条件だが、2号機バッテリーは数日使えていて、1号機だけは津波直後にダメになったと?
それは、どうしてなのか?
説明としておかしいのではないか?
水の浸入条件が同じで、同一建物の地下の別の部屋か別の場所にあったというだけのバッテリーは、それほど水に対する条件が異なる理由とは何か?
C/B建屋に大量に水が簡単に流れ込み、電機機器だのバッテリーだのが簡単に水没する構造ということなら、どうやって放射性物質の管理をできるというか。厳重な何重かになっているであろう水密扉を超えて、地階のバッテリー室まで水が1mほどまで浸かるというのは、本当なのか?
◎疑問点15:
重油タンクが津波で流されたことと電源喪失とは無関係では?
当初、よく言われていたのが、燃料の入っているタンクが流されてしまって、非常用の発電機は使えなくなったんだ、というような説明だった。たしかに映像で津波被害が分かり易いのだが、あれは重油タンクということだったのだ。
つまり、重油だから、暖房やボイラー設備の燃料ということであって、非常用ディーゼル発電機の燃料ではなかった、ということ。
D/Gは、燃料が軽油だから。
なのに、燃料タンクが流された=発電機が使えなくなった、というプロパガンダに利用されていた。
当時は、あまりの衝撃にオイルタンクが流されて使えない、と言われたら、何の疑問も抱かずに「そうだろうな」と思っていたのだが、こんな簡単な事実(だって、自動車のエンジンでは常識だ)をどうしてこれまで気付かなかったか、自分でも笑ってしまうくらいだよ。
現実には、D/Gの燃料は流されていないし、燃料がなくなったわけでもなかった(小規模タンクがあって8時間程度は燃焼できる、建物の外部タンクにはさらに1週間分くらいは常備されている)、ということ。なので、燃料がない、という言い訳は使えなくなった。
残された理由というのが、発電機が水没した、か、メタクラ(M/C)だの、パワーセンター(P/C)だのといった設備が水没したからだ、というものだった。当初に言っていたことと、若干違うということだな。直流電源が使えるけど、それら設備は使えない、と?
因みに、直流電源喪失の通報は、なかったように記憶している。3号機もHPCIが使えていたことは確実なので、バッテリーは残存していた。津波で全部が一気にダメになった、というのは疑問だ。
◎疑問点16:
ICが機能しているか、確認手段はなかったのか?
11日夕方(18時過ぎ)頃、偶然にも1号機の電源が一時的に回復した際、ICの弁の開閉を操作した、ということがあったでしょう?
その際、建物の外に排出される「蒸気」が上がっているかどうかで、確認した、ということだった(21時過ぎの時点でもあったか?)。
だが、ICには、弁の開度計が設置されていた。原子炉建屋の4階に行けば、開度計でどの程度弁が開いているのか、分かったはずだ。
内弁の1Aや4Aについて分かったかどうかは不明ではあるものの、少なくとも外弁は判定ができただろう。
また、ICには水位計が設置されており、残量も目視で確認できたのでは?
