電脳筆写『 心超臨界 』

もっとも残酷な嘘の多くは沈黙の中で語られる
( ロバート・ルイス・スティーブンソン )

不都合な真実 《 野口英世・偽りの偉人伝像――福岡伸一 》

2024-08-08 | 03-自己・信念・努力
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ロックフェラーの創世記である20世紀初頭の23年間を過ごした野口英世は、今日、キャンパスではほとんどその名を記憶するものはない。彼の業績、すなわち梅毒、ポリオ、狂犬病、あるいは黄熱病の研究成果は当時こそ賞賛を受けたが、多くの結果は矛盾と混乱に満ちたものだった。その後、間違いだったことが判明したものもある。彼はむしろヘビー・ドリンカーおよびプレイボーイとして評判だった。結局、野口の名は、ロックフェラーの歴史においてはメインチャプターというよりは脚注に相当するものでしかない。


◆野口英世・偽りの偉人伝像

『生物と無生物のあいだ』
( 福岡伸一、講談社現代新書、p18 )

今、私の手元にには、2004年6月発行のロックフェラー大学定期刊行広報誌がある。ここには、野口英世をめぐる奇妙なトーンの記事が掲載されている。

記事はいささか揶揄(やゆ)的な書きっぷりで、66丁目に面したロックフェラー大学門衛所に、おずおずと頼みごとをする日本人観光客がこのところ急増してきたことを伝える。図書館の二階にあるブロンズ像を見せてほしいというのだ。また別の日には、旅行会社が企画したツアーが大型バス三台を連ねてやってきた。カメラをぶら下げた日本人の大群が順に胸像の前で写真を撮る。図書館司書はそれが終わるのを辛抱強く見守っていた。

ここで記事は種明かしをする。この不可思議な現象の背景――この年の秋、日本のお札のデザインが一新され、新千円札の肖像画に国民的ヒーローとして野口が登場するということを。日本人にとっての野口英世像がいかに立志伝中の大物であるかを紹介した後、記事は辛辣(しんらつ)な一撃を加える。

ここ米国での彼の評価はまったく異なる、と。

  ロックフェラーの創世記である20世紀初頭の23年間を過ごした
  野口英世は、今日、キャンパスではほとんどその名を記憶するもの
  はない。彼の業績、すなわち梅毒、ポリオ、狂犬病、あるいは黄熱
  病の研究成果は当時こそ賞賛を受けたが、多くの結果は矛盾と混乱
  に満ちたものだった。その後、間違いだったことが判明したものも
  ある。彼はむしろヘビー・ドリンカーおよびプレイボーイとして評
  判だった。結局、野口の名は、ロックフェラーの歴史においてはメ
  インチャプターというよりは脚注に相当するものでしかない。

私はまず、かつて私の静かな聖域だったあの図書館が、今や日本人観光客の喧騒によって損なわれてしまっていることを悲しんだ。ついで私は野口が見ようとしてついに見ることのできなかったものについて思いを馳せた。

ロックフェラー医学研究所の創設に貢献した著名な医学研究者にサイモン・フレクスナーがいた。フレクスナーは赤痢菌の単離に成功し、米国における近代基礎医学の父とされた人物である。彼は1899年、日本を訪れ、燃えるような野心を抱くこの若い日本人に会った。フレクスナーは一種の社交辞令として、野口を大いに励まし支援を惜しまない旨を伝えた。

帰国してしばらくすると野口が突然、押しかけるようにしてやってきた。フレクスナーは驚いたが帰る場所もあてもない野口に実験助手の仕事を与えた。まもなく、野口はフレクスナーの庇護の下、次々と輝かしい発見を立て続けに生み出し始めることになる。梅毒、ポリオ、狂犬病、トラコーマ、そして黄熱病の病原体を培養したと発表し、二百編という当時としては驚くべき数の論文をものした。一時はノーベル賞のうわさにのぼり、パスツールやコッホ以来のスーパースターとして、病原体ハンターの名をほしいままにした。それは同時にロックフェラー医学研究所の名を高めることにもつながったのは、まぎれもない事実である。

1928年、野口が研究先の西アフリカで実験対象としていた黄熱病にかかって客死すると、ロックフェラーでは研究所をあげて喪に服し、フレクスナーは野口の葬式一切を取り仕切った。彫刻家セルゲイ・ティモフェイビッチ・コネンコフに依頼された彼の胸像が完成し、図書館に飾られた。

パスツールやコッホの業績は時の試練に耐えたが、野口の仕事はそうならなかった。数々の病原体の正体を突き止めたという野口の主張のほとんどは、今では間違ったものとしてまったく顧みられていない。彼の論文は、暗い図書館の黴(かび)臭い書庫のどこか一隅に、歴史の澱(おり)と化して沈み、埃のかぶる胸像とともに完全に忘れ去られたものとなった。

野口の研究は単なる錯覚だったのか。あるいは故意に研究データを捏造したものなのか、はたまた自己欺瞞によって何が本当なのか見極められなくなった果てのものなのか、それは今となっては確かめるすべがない。けれども彼が、どこの馬の骨とも知れぬ自分を拾ってくれた畏敬すべき師フレクスナーの恩義と期待に対し、過剰に反応するとともに、自分を冷遇した日本のアカデミズムを見返してやりたいという過大な気負いに常にさいなまれていたことだけは間違いないはずだ。その意味で彼は典型的な日本人であり続けたといえるのである。

野口の研究業績の包括的な再評価は彼の死後50年を経て、ようやく行われることになった。それもアメリカ人研究者の手によって、イザベル・R・プレセットによる“Noguchi and His Patrons”(Fairleigh Dickinson University Press, 1980)がそれだ。本書によれば、彼の業績で今日意味のあるものはほとんどない。当時、そのことが誰にも気づかれなかったのはひとえにサイモン・フレクスナーという大御所の存在による。彼が権威あるパトロンとして野口の背後に存在したことが、追試や批判を封じていたのだと結論している(邦訳『野口英世』〔中井久夫・枡矢好弘訳〕星和書店、1987)。

野口像を破天荒な生身の姿として描きなおした評伝に『遠き落日』(渡辺淳一、角川書店、1979)がある。ここで野口は、結婚詐欺まがいの行為を繰り返し、許婚(いいなずけ)や彼の支援者を裏切り続けた、ある意味で生活破綻者としてそのダイナミズムが活写されている。ところが、このような再評価は日本では勢いをもつことなく、いまだにステレオタイプな偉人伝像が半ば神話化されている。これがとうとう大手を振って、お礼の肖像画にまで祭り上げられるというのは考えてみればとても奇妙なことである。ロックフェラー大学広報誌が皮肉のひとつもいいたくなるのは当然である(ちなみに、肖像画のことをいうのであれば、樋口一葉も最もお札から遠く離れた人物であるといえる)。
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