電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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この手紙を届けさせられた朝鮮王にしてみれば、日本に「うん」と言ってもらいたいのだ。というのは、もし鼻っ柱の強い日本が「うん」と言わないために戦争が起こるとすれば、差し当たり、食糧や船の準備をさせられ、先鋒を承(うけたまわ)るのは朝鮮軍だし、また元(げん)軍も朝鮮に進駐してくる。大陸の大軍団の進駐が何を意味するかは、朝鮮王は骨身に徹して知っていたことである。
『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p52 )
1章 鎌倉幕府――近代国家意識の誕生 = 元寇が促した「一所懸命」からの脱却
(2) 初の国難・元寇(げんこう)――勝者の悲劇
◆非戦論だった朝鮮王
文永(ぶんえい)5年(1268)の正月、クビライ・カンの命を受けた朝鮮王は、その臣の潘阜(はんぷ)にクビライの国書を持たせて大宰府によこした。その手紙の要点は、次のようなものであった。
まずその手紙は「大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉(たてまつ)る」と書き出している。自分のほうの国に「大」をつけ、自分を「皇帝」と呼んでいるのに、日本のほうは「大」もないし、単に「国王」である。
この場合の「皇帝」と「国王」の関係は、ヨーロッパのエンペラー(カイザー、ツァー)と各国王(キング、キューニッヒ)との関係と類比できる点がありそうである。ナポレオンは、自分が「皇帝」になると、弟などをヨーロッパの各国の「国王」に任じた。皇帝のほうが上の概念である。
こう書き出してから、語を続けて次のように言う。
「自分(クビライ・カン)は思うのだが、昔から、小さい国の君主は、領土が接している場合は、修好に努力するものである。私の先祖も天命を受けて中華の地を得た。異域の国々でも、その徳に服している者の数を知らない。高麗も長い間、戦争に苦しんでいたが、私が即位するとすぐに平和をもたらし、その本領を安堵(あんど)(相手の領有権を承認すること)してやった。それで高麗の国王も臣下も感激してやってきている。名分から言えば、私と朝鮮王は君臣の関係だが、実際には父子のごとく喜びを分かち合っている。この高麗は、私の国の東の属領である。日本は高麗に密接しているうえに、開国以来、中国に来貢している。それなのに、私が皇帝になってから使臣一人やってこない。これはきっと、よく私のことを知らないからであろう。それで特に使いに手紙を持たせて派遣し、私の志を布告する次第である。これからは友好関係を持ち、親睦を図りたいものである。また聖人は『四海を以て家となす』と言うが、お互いに通好しないでは、一家とは言えまい。もし武力を用いなければならないようなことになれば、これはもとより好むところである。日本国王よ、よく考えてください」と。
この手紙を届けさせられた朝鮮王にしてみれば、日本に「うん」と言ってもらいたいのだ。
というのは、もし鼻っ柱の強い日本が「うん」と言わないために戦争が起こるとすれば、差し当たり、食糧や船の準備をさせられ、先鋒を承(うけたまわ)るのは朝鮮軍だし、また元(げん)軍も朝鮮に進駐してくる。大陸の大軍団の進駐が何を意味するかは、朝鮮王は骨身に徹して知っていたことである。
それでクビライ・カンの手紙のほかに、別の手紙を添えてよこした。
「世祖皇帝が貴国と関係を開きたいというのは、貢物を取り立てよ
うというのではありません。ただ名目上のことです。貴国との修好
が成立すれば、きっと厚い待遇をしてくださるでしょう」と。
ここには、「元と事を構えないでくれ」という朝鮮王の悲痛な叫び声が隠されている。
幕府が、この手紙を朝廷に見せると、公家たちは鳩首会議したあげく、菅原長成(ながなり)に返書を作らせ、時宗に命じて蒙古に送らせようとした。
