電脳筆写『 心超臨界 』

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永遠に生きるものとして学べ
( マハトマ・ガンジー )

活眼 活学 《 淡こそ味の極致——安岡正篤 》

2024-08-08 | 03-自己・信念・努力
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淡というのは、そんなあっさりした味気ないという意味ではない。味の極致を淡という。甘いとか酸っぱいとかいうことを通り越して、何とも言えない味という。老子はこれを無の味と言うておるのです。それを淡という。何とも言えない、強いて言えば無の味、それは何だと言えば、実在するものでは結局水だ。万物は水から出たことは御承知の通りだ。人間の身体も八割は水だ。だから結局死ぬ時には、水が足らなくなるから、水ということになるんで、結局水が一番うまい。


『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p153 )
[3] 座右銘選話
1 行動の原理

◆淡こそ味の極致

  曖々内含光  *曖(あい)々として内に光を含め
          *太陽が浮雲を透して明るいように、内に徳を含め。
  柔弱生之徒  柔弱は生の徒なり
  老氏誡剛彊  老氏は剛彊を戒む

柔弱は生の徒なり。これは『老子』に最もよく出てくる。柔の剛に勝つとか、弱の強に勝つとか、人、生まれるや柔弱、その死するや堅強。万物草木の生くるや柔弱。その死するや枯槁。そういうことがよく『老子』に書かれておる。老子は柔弱、つまり硬化しない、素直で弾力的な自然的生命の代表として水を挙げておる。老子は水の讃美者です。「上善は水の若(ごと)し」。善の上なるものは水だ。最もうまいものも水だと古人も言うておる。

「淡として水の如し」なるほどそう言われれば、死にがけに酒を持ってこいとか、コーヒーが欲しいとか言う者はない。水、水と言う。やっぱりこれが一番うまいのだろう。『荘子』に「君子の交(まじわり)は淡として水の若(ごと)し」という名高い言葉がある。ある弟子が先生に、「それじゃ、君子の交なんてつまらんじゃありませんか。即ち何だか味がなくて、そうして水みたいだというんでは面白くないじゃありませんか」と言われて、先生が答えられなかったという話もあるが、これは淡とか水とかいうことの意味が分からんからであります。

淡というのは、そんなあっさりした味気ないという意味ではない。味の極致を淡という。甘いとか酸っぱいとかいうことを通り越して、何とも言えない味という。老子はこれを無の味と言うておるのです。それを淡という。何とも言えない、強いて言えば無の味、それは何だと言えば、実在するものでは結局水だ。万物は水から出たことは御承知の通りだ。人間の身体も八割は水だ。だから結局死ぬ時には、水が足らなくなるから、水ということになるんで、結局水が一番うまい。

その一番うまい水を汚染してしまう公害というものは、しかもそれが近代文明の害だというのだから、文明は今や明にあらずして、めいはめいでも迷であり、やがては冥土の冥となる。恐ろしいことになってきた。

私はいつか「師と友」に緑陰茶話というものを書いて、茶の説明をしたことがある。煎茶というのは三煎する。その第一煎で、良い茶の芽、それへ湯加減をよくして注ぐと最初に茶の中に含まれておる甘味が出てくる。その次にはタンニンの渋味を味わう。それから三煎して、カフェインの苦味を味わう。甘味、渋味、それから何とも言えない苦味、その上がつまり無の味、淡の味である。これを湯加減して味わい分けるのが茶の趣味、茶道である。

人間も甘いというのはまだ初歩の味です。あいつは甘い奴だという。これはまだ若い、初歩だ。だいぶ苦味が出てきたというのは、苦労して本当の味が出てきた。だから人間が大人になってくると、だいたい甘い物は好まなくなる。甘い物が好きなんていうのは、これはあまりできておらぬ。苦言、苦味を愛するようになる。そうなってくると何でも渋くなって、それから苦を愛し、淡を愛し、無という境地になる。

結局そういう意味で、柔弱というのは、生の純なる姿である。硬(こわ)ばるというのは折れ易い。人間、子供の時には体は柔軟だ。弱もやわらかいという字だ。年を取ってくるにつれて硬ばってくる。それはいけないんで、いつでも柔軟なところがなければならない。これが生の徒であると老子が戒めておる。剛彊、これは質実剛健というような意味ではない。硬化するという意味です。

  行々鄙夫志  行々たる鄙夫の志

行々というのは、つまり一本調子で変化を知らない、柔軟な変化自在という創造力、生みの力のない、硬ばった、融通のきかない、拘泥するところの多い姿をいう。つまらん人間は、どうもぎくしゃくして、真理が分からぬ。

  悠々故難量  悠々として故(まこと)に量り難し

悠々というのは大抵善い場合に使うのだが、この悠々には二つある。善い意味の悠々と、悪い意味の悠々。悪い意味の悠々というのはわけ分からずに空しく存在し、空しく過ごす。そういう正反対の意味、これは悪い方の意味です。何のために生きておるんだか、何を考えて生きておるんだか、まことに分からぬ。それではいけない。

  愼言節飲食  言を慎み飲食を節し
  知足勝不祥  足るを知って不祥に勝て

足るを知っては、足を知ってと読んでもよい。人間は足が大切だ。このごろの医学・医術は非常に足を重んずるようになった。足を治さぬというと病気は治らぬという研究が大変発達してきました。また現実の治療界にも、足を診たらその人のどこが悪いということが分かるというような名人が出てきた。東京の板橋に柴田という足を治す大家がおる。この人は、人間の足の指を見たら大体その人の健康内容が分かる。足の治療をして大抵の病気は治す。その意味では、足るを知ってという読み方ももちろん普通であるが、足を知って不祥に勝てという読み方も決して間違いではない。というどころではない、非常に面白い。

  行之苟有恆  之を行うて苟(もし)恒あらば

もしは苟(いや)しくでもよいが、もしでよい。恒というは不変の真理だ。変わらざる人間の節操、徳だ。之を行うて恒あらば、変わらないなら。

  久々自芬芳  久々、自(おのずか)ら芬芳ならん

おのずから香り高い、心の香り、人間の香りが高くなるであろう。
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