ISOな日々の合間に

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2006年03月17日 | お楽しみ
「ハンニバル戦記(下)」の帯には次のようにある。
「一時はローマの喉元に迫る勢いを見せたカルタゴの将軍ハンニバルだったが、ローマの知将スキピオのスペイン攻略に恐れをなした本国から帰還命令を受ける。それを追うスキピオ。決戦の機運が高まる中、ハンニバルからの会談の提案が、スキピオの元に届けられた―― 一世紀以上にわたる「ポエニ戦役」も最終局面に突入。地中海の覇権の行方は? そして二人の好敵手の運命は?」

そして、これに関連して本文中では、
「帰国命令を受けた四十四歳のカルタゴの武将は、神殿の祭壇の壁一面に、文字を刻んだ銅板をはめこむことを命じた。銅板には、スペインを後にしてから以後の、ハンニバルの戦果のすべてが記された。この銅板は中央で二分され、一方にはカルタゴの言語であるフェニキア語で、他の一方にはギリシア語で、同じ内容の文が併記されていたという。」

そして、次のように続く、
「ナポレオンのエジプト遠征に随行した学者が発見した、通称『ロゼッタ・ストーン』は、同じ内容の文を、エジプトの象形文字とエジプトの民用文字と、それにギリシア語で併記されてあったために、古代エジプトの象形文字の解読につながったことで有名である。この 「ロゼッタ・ストーン」は、紀元前一九六年の制作とわかっている。ハンニバルが、フェニキア語とギリシア語の併記で自らの戦績を世に残そうとしたのは、前二〇三年のことである。両者の間には、七年の時間的差しかない。『ロゼッタ・ストーン』に文字を刻ませた人は、後世の象形文字の解読に役立つようにと、ギリシア語の併記を加えさせたのではない。私には、当時のギリシア語は、現代の英語に該当したのではなかったかと思えてならない。」

この頃(前208-206年)、中国では劉邦(のちの高祖)によって漢王朝が成立している。
しかし、日本ではまだ弥生時代。たとえ、どのような英傑がいたにしろ、絶世の美女にまつわるロマンがあったにしろ、文字を持たなかったために何も残っていない。

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