ぶうちゃんのリハビリ日記  自由へ続く道

持ち前の負けず魂で、医師には不可能といわれた一日も早い社会復帰を目指すリハビリ親父の日記です。

それでも私は負けない。

2008-03-20 17:25:37 | 健康・病気

今日は木曜日。本来なら『木曜リハ』の日ですが、今日は春分の日でお休み。でも、今週の土曜日に、スタッフの方がわざわざ出勤してリハビリをしてくれる。本当に感謝しています。という事で今日は、先日、友人からいただいた『それでも私は負けない』という二人の方の闘病記を私のブログを読んで頂いている、どなたかのお役に立てればと思い、抜粋ですが紹介しようと思います。私もこの闘病記を読んで勇気と可能性を感じ、さらに頑張ろうという気持ちになりました。

①【4期の進行がんと戦う(女性)】==「早期がん」に対して、「進行がん」という言葉がある。臓器の種類によって定義は異なるが、他の臓器やリンパ節にまで転移していたり、治癒不可能、もしくは余命が限られているがんのことである。なかでも、4期の進行がんとなると、手術も困難であり、治癒は難しいといわれている。==私は今まで病気ひとつしたことがありませんでしたが、平成7年、食べてもすぐに嘔吐するようになり、病院での検査の結果、医師から告知されました。『残念ですが、胆のうの進行がんの4期です。もって3ヶ月でしょう』と。頭の中が真っ白になりました。医師が言うには、がんが周囲の臓器まで広がっており、完全にがんを摘出できないとのことでした。それでも1週間後『可能な限り、摘出しよう』とのことで手術をし、胃と十二指腸、胆のう、小腸を全摘し、肝臓と大腸を半分、摘出しました。術後、息子は執刀医から念を押されました。『指触で、がんだと思えるものは全部とりました。でも必ず転移しますので、その時にまた相談しましょう。これまでの経験からいって、これほどの状態で助かった例はありませんから』と。ショックのあまり、65キロあった体重は35キロまでに落ちていました。退院してからも『必ず転移しますから』との医師の言葉が頭から離れず、不安と恐怖に打ちのめされて『どうか死ぬときは、苦しまずに逝きたい。』と思う私がいました。そんな気持ちを変えてくれたのが兄の言葉でした。『いいか、がんなんかに負けちゃだめだぞ。病気にはな、まず、心が勝たなきゃだめなんだ。』兄の言葉には説得力がありました。というのも兄自身、45歳の時、直腸がんになり、術後30年以上もたった今も元気だったからです。『私だけが乗り越えられないはずがない、こんなことで負けたりするもんですか』打ちひしがれていた私の心が、ようやく前を向き始めました。それから私はひとつのことに挑戦し始めました。それは『掃除』です。『いつまであるか分からない命を、今まで世話になった地域の人のために。』と思ったからです。息子も『いい運動になるし、地域の人にも喜んでもらえる』と賛成してくれました。それからというもの、毎朝5時に起床し、家の前の公園の落ち葉の掃除を始めたのです。そんな行動が地域の人の目にとまり、いつしか子供たちからも『掃除のおばさん』と親しまれるようになり、皆さんに喜んでもらえることが、うれしくてたまらなくなりました。区から感謝状も頂き、それがまた、大きな喜びになり、生きがいとなりました。でも人間ですから、心が揺れ動く日もありました。心が弱ってくると『必ず転移します』との医師の言葉が浮かんで来るのです。でもそんな時は『転移なんてさせてたまるもんですか!』と弱い心を叩き潰すように頑張ってきました。そのあいだ、病院ではがんの転移を警戒し、半年に一度、MRI、CTなど、それこそ頭のてっぺんからつま先まで、丹念にがんの検診を続けてきました。しかし、何回検診を行っても、転移は見られませんでした。退院から12年がたった時、医師はこういいました。『どうして転移しないのか分からない。やはり、おばあちゃんの生きようとする力が勝ったということでしょうね。』といった。==「進行がん」はイコール「死」ではない。「4期」だからといって、それもまたイコール「死」ではない。人間には、医療の常識を覆す、秘めた力が備わっているのでる。

