電脳筆写『 心超臨界 』

人があきらめないと決心すれば
後は努力のみがその報酬を約束する
( ナポレオン・ヒル )

日本史 昭和編 《 大不況を生みだしたホーリイ・スムート法――渡部昇一 》

2024-01-17 | 04-歴史・文化・社会
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1929年(昭和4)の5月28日、アメリカ下院歳入委員会(ウェイズ・アンド・ミーンズ・コミティ)の議長である、W・C・ホーリイ(共和党・オレゴン州選出)の名を冠した法律が下院を通過したのである。これは1000品目以上の物品に、アメリカ史上最高の関税率といわれたフォードニー・マッカンバー法をはるかに上廻る高率の関税を課そうというものであった。戦勝国で、世界の金(きん)の大半を集めたアメリカが、さらに自国の産業――特に農業――を保護するために、万里(ばんり)の長城(ちょうじょう)のごとき関税障壁を設(もう)けようというわけである。


『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p198 )
2章 世界史から見た「大東亜(だいとうあ)戦争」
――三つの外的条件が、日本の暴走を決定づけた
(2) 保護貿易主義と世界大戦との相関

◆大不況を生みだしたホーリイ・スムート法

「戦前の世界が戦後の世界のようであったならば、日本が戦争に突入する必要はなかったであろう」

そう考えられる第二の理由は、世界経済のブロック化である。これについても、先に述べた排日移民法とともにアメリカの責任を小なりとしない。

戦後になってからも、私の母はよくこう言っていたものである。

「お前が生まれた頃の不景気ときたら恐ろしいものだった。今でもあの頃のことを夢に見て、目を覚(さ)ますと冷汗が出ていることがある」

私が生まれたのは昭和5年(1930)である。その前年の1929年の10月24日の木曜日に、ニューヨークはウォール・ストリートの証券取引所で史上最大の株の大暴落(クラッシュ)があった。いわゆる「暗黒の木曜日(ブラック・サーズデイ)」である。一度は協調買い支(ささ)えなどあって、値はもどったかに見えたが、5日後の10月29日の火曜日は、取引の開始から、底が割れてしまったような暴落になった。これが「悲劇の火曜日(トラジック・テューズデイ)」で、この日をもって、世界的な大不況(グレイト・デプレッション)がはじまった。

何しろデュポン(米国最大の総合化学メーカー)のような超優良株も、その夏の高値である217.5ドルから、たったの80ドルに転落したのだから他は推(お)して知るべきである。たった一日で、100億ドルが消えたと言われるが、これは当時の日本の総予算の数倍に当たる。

しかも共和党のフーバー大統領(在任1929―33)やその経済顧問たちは、これを一時的な史上の痙攣(スパズム)と見て、得に対策を講じなかったから、不況は長続きし、ヨーロッパをはじめとして世界の各地に甚大な影響を及ぼした。

たとえば当時の日本の対米輸出の主要品であった生糸(きいと)の価格も暴落し、共同保管、操業短縮などの必要が起こった。紡績も操短に次ぐ操短で、しかも値は下がるばかりである。アメリカでも工場閉鎖が相次ぎ、労働者の4人に1人は失業という有り様になった。ヨーロッパでも事情は同じである。

このひどい、しかも長期の不況は、どうして惹(ひ)き起されたのか、と言えば、その年の5月28日にアメリカ下院議会を通過したホーリイ・スムート法と関係がある、と言ってよいであろう。

この法律の背景にあるのは、戦前のアメリカの保護貿易思想である。第二次大戦後でこそアメリカは自由主義世界のリーダーとして、自由貿易の守護神の役目を果たしてきたが、戦前はその反対だったことは忘れられやすい。アメリカは最初はヨーロッパより工業などで遅れているという意識があったから、保護貿易に傾(かたむ)きがちであった。

ところが第一次大戦はアメリカを――そして日本をも――成金(なりきん)にした。日本でも「成金」という言葉がその時に出来たぐらいなのであるから、潜在工業力と儲(もう)ける機会がはるかに大きかったアメリカが大成金になったことは当然である。そして第一次大戦を境(さか)い目にして世界の金融の中心もロンドンからニューヨークに移った感があった。したがって、その収入増から来る所得税も尨大(ぼうだい)であった。このため税率は何度か引き下げられたが、税収は減らない、という結構(けっこう)な状況が1920年代のアメリカにあった。この金余りが、大戦の荒廃から復興期にあるヨーロッパに投資され、世界的好況を現出することができたのである。このような好況期が続き、アメリカ経済は絶対的な優位にあったのだから、アメリカはもっともっと市場開放をやってよかった。

しかし、アメリカにおける伝統的保護関税思想は根強く、ハーデング大統領(在任1921―23)は、1922年(大正11)9月21日にフォードニー・マッカンバー関税法に署名した。これは国内産業保護のための従価税で、それまでの米国史上最高の税率であった。これによって米国が輸入品から得る関税は約60パーセント増加したのである。これは悪い予兆であった。それでも1920年代のアメリカの景気も世界の景気も、ほぼ順調に推移し続けていた。

ところが、フォードニー・マッカンバー法からほぼ7年経(た)った1929年(昭和4)の5月28日、アメリカ下院歳入委員会(ウェイズ・アンド・ミーンズ・コミティ)の議長である、W・C・ホーリイ(共和党・オレゴン州選出)の名を冠した法律が下院を通過したのである。これは1000品目以上の物品に、アメリカ史上最高の関税率といわれたフォードニー・マッカンバー法をはるかに上廻る高率の関税を課そうというものであった。戦勝国で、世界の金(きん)の大半を集めたアメリカが、さらに自国の産業――特に農業――を保護するために、万里(ばんり)の長城(ちょうじょう)のごとき関税障壁を設(もう)けようというわけである。

上院には、さすがにもっと世界経済とかアメリカの責任の分かる人たちがいて、この高率関税法の上院における姉妹法(コンパニオン・ビル)であるR・O・スムート上院議員(共和党・ユタ州選出)の法案に対して激しい議論が生じた。かの株式大暴落が、この法案の審議中に起こったことは注目に値(あたい)する。
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