電脳筆写『 心超臨界 』

明日死ぬものとして生きろ
永遠に生きるものとして学べ
( マハトマ・ガンジー )

◆親米・尊米から反米・憎米への大転換

2024-09-12 | 05-真相・背景・経緯
§2-1 日本人移民を受け入れられなかったアメリカ
◆親米・尊米から反米・憎米への大転換


元来、日本人は、ほんとうに親米であり信米であり、尊米ですらあったのだ。それでアメリカの要望することは何でも受け容れて、いわゆる紳士協定の後は、実質上は移民を止めていたのである。アメリカは紳士協定を一方的に破り、今の南アフリカ共和国のアパルトヘイトよりも、はるかにひどい差別となった。アメリカ好きの日本人は、これほどまでにアメリカ人に憎まれていたのかと愕然としたし、また、憎まれる正当な理由はないと確信していたのである(事実、今から見ても、日本人移民が憎まれるべき正当な理由はなくなっていた)。国民的な怒りが日本人の間に生じたことも理解できる。


『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p170 )
2章 世界史から見た「大東亜(だいとうあ)戦争」
――三つの外的条件が、日本の暴走を決定づけた
(1) 反米感情の“引き金”は何か

◇親米・尊米から反米・憎米への大転換

さすがに大正13年(1924)5月26日、クーリッジ米国大統領が新移民法、いわゆる絶対的排日移民法に署名したということが伝わると、日本でも反米感情が急に高まってきた。

ここで注目すべきことは、日本で反米感情が出てくるのは、アメリカの排日運動より20年近くも遅れていることである。20年近くも同胞移民が手を変え品を変えて差別されていたことが、絶対的排日移民法の成立と同時に、反米感情として噴出してきたのである。

元来、日本人は、ほんとうに親米であり信米であり、尊米ですらあったのだ。それでアメリカの要望することは何でも受け容れて、いわゆる紳士協定の後は、実質上は移民を止めていたのである。アメリカは紳士協定を一方的に破り、今の南アフリカ共和国のアパルトヘイトよりも、はるかにひどい差別となった。

アメリカ好きの日本人は、これほどまでにアメリカ人に憎まれていたのかと愕然としたし、また、憎まれる正当な理由はないと確信していたのである(事実、今から見ても、日本人移民が憎まれるべき正当な理由はなくなっていた)。国民的な怒りが日本人の間に生じたことも理解できる。

東京のアメリカ大使館の前で割腹自殺して抗議する青年も現われたし、新聞界も「東京朝日新聞」以下、主要な大新聞は挙(こぞ)って声明文を出し、「このような差別待遇に甘んずるものでない」と言った(「甘んじない」という意味が、具体的にどのような行為をやろうとしているのかは不明であるが、日米戦争の可能性を示唆する文句であると解釈しうるであろう)。

元来は親米・知米的であった学者、思想家、実業家の間にも反米・憎米の感情が現われた。

たとえば三宅雪嶺(みやけせつれい)(戦前・戦中の代表的評論家)はアメリカに好意を持ち、尊重する気風の人だったと思う。それで明治の日本人たちが無闇(むやみ)にヨーロッパに留学したがるのを彼は最善と考えず、アメリカをもっと手本とすべきだ、という論陣を張っていた。ヨーロッパは、すでに出来上がっている国々であるから、それよりは新興のアメリカに学ぶことのほうがもっと多い、という考えだったのである。

その雪嶺も、クーリッジ大統領が絶対的排日法に署名した時は、「米国は、あらかじめ言っていることと、やることが、その時の利害しだいで、どう変わるか分からない国だということを知っていなければならない」という趣旨のことを書いている。(『同時代史』第5巻418ページ)。

徳富蘇峰(評論家、著書に『近世国民史』など)は排日移民法実施の日を「国辱の日」とせよ、と書いたが、これに対して、キリスト教界の代表的人物であった内村鑑三が熱烈同感しているのも注目に値しよう。

内村は日露戦争の時も非戦論を説いた人である。その内村がこれだけ腹を立てたのだ。世論だけに関していえば、日露戦争直前の反露感情よりも強く反米的になった。
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