4階から3階にかけては、ICで蒸気から水に戻された水を圧力容器に戻す配管があったはずだ。それは「凝集水戻り配管」であり、もしもICが機能している場合には、その配管温度はかなりの高温になっていたはずだ。少し手を触れてみれば、簡単に分かるだろう。伝導熱だけだと、そう簡単には100℃以上にまでならないだろう。ICが動いており、戻される熱湯が流れていれば、150~200℃くらいの熱湯である可能性が高いので、配管の表面温度は相当熱いはずだ。
少なくとも、津波後、原子炉建屋4階まで上がってみれば、ICの動作は確認できた。不運にも1号機の直流電源が落ちていたとしても、だ。
もしも1、2号機間では、本来融通できたであろう電力のうち、480V交流電源が使えて、CVCFの残量があったのであれば、早期に1号機のIC内側弁(1、4-A/B)の開弁操作を実行し、トリップ信号(差圧300%)は「手動で切」にしておくことができたなら、ICは維持できた可能性があるのではないか。
ICへの補給水は、消火系からでも復水補給水系からでも、補給が可能だった。
何故なら、圧力容器内やメルトダウン後の高圧となった格納容器内への注水(高圧をまず下げないと注水できないから)よりも、ずっと簡単だったはずだから、である。途中の開弁操作も、比較にならないくらいに、ICへの給水の方が簡単だから、である。
津波被害後、電源が落ちたのなら、直流が使えるかどうか、冷却機能は何が残っているのか、確認するしかなかったであろうに、ICの弁開度計の数値や水位計の数値を目視で確認しなかったことがどうしてなのか疑問だ。
格納容器圧力が高圧になる以前なら、消火系ディーゼルポンプが動いていたのだから、そこから格納容器内へ注水(勿論、ICの冷却水にも)することだってできたであろうに、給水ラインがなかったことが致命的となった。
◎疑問点14:
1号機の直流電源喪失が早かったのはどうしてか?
津波で電源喪失後、バッテリーさえもが使用不可となってしまい、計器類はもちろん照明も落ちた、ということだったはず。事故の数か月後に作られたNHKの再現ドラマでもそれに基づいて真っ暗とされていた。だが、それは本当だったのだろうか?
まず、中央制御室の構造として、1号機と2号機は同一の部屋となっていたようであり、大部屋を左右に分けるような形で1号機側と2号機側があったようである。そうすると、2号機が照明アリの場合、1号機の方にも灯りはもれるはずで、部屋の遠くの角付近は暗いかもしれないが、操作盤あたりが全く見えないということはなかったのでは?
ただ、バッテリー節約の為に、照明をカットしていたかもしれないので、それなら1号機も2号機も暗闇で操作せねばならなかっただろうけど。けれども、津波が到来した途端に非常用D/Gが止まって発電できなくなり、いきなり一般家庭の停電時みたいに真っ暗になるというのは、本当なのだろうか、と疑問に思える。
少なくとも、2号機においてはRCICが何日か動いていたわけで、RCICの機能は直流電源の存在下でなければ維持できないことは確実だ。すなわち、2号機の直流電源は生きていた、ということ。
ここで新たな疑問が生じる。
2号機のバッテリーはどこにあったか?
C/B(コントロール)建屋の地下1階に設置されていたのである。コントロール建屋というのは、原子炉建屋とタービン建屋の間にある、中央制御室の入った別棟の建物なのだ。人の出入りについて、放射線量の管理上もあって、厳しい制限があるのはもちろん、保安上でも侵入防止から簡単な構造ではないであろう。その建物の地下に設置されていた、ということだ。
では、1号機のバッテリーはどこにあったのか?
中央制御室は1、2号機は同一で、同一建物内にあったわけだが、1号機バッテリーもやはりC/B建屋地下にあった。同じような条件だが、2号機バッテリーは数日使えていて、1号機だけは津波直後にダメになったと?
それは、どうしてなのか?
説明としておかしいのではないか?
水の浸入条件が同じで、同一建物の地下の別の部屋か別の場所にあったというだけのバッテリーは、それほど水に対する条件が異なる理由とは何か?
C/B建屋に大量に水が簡単に流れ込み、電機機器だのバッテリーだのが簡単に水没する構造ということなら、どうやって放射性物質の管理をできるというか。厳重な何重かになっているであろう水密扉を超えて、地階のバッテリー室まで水が1mほどまで浸かるというのは、本当なのか?
◎疑問点15:
重油タンクが津波で流されたことと電源喪失とは無関係では?
