【このブログはメルマガ「こころは超臨界」の資料編として機能しています】
近藤芳美と私――歌人・岡井隆
【「私の履歴書(16)」08.10.16日経新聞(夕刊)】
近藤芳美は、私の師であるが、「先生という呼び方はしてはならない」というのが近藤の口ぐせであった。事実わたしたちは近藤さんと呼んだ。これなども、戦前以来の師弟関係の陋習は、短歌が真の文学として生きのこるためには邪魔になるので打破すべきだという考えによっていた。
近藤は、従来「世をあげし思想の中にまもり来て今こそ戦争を憎む心よ」のような反戦歌によって評価されがちだが、わたしの受容は最初から全くちがっていた。旧制高校のとき、戦後復刻された「アララギ」にのる近藤の作品に惹(ひ)かれて、古い「アララギ」を昭和初年まで調べて、近藤芳美の歌を探して写し、岡井隆版写本「近藤芳美歌集」をつくった。まだ近藤の歌集『早春歌』『埃吹く町』(共に1948年刊)が出る前であった。それほど熱中したのだが、わたしの好きだったのは、「降り過ぎて又くもる街透きとおほる硝子の坂を負ひて歩めり」とか「枯草の夕日に立てり子を産まぬ体の線の何かさびしく」といった鋭い写実の歌、とくに建築技師として清水組の職場で働いているときの仕事の歌であった。わたしは近藤が東京工業大建築家出身のエンジニアであって「科学の教養に立つわれ」といった自己認識をもっていることをたのもしく思い、一人の先達をみる思いだった。
それと同時に、近藤は、第二芸術論がいつでも槍玉にあげていた歌人の社会意識の低さ、思想性のなさに対して、自らの歌をもって答えようとしていた。当時米軍の占領下にあった日本の現実を近藤は捉(とら)えて歌った。羽田飛行場その他で、米軍の技術者たちと一しょに工事現場で働いていた近藤は、そうした現実の中から、当時置かれていた占領下日本人の心理を歌った。あの当時の文学として、近藤のように的確にリアルにオキュパイド・ジャパン(占領下の日本)を表現しえた人が、ほかにそんなに多くいたとは思えない。短歌はまことにかすかなちいさな文芸であるが、その不利を逆用して今度は、社会批判の武器とした。
近藤は、杉浦明平とちがって、政党には属せず(当時多くの文化人や作家たちが日本共産党に入党したのであった)おもて立って政治活動をしなかったから、時として観察者(これも当時はやった批判用語)とよばれたが、近藤は、その態度をかえなかった。
わたしは医学生の学生だったとき、下町の診療所に手伝いに行ったりして、共産党員たちに接して政治運動のとば口に立ったことがあったが、あれは、ある意味で、近藤という師匠をのりこえようと思ったからでもあったろう。わたしも結局は入党することなく、就職と共に、次第に考えも行動も、変わって行き近藤さんと同じことになってしまった。60年安保闘争で世が湧(わ)き立っていたころ、わたしは、学位論文のための研究に集中していて、一人の傍観者であった。
じりじりとデモ隊のなか遡行するバスに居りたり酸き孤独噛み
旗は紅き小林(おばやし)なして移れども帰りてをゆかな病むものの辺(べ)に
はそのころのわたしの歌で、病院勤務の医師としては「病むものの」そばに帰って行く外なかったのだ。この歌を読んで近藤が「君もぼくと同じだね」といって笑ったのを覚えている。
【 これらの記事を発想の起点にしてメルマガを発行しています 】
近藤芳美と私――歌人・岡井隆
【「私の履歴書(16)」08.10.16日経新聞(夕刊)】
近藤芳美は、私の師であるが、「先生という呼び方はしてはならない」というのが近藤の口ぐせであった。事実わたしたちは近藤さんと呼んだ。これなども、戦前以来の師弟関係の陋習は、短歌が真の文学として生きのこるためには邪魔になるので打破すべきだという考えによっていた。
近藤は、従来「世をあげし思想の中にまもり来て今こそ戦争を憎む心よ」のような反戦歌によって評価されがちだが、わたしの受容は最初から全くちがっていた。旧制高校のとき、戦後復刻された「アララギ」にのる近藤の作品に惹(ひ)かれて、古い「アララギ」を昭和初年まで調べて、近藤芳美の歌を探して写し、岡井隆版写本「近藤芳美歌集」をつくった。まだ近藤の歌集『早春歌』『埃吹く町』(共に1948年刊)が出る前であった。それほど熱中したのだが、わたしの好きだったのは、「降り過ぎて又くもる街透きとおほる硝子の坂を負ひて歩めり」とか「枯草の夕日に立てり子を産まぬ体の線の何かさびしく」といった鋭い写実の歌、とくに建築技師として清水組の職場で働いているときの仕事の歌であった。わたしは近藤が東京工業大建築家出身のエンジニアであって「科学の教養に立つわれ」といった自己認識をもっていることをたのもしく思い、一人の先達をみる思いだった。
それと同時に、近藤は、第二芸術論がいつでも槍玉にあげていた歌人の社会意識の低さ、思想性のなさに対して、自らの歌をもって答えようとしていた。当時米軍の占領下にあった日本の現実を近藤は捉(とら)えて歌った。羽田飛行場その他で、米軍の技術者たちと一しょに工事現場で働いていた近藤は、そうした現実の中から、当時置かれていた占領下日本人の心理を歌った。あの当時の文学として、近藤のように的確にリアルにオキュパイド・ジャパン(占領下の日本)を表現しえた人が、ほかにそんなに多くいたとは思えない。短歌はまことにかすかなちいさな文芸であるが、その不利を逆用して今度は、社会批判の武器とした。
近藤は、杉浦明平とちがって、政党には属せず(当時多くの文化人や作家たちが日本共産党に入党したのであった)おもて立って政治活動をしなかったから、時として観察者(これも当時はやった批判用語)とよばれたが、近藤は、その態度をかえなかった。
わたしは医学生の学生だったとき、下町の診療所に手伝いに行ったりして、共産党員たちに接して政治運動のとば口に立ったことがあったが、あれは、ある意味で、近藤という師匠をのりこえようと思ったからでもあったろう。わたしも結局は入党することなく、就職と共に、次第に考えも行動も、変わって行き近藤さんと同じことになってしまった。60年安保闘争で世が湧(わ)き立っていたころ、わたしは、学位論文のための研究に集中していて、一人の傍観者であった。
じりじりとデモ隊のなか遡行するバスに居りたり酸き孤独噛み
旗は紅き小林(おばやし)なして移れども帰りてをゆかな病むものの辺(べ)に
はそのころのわたしの歌で、病院勤務の医師としては「病むものの」そばに帰って行く外なかったのだ。この歌を読んで近藤が「君もぼくと同じだね」といって笑ったのを覚えている。
【 これらの記事を発想の起点にしてメルマガを発行しています 】