②【血液がんと戦う(男性)】==血液のがんと呼ばれる「悪性リンパ腫」。このがんは手術が出来ない。基本的な治療法は二つ。化学療法と放射線療法である。いったん、「寛解」となっても、身体のどこかに悪性リンパ腫が残っている場合があり、再発を繰り返すことでも知られている。==それは2度目の再発の時でした。2003年6月。悪性リンパ腫が再発し、太もも、両腕、おなかなど、6箇所で悪性腫瘍が見つかりました。危険な状態でした。骨に転移した腫瘍は、放射線治療で撃退しましたが、おなかに出来た腫瘍は、効果的な治療法は見つからず、残された道は骨髄移植ただひとつ。しかし、適合した5人のドナーの方々の協力は得られず、唯一の生きる道も閉ざされてしまいました。その後は、がんを叩くための強力な抗がん剤の投与が始まりましたが、だんだんと治療効果も薄くなり、2003年10月、激しい副作用で、食事も出来ず、声も出せず、目も開かず、そしてついに、意識が混濁状態になり、医師は最後の日が近いことを妻に告げました。そんな時に見舞いに来てくれた友人の『がんに勝つためには、それに打ち勝つぐらい、命がけで強い気持ちを持たなきゃあかんよ』と耳元で激励をしてくれました。それから私は、必死になって生きることに執念を燃やし始めました。そして、万事休すの状態に陥った時、第4の治療法といわれる『免疫療法』に巡り合ったのです。『免疫療法』というのは、自分の血液中のTリンパ球を強化・増強し、再び体内に戻して、がんに打ち勝てるようにするのです。しかし当時、この方法はまだ臨床実験の段階でした。とうぜん、医師は渋りましたが、最後にはわずかな可能性にかけて踏み切ることにしました。2003年12月、1回目の免疫療法を受けました。これが功を奏して、腫瘍マーカーの数値が下がったのです。しかし、残酷にも医師は妻に告げました。『誤解のないように言っておきますが、免疫療法でがんを治癒することは出来ません。一時的にがんを抑える事は出来ますが、効果が持続するのは2週間ほどです。』と。体調が少しよくなった私の姿を見て妻は、私に学生によるベートーベンの『第9』の演奏会に参加しようといってきました。その合唱に、娘が参加することになっていたからです。車椅子と鎮痛剤を持っていく事と、容体が悪化したらすぐに病院に戻ることを条件に、病院の許可が出ました。演奏が始まり、じっと聴いていたその時、苦悩を突き抜け、無限の歓喜を表現したこの曲のように、激しくも、繊細な音律が私の心にビンビン響き、止まりかけていた心臓が突然、動き出したような、打ち震えるような感動が五体を貫いていったのです。『私は今、生きている』涙がとめどなくあふれてきました。病気に押しつぶされそうな弱い心、逃げ出したい心は吹き飛び、病気に立ち向かっていこうとする『戦う心』が湧き上がってきたのです。私自身、生まれ変わったのではないかと思えるほどの感動でした。その後、再び病院に戻りました。すると不思議なことが起きました。検査の結果、がん細胞が抑えられ、生死の境から蘇生し、まさに劇的な『寛解』となったのです。『うちの治療が効いたとは思えない。まさに奇跡です』と医師も驚いていました。そして、2004年1月、雲ひとつない、澄み切った青空のもと、私は元気に退院することが出来ました。
==副作用の激しい化学療法と放射線治療、また手術と違って、身体に負担の少ない第4の療法として注目されているのが『免疫療法』である。これは自分の血液中にある、Tリンパ球を体外で培養しながら活性化させ、それを再び体内に戻すのである。本来、自分の身体の中にある免疫細胞を活性化させることで、がん細胞に対する攻撃力を高めようとする治療方法である。病気になるのも、直すのも、結局は自分なのである。