当初、よく言われていたのが、燃料の入っているタンクが流されてしまって、非常用の発電機は使えなくなったんだ、というような説明だった。たしかに映像で津波被害が分かり易いのだが、あれは重油タンクということだったのだ。
つまり、重油だから、暖房やボイラー設備の燃料ということであって、非常用ディーゼル発電機の燃料ではなかった、ということ。
D/Gは、燃料が軽油だから。
なのに、燃料タンクが流された=発電機が使えなくなった、というプロパガンダに利用されていた。
当時は、あまりの衝撃にオイルタンクが流されて使えない、と言われたら、何の疑問も抱かずに「そうだろうな」と思っていたのだが、こんな簡単な事実(だって、自動車のエンジンでは常識だ)をどうしてこれまで気付かなかったか、自分でも笑ってしまうくらいだよ。
現実には、D/Gの燃料は流されていないし、燃料がなくなったわけでもなかった(小規模タンクがあって8時間程度は燃焼できる、建物の外部タンクにはさらに1週間分くらいは常備されている)、ということ。なので、燃料がない、という言い訳は使えなくなった。
残された理由というのが、発電機が水没した、か、メタクラ(M/C)だの、パワーセンター(P/C)だのといった設備が水没したからだ、というものだった。当初に言っていたことと、若干違うということだな。直流電源が使えるけど、それら設備は使えない、と?
因みに、直流電源喪失の通報は、なかったように記憶している。3号機もHPCIが使えていたことは確実なので、バッテリーは残存していた。津波で全部が一気にダメになった、というのは疑問だ。
◎疑問点16:
ICが機能しているか、確認手段はなかったのか?
11日夕方(18時過ぎ)頃、偶然にも1号機の電源が一時的に回復した際、ICの弁の開閉を操作した、ということがあったでしょう?
その際、建物の外に排出される「蒸気」が上がっているかどうかで、確認した、ということだった(21時過ぎの時点でもあったか?)。
だが、ICには、弁の開度計が設置されていた。原子炉建屋の4階に行けば、開度計でどの程度弁が開いているのか、分かったはずだ。
内弁の1Aや4Aについて分かったかどうかは不明ではあるものの、少なくとも外弁は判定ができただろう。
また、ICには水位計が設置されており、残量も目視で確認できたのでは?
4階から3階にかけては、ICで蒸気から水に戻された水を圧力容器に戻す配管があったはずだ。それは「凝集水戻り配管」であり、もしもICが機能している場合には、その配管温度はかなりの高温になっていたはずだ。少し手を触れてみれば、簡単に分かるだろう。伝導熱だけだと、そう簡単には100℃以上にまでならないだろう。ICが動いており、戻される熱湯が流れていれば、150~200℃くらいの熱湯である可能性が高いので、配管の表面温度は相当熱いはずだ。
少なくとも、津波後、原子炉建屋4階まで上がってみれば、ICの動作は確認できた。不運にも1号機の直流電源が落ちていたとしても、だ。
もしも1、2号機間では、本来融通できたであろう電力のうち、480V交流電源が使えて、CVCFの残量があったのであれば、早期に1号機のIC内側弁(1、4-A/B)の開弁操作を実行し、トリップ信号(差圧300%)は「手動で切」にしておくことができたなら、ICは維持できた可能性があるのではないか。
ICへの補給水は、消火系からでも復水補給水系からでも、補給が可能だった。
何故なら、圧力容器内やメルトダウン後の高圧となった格納容器内への注水(高圧をまず下げないと注水できないから)よりも、ずっと簡単だったはずだから、である。途中の開弁操作も、比較にならないくらいに、ICへの給水の方が簡単だから、である。
津波被害後、電源が落ちたのなら、直流が使えるかどうか、冷却機能は何が残っているのか、確認するしかなかったであろうに、ICの弁開度計の数値や水位計の数値を目視で確認しなかったことがどうしてなのか疑問だ。
格納容器圧力が高圧になる以前なら、消火系ディーゼルポンプが動いていたのだから、そこから格納容器内へ注水(勿論、ICの冷却水にも)することだってできたであろうに、給水ラインがなかったことが致命的となった。