電脳筆写『 心超臨界 』

天才とは忍耐するためのより卓越した才能に他ならない
( ルクレール・ビュフォン )

日本史 古代編 《 外交問題だった仏教導入――渡部昇一 》

2024-08-04 | 04-歴史・文化・社会
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稲目は、その仏像をいただいて、自分の屋敷の中に寺を建てて、拝めるようにしたのであった。霊の存在を信じて疑わない時代に、日本古来の多くの神に怒られるかもしれぬということを承知のうえで、これをやった稲目も大胆な男である。このため仏教は、日本の中心部でも公然と行われるようになった。ところが、その年、疫病がおおいに流行して多くの人が死んだので、物部・中臣の両者は、天皇にこのことを申しあげ、仏像は難波(なにわ)の塀に投げ捨て、寺も残らず焼き払ってしまったのである。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p147 )
2章 上代――「日本らしさ」現出の時代
――“異質の文化”を排除しない伝統は、この時代に確立した
(3) 用明(ようめい)天皇が果たした歴史的役割

◆外交問題だった仏教導入

普通の歴史では、日本に仏教が渡来したのは欽明(きんめい)天皇(第二十九代)の3年(538)とかいうことになっている。しかし、これは中央に入ってきた時点の話で、北九州など大陸との交通が多かったところとか、帰化人の間では、ずっと前から仏教を奉じていた人が少なくなかったにちがいない。

さて欽明天皇のころは、朝鮮の南部は日本領で任那(みまな)府を置いてあったのであるが、そこに新羅(しらぎ)の侵入が起こったので、その鎮圧に派遣されたのが大伴狭手彦(おおとものさでひこ)であった(彼の妻の佐用(さよ)姫が松浦潟から船出する夫に別れを惜しみながら領巾(ひれ)を振っているうちに石になった、という伝説が残されている)。狭手彦は、もちろん名門の出身であり有力者であったのであるが、朝鮮に渡って仏教徒になってしまったのである。

当時、任那では百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)の発願(ほつがん)で、日本領の安泰祈願のために大仏を鋳造して開眼(かいげん)式などをやっていた。これには日本側の代表も出席するように招かれたにちがいない。また同じころ、シナの梁(りょう)でも篤信な仏教徒の武王(ぶおう)が位に即(つ)いていたりして、日本の周囲は仏教ばやりであり、その文化もはなはだしく仏教的であった。

それは、たとえてみれば明治初年にキリスト教をどうすればよいか、というのと似た問題状態であったといえよう。国際的にやっていくには仏教を認めたほうがやりよいし、明らかにそのほうが開明的であるように思われたにちがいない

この開明派の先端にいたのが例の大伴狭手彦であり、彼は半島に出張していただけに、国際状況に敏感であったし、態度も進歩的であった。そこで狭手彦は当時の大臣(おおおみ)である蘇我稲目(そがのいなめ)と連絡を取ったとみえて、百済王から仏像と経論(きょうろん)が送られてきて、仏教の正式渡来ということになったのである。

西洋では、聖ベネデクトがモッテカッシノに修道院を建設してから、ちょうど10年経ったころであった。

蘇我氏は、言うまでもなく武内宿禰(たけうちのすくね)の子孫である。武内宿禰などは近ごろの日本史からは抹殺されてしまったらしいが、当時の人にとっては景行(けいこう)天皇のクマソ征伐、神功(じんぐう)皇后の朝鮮遠征を補佐し、応神(おうじん)天皇の即位に大功があったと言われる古代の英雄であり、蘇我氏は、その子孫であるとされたがゆえに、大臣となって幅を利かせていたのである。

そして蘇我氏が朝鮮問題に関心が深く、仏教問題にも前向きであったのはその先祖と関係があったのかもしれない(ついでながら、当時の蘇我氏自身がそう信じていたのみならず、蘇我氏と敵対関係にあった氏族でも、蘇我氏の先祖が武内宿禰であったことに、異議を差しはさまなかったのである)。

欽明天皇が百済の聖明王が献上した仏像をお受け取りになったときは、まだお若かったのであるが、同席していた大臣たちに、

「私も、この柔和な容貌をした仏像を拝んでみたらどうであろうか」

とおっしゃられたので、開明派の蘇我稲目は喜んで、

「西の諸国は、みなこれを礼拝しております。日本の国だけがどうして背くことができましょうか」

と答えたのである。

ところが、国粋派の物部尾輿(もののべのおこし)と中臣鎌子(なかとみのかまこ)は、

「わが国において帝王の位にある者は、つねに天地国家の百八十(ももやそ)の神々を、春夏秋冬、祀り拝むのがお仕事であります。今になって新しく外国の神を拝むならば、日本のカミの怒りを招くことになりましょう」

と申しあげた。

これを聞かれた若い天皇は、日本の神々の怒りに触れては大変だというので、拝仏のことはお取りやめになり、この仏像を稲目にご委託になって、勝手に京都あたりで流布(るふ)するように試みさせになられたのである。家来に新しい宗教の実験をさせるなどというところは、新しい薬を試しているみたいで、何だかユーモラスである。

そこで稲目は、その仏像をいただいて、自分の屋敷の中に寺を建てて、拝めるようにしたのであった。霊の存在を信じて疑わない時代に、日本古来の多くの神に怒られるかもしれぬということを承知のうえで、これをやった稲目も大胆な男である。このため仏教は、日本の中心部でも公然と行われるようになった。

ところが、その年、疫病がおおいに流行して多くの人が死んだので、物部・中臣の両者は、天皇にこのことを申しあげ、仏像は難波(なにわ)の塀に投げ捨て、寺も残らず焼き払ってしまったのである。

このようなことは、次の敏達(びだつ)天皇の14年(585)にも起こっている。そして、結局、どうなったのか。日本において、仏教が宮中に根を下(お)ろしたのは、主として女の力であったことがわかるのである。
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