このとき、わずか17歳の執権北条時宗は、その朝廷の命を拒絶した。「蒙古からの手紙は無礼であって、答える必要がない」というのがその理由であった。朝鮮からの使者にも、そう伝えて追い返してしまったのである。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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この手紙を届けさせられた朝鮮王にしてみれば、日本に「うん」と言ってもらいたいのだ。というのは、もし鼻っ柱の強い日本が「うん」と言わないために戦争が起こるとすれば、差し当たり、食糧や船の準備をさせられ、先鋒を承(うけたまわ)るのは朝鮮軍だし、また元(げん)軍も朝鮮に進駐してくる。大陸の大軍団の進駐が何を意味するかは、朝鮮王は骨身に徹して知っていたことである。
『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p52 )
1章 鎌倉幕府――近代国家意識の誕生 = 元寇が促した「一所懸命」からの脱却
(2) 初の国難・元寇(げんこう)――勝者の悲劇
◆非戦論だった朝鮮王
文永(ぶんえい)5年(1268)の正月、クビライ・カンの命を受けた朝鮮王は、その臣の潘阜(はんぷ)にクビライの国書を持たせて大宰府によこした。その手紙の要点は、次のようなものであった。
まずその手紙は「大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉(たてまつ)る」と書き出している。自分のほうの国に「大」をつけ、自分を「皇帝」と呼んでいるのに、日本のほうは「大」もないし、単に「国王」である。
この場合の「皇帝」と「国王」の関係は、ヨーロッパのエンペラー(カイザー、ツァー)と各国王(キング、キューニッヒ)との関係と類比できる点がありそうである。ナポレオンは、自分が「皇帝」になると、弟などをヨーロッパの各国の「国王」に任じた。皇帝のほうが上の概念である。
こう書き出してから、語を続けて次のように言う。
「自分(クビライ・カン)は思うのだが、昔から、小さい国の君主は、領土が接している場合は、修好に努力するものである。私の先祖も天命を受けて中華の地を得た。異域の国々でも、その徳に服している者の数を知らない。高麗も長い間、戦争に苦しんでいたが、私が即位するとすぐに平和をもたらし、その本領を安堵(あんど)(相手の領有権を承認すること)してやった。それで高麗の国王も臣下も感激してやってきている。名分から言えば、私と朝鮮王は君臣の関係だが、実際には父子のごとく喜びを分かち合っている。この高麗は、私の国の東の属領である。日本は高麗に密接しているうえに、開国以来、中国に来貢している。それなのに、私が皇帝になってから使臣一人やってこない。これはきっと、よく私のことを知らないからであろう。それで特に使いに手紙を持たせて派遣し、私の志を布告する次第である。これからは友好関係を持ち、親睦を図りたいものである。また聖人は『四海を以て家となす』と言うが、お互いに通好しないでは、一家とは言えまい。もし武力を用いなければならないようなことになれば、これはもとより好むところである。日本国王よ、よく考えてください」と。
この手紙を届けさせられた朝鮮王にしてみれば、日本に「うん」と言ってもらいたいのだ。
というのは、もし鼻っ柱の強い日本が「うん」と言わないために戦争が起こるとすれば、差し当たり、食糧や船の準備をさせられ、先鋒を承(うけたまわ)るのは朝鮮軍だし、また元(げん)軍も朝鮮に進駐してくる。大陸の大軍団の進駐が何を意味するかは、朝鮮王は骨身に徹して知っていたことである。
それでクビライ・カンの手紙のほかに、別の手紙を添えてよこした。
「世祖皇帝が貴国と関係を開きたいというのは、貢物を取り立てよ
うというのではありません。ただ名目上のことです。貴国との修好
が成立すれば、きっと厚い待遇をしてくださるでしょう」と。
ここには、「元と事を構えないでくれ」という朝鮮王の悲痛な叫び声が隠されている。
幕府が、この手紙を朝廷に見せると、公家たちは鳩首会議したあげく、菅原長成(ながなり)に返書を作らせ、時宗に命じて蒙古に送らせようとした。
このとき、わずか17歳の執権北条時宗は、その朝廷の命を拒絶した。「蒙古からの手紙は無礼であって、答える必要がない」というのがその理由であった。朝鮮からの使者にも、そう伝えて追い返してしまったのである。