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『日本史から見た日本人 昭和編』http://tinyurl.com/mzklt2z
【 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p384 】
3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
――なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場は逆転したのか
(1) 敗者の悲劇――「東京裁判」と「南京(ナンキン)大虐殺
3-1-2 暗殺者によって封じられた降伏論
日本の場合、玉砕(ぎょくさい)思想は、軍の首脳部が捕虜になることを否定する方針を採(と)ってきたことと、最も関係があると思われる。
昭和16年(1941)1月、第二次近衛(このえ)(文麿(ふみまろ))内閣の陸軍大臣であった東条英機(とうじょうひでき)は「戦陣訓(せんじんくん)」を出したが、これには「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」という一句があり、この点が、また特に強調された印象が残っている。
つまり、「日本軍人は捕虜になるな」ということであるから、それは文明国の慣習に反するし、明治以来の日本軍にも、その規定はなかった。ただ日清戦争の時、シナ軍に捕虜になった日本兵が、あまりにも残虐な殺され方をしていることが判明したので、「捕虜になるぐらいなら自決しろ」という指導があったが、それは陸軍全体の方針というわけでもなかった。
日露戦争の捕虜は、おたがいに相当出したが、それはあまり問題にならず、むしろロシアへの捕虜に対する優遇が目立つぐらいであった。
第一次大戦の時の山東(さんとう)半島で捕虜になったドイツ兵は、日本の温(あたた)かい待遇に感激し、帰国をしない者もあり、かえって草の根の国際交流となった。本場のソーセージ作りやベートーヴェンの第九番の合唱の流行など、その時のことと関係があるという話も残っているくらいである。
しかし、「戦陣訓」が捕虜になることを悪として全軍に布告したことは、はなはだ悪い影響を与えた。捕虜になることは軽蔑すべきものという通念を植えつけたからである。日本兵や日本人が今からみると、やらなくてもよい自決をしたのは、これによるところが多いし、敵の捕虜に対しても、日露戦争や第一次大戦のようでなかったのも、生活そのものの余裕がない状況だったこともさることながら、この教訓が心理的に大きく働いていたことには間違いない。
捕虜になることを禁じていた軍隊が降伏することは、自分たち自身が禁じられていた捕虜になることである。司令官クラスは自決することになろう。自決するぐらいなら、本土決戦をやろうという考え方が最後まで強かったのは、この理由からと思われる。
それに、統帥権干犯から始まった下克上(げこくじょう)の精神はいたるところに滲透していたから、上が降伏の命令を下(くだ)したとしても、それを無視する部隊が多く出てくることであろう。
また、降伏を画策する者を殺すことを正義と考える軍人が、いくらでもいた。平和であった昭和11年(1936)の2・26事件の時ですら、首相以下の政府首脳を殺そうという部隊がいたのだ。
相次ぐ敗北で捨(す)て鉢(ばち)になっていた軍隊には、降伏を策略する政府要人を殺すぐらいは朝飯前であった。鈴木貫太郎(すずきかんたろう)内閣が、原爆が落ちて周囲の状況が絶望的になった時も、最後まで聖戦貫徹という主戦論を唱(とな)え続けなければならなかった理由は、これにほかならなかった。首相が少しでも降伏のことを口に出せば、間違いなく殺されていただろう。
当時の日本人には、これは自明なことであったが、今では、その雰囲気を伝えることが、まことにむずかしい。
したがって、天皇の降伏の決断――聖断――が、いかにむずかしいことであったかも、理解しにくくなっている。
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――なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場は逆転したのか
(1) 敗者の悲劇――「東京裁判」と「南京(ナンキン)大虐殺
3-1-2 暗殺者によって封じられた降伏論
日本の場合、玉砕(ぎょくさい)思想は、軍の首脳部が捕虜になることを否定する方針を採(と)ってきたことと、最も関係があると思われる。
昭和16年(1941)1月、第二次近衛(このえ)(文麿(ふみまろ))内閣の陸軍大臣であった東条英機(とうじょうひでき)は「戦陣訓(せんじんくん)」を出したが、これには「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」という一句があり、この点が、また特に強調された印象が残っている。
つまり、「日本軍人は捕虜になるな」ということであるから、それは文明国の慣習に反するし、明治以来の日本軍にも、その規定はなかった。ただ日清戦争の時、シナ軍に捕虜になった日本兵が、あまりにも残虐な殺され方をしていることが判明したので、「捕虜になるぐらいなら自決しろ」という指導があったが、それは陸軍全体の方針というわけでもなかった。
日露戦争の捕虜は、おたがいに相当出したが、それはあまり問題にならず、むしろロシアへの捕虜に対する優遇が目立つぐらいであった。
第一次大戦の時の山東(さんとう)半島で捕虜になったドイツ兵は、日本の温(あたた)かい待遇に感激し、帰国をしない者もあり、かえって草の根の国際交流となった。本場のソーセージ作りやベートーヴェンの第九番の合唱の流行など、その時のことと関係があるという話も残っているくらいである。
しかし、「戦陣訓」が捕虜になることを悪として全軍に布告したことは、はなはだ悪い影響を与えた。捕虜になることは軽蔑すべきものという通念を植えつけたからである。日本兵や日本人が今からみると、やらなくてもよい自決をしたのは、これによるところが多いし、敵の捕虜に対しても、日露戦争や第一次大戦のようでなかったのも、生活そのものの余裕がない状況だったこともさることながら、この教訓が心理的に大きく働いていたことには間違いない。
捕虜になることを禁じていた軍隊が降伏することは、自分たち自身が禁じられていた捕虜になることである。司令官クラスは自決することになろう。自決するぐらいなら、本土決戦をやろうという考え方が最後まで強かったのは、この理由からと思われる。
それに、統帥権干犯から始まった下克上(げこくじょう)の精神はいたるところに滲透していたから、上が降伏の命令を下(くだ)したとしても、それを無視する部隊が多く出てくることであろう。
また、降伏を画策する者を殺すことを正義と考える軍人が、いくらでもいた。平和であった昭和11年(1936)の2・26事件の時ですら、首相以下の政府首脳を殺そうという部隊がいたのだ。
相次ぐ敗北で捨(す)て鉢(ばち)になっていた軍隊には、降伏を策略する政府要人を殺すぐらいは朝飯前であった。鈴木貫太郎(すずきかんたろう)内閣が、原爆が落ちて周囲の状況が絶望的になった時も、最後まで聖戦貫徹という主戦論を唱(とな)え続けなければならなかった理由は、これにほかならなかった。首相が少しでも降伏のことを口に出せば、間違いなく殺されていただろう。
当時の日本人には、これは自明なことであったが、今では、その雰囲気を伝えることが、まことにむずかしい。
したがって、天皇の降伏の決断――聖断――が、いかにむずかしいことであったかも、理解しにくくなっている。
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