電脳筆写『 心超臨界 』

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日本史 鎌倉編 《 南朝方を心服せしめる“妙案”とは――渡部昇一 》

2024-08-17 | 04-歴史・文化・社会
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伊勢は代々、北畠(きたばたけ)氏の根拠地であり、この北畠氏こそは頑強に南朝を支持し、しかも南朝に理論的正当性を与える歴史哲学を供給してきたのである。武力では圧倒的に優勢であったはずの尊氏や義詮(よしあきら)の時代に、何回も京都が南朝の手に落ちたのは、北畠親房(ちかふさ)の計略と正統論的自信によるところが多い。北畠氏と伊勢を心服せしめない限り、またどんな勢力がそれと結びつくか知れたものではないという危惧があった。そして北畠氏と伊勢を心服せしめるには、武力だけでは不十分であると義満は悟った。そして彼は突如、「伊勢神宮に参拝すればよい」という妙案を思いついたのだ。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p165 )
3章 室町幕府――日本的美意識の成立
――政治的天才・義満(よしみつ)と政治的孤立者・義政(よしまさ)
  の遺(のこ)したもの
(1) 政治的手段としての「カミ」と「ホトケ」

◆南朝方を心服せしめる“妙案”とは

義満は南北両朝を合一させたが、その後の方針を見ると、さすがに日本史の特質をよく洞察していたと思わざるをえない。

南朝と北朝の皇室を仲なおりさせても、多年、南朝の支持をしてきた勢力を悦服(えっぷく)させる(よろこんで従わせる)という大仕事が残っているのである。そしてこの勢力は、武力で簡単に片付く性質のものではないことを義満は知っていた。

武力だけの問題なら武家の頭梁として、義満は十分成功を収めていた。

たとえば彼が将軍になったとき、山名(やまな)一族は和泉(いずみ)・紀伊(きい)・隠岐(おき)・出雲(いずも)・美作(みまさか)・山城(やましろ)・丹波(たんば)・丹後(たんご)・伯耆(ほうき)・但馬(たじま)・因旛(いんば)の11ヵ国を領有していた。日本60余州の6分の1の支配者ということで、当時は山名を「六分一(ろくぶんのいち)殿」と呼んでいたくらいである。義満はこの強大な勢力を明徳(めいとく)2年(南朝暦では元中(げんちゅう)8、西暦1391)に首尾よく討伐した。その数年後には、さらに強大なる大内義弘(おおうちよしひろ)を征伐しているのである。

南朝の残党ごときは、武力の面からはこれに比べれば取るに足りないものである。しかし、南朝の勢力は、山名や大内とは別の原理を持っていた。つまり宗教がからんでいたのである。

そこで義満は何をやったか。彼は南北両朝が一緒になった次の年の明徳4年(1393)、伊勢神宮の参拝を行ったのである。

伊勢は代々、北畠(きたばたけ)氏の根拠地であり、この北畠氏こそは頑強に南朝を支持し、しかも南朝に理論的正当性を与える歴史哲学を供給してきたのである。武力では圧倒的に優勢であったはずの尊氏や義詮(よしあきら)の時代に、何回も京都が南朝の手に落ちたのは、北畠親房(ちかふさ)の計略と正統論的自信によるところが多い。北畠氏と伊勢を心服せしめない限り、またどんな勢力がそれと結びつくか知れたものではないという危惧があった。

そして北畠氏と伊勢を心服せしめるには、武力だけでは不十分であると義満は悟った。そして彼は突如、「伊勢神宮に参拝すればよい」という妙案を思いついたのだ。

義満は公卿や武将たちをことごとくひきつれ、威儀を正し、盛大に参拝したのである。単に参拝したのではなく、神宮やその関係者に莫大な寄付をしたらしいのだ。金閣寺を建てたほどの人物である。金を惜しみはしない。

伊勢神宮に詣でたうえに、巨額の寄付をした人物に対しては北畠氏も反対する理由はない。すっかり足利支持になってしまった。そして北畠親能(ちかよし)に対しては、物質的のみならず、義満は自分の名の一字を与えて満泰(みつやす)と名乗らしめたのである。伊勢はこれで治まった。

この成功は、明らかに義満に自信を与えたようである。伊勢と並んで南朝支持の強い大和(やまと)にも同じアプローチをした。伊勢の伊勢神宮に当たるのは、大和においては春日神社であり、東大寺であり、興福寺である。伊勢詣でをした翌年の応永(おうえい)元年(1394)、義満はこれらの神社や仏閣を巡拝して歩いた。そして、それぞれに対し莫大な寄付をしている。
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