映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

雪の轍

2015年07月17日 | 洋画(15年)
 『雪の轍』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)3時間16分という長尺のトルコ映画(注1)ながら、昨年のカンヌ国際映画祭においてパルム・ドール大賞を受賞した作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、舞台となるカッパドキアが映し出され、遠くには岩山を歩く観光客の姿が見える中を、本作の主人公アイドゥンハルク・ビルギネル)が、岩山の縁をこちらに向かって歩いてきます。



 彼は、岩山をくりぬいて作られたホテル「オセロ」の中に入っていき(注3)、客に挨拶し、「キノコを採ってきた。ソテーにしようか?」と訊くと、客の方は、「満腹だ。ここに馬はいるか?」と逆に尋ねます。アイドゥンは「野生の馬がいる」と答えます(注4)。
 次いで、使用人のファトマが入ってくると、アイドゥンは「ニハル(アイドゥンの妻)は?」と訊き、ファトマが「とっくに起きて、部屋で朝食をとっています」と答えると、アイドゥンは更に「ネジラ(アイドゥンの妹)は?」と尋ねます。
 そんなやり取りの後、アイドゥンはホテルを出て、書斎と称している別の建物(ここも、岩をくりぬいて作られています)の中に入っていきます。

 次いで、車に乗って、アイドゥンと使用人のヒダーエット(ファトマと夫婦)とは、馬が飼われている牧場を回った後、学校に立ち寄ると、突然子供のイリヤスが車に石を投げ、窓ガラスに大きなヒビが入ってしまいます。
 ヒダーエットが子供を追いかけて捕まえてきて、アイドゥンに「小川の中に入ってしまい、ズブ濡れです。家まで送り届けましょう」と言います。
 そこで、イリヤスを家まで連れて行きますが、子供の父親のイスマイルネジャット・イシレル:注5)とビダーエットとが言い争いをし、殴りあい寸前になってしまいます。
 というのも、イスマイルは、家賃の滞納を理由に家主のアイドゥンがTVなどの家具を差し押さえたことに対し恨みを持っていたところに、息子のイリヤスが酷い悪さをしたと告げられたために、切れてしまったようなのです。
 この場は、イスマイルの弟のハムディのとりなしによってなんとか収まったものの、アイドゥンには揉め事がいろいろ起きてくるようであり、果たしてこの先どうなることでしょう、………?

 本作は、トルコのカッパドキアが舞台で、ホテルのオーナーである初老の男が主人公。その暮らしは裕福ながらも、決して平穏無事な生活を営んでいるというわけでなく、彼を取り巻く人々とのさまざまなトラブルに巻き込まれ、さかんに議論する様子が描き出されます。それが、秋から雪の舞う冬のカッパドキアを背景に展開され、特にこれという出来事は何も起こらないながらも、長尺を全く意識させないとても締まった感じの秀作となっています。

(2)主人公のアイドゥンは、親から様々の資産を受け継いでいて、その暮らしは裕福です。そして、それらの資産の具体的な管理は使用人らに任せ(注6)、自分自身は、書斎にこもって机の上のパソコンに向かいながら、地方紙のコラムに世の中を批判する記事を書いたりしていて、言うことなしの感じがします。



 でも、上で若干触れたように、些細な事ながらもいろいろなトラブルが起き、彼を取り巻く人たちと盛んに議論することになるのです。
 例えば、車の中で、アイドゥンが、家賃滞納の揉め事から「もう父の遺産を手放したくなる」と言うと、使用人のヒダーエットが、「この界隈で家賃滞納などこれまで聞いたことがない。あなたのやり方は手ぬるい」と非難したりします。

 また、車の窓ガラスを割ったイリヤスの父親のイスマイルは、「あんな子供のそんなことができるのか?一体何が言いたいのだ?」とか、「僅かな家賃の代わりにTVなどを取り上げ、今度は息子がと言ってくる。喧嘩を売りに来たのか?」などと立ち向かってきます。

 さらには、離婚して出戻ってきた妹のネジラは、食事の時間に、「悪と闘う代わりに、なぜ逆をしないの?私は、自分に向けられた悪には抗わない。悪人に後悔する時間を与えるのだ」などと言いますが(注7)、アイドゥンは「悪に加担するとは!」と驚き、「悪と闘えば、世界の悪を絶やせる」と言います(注8)。

 そして、若くて美貌の妻・ニハルからは、自分が行っている慈善活動(学校に対する寄付)に口を出さないでくれて言われます(注9)。



 あるいは、これらの人たちは、それぞれの立場で自分なりの自由を求めているのかもしれません(注10)。
 例えば、ヒダーエットは、主人のアイドゥンが長逗留先のイスタンブールに行かず家に戻るということを、内緒にしろと言われていたにもかかわらず、妻のファトマに携帯で連絡しますが、いかにも残念そうな口ぶりです。
 イスマイルは、ニハルが密かに持ってきた大金を、それだけあれば、滞納した家賃は支払えるでしょうし、あるいは自分で家を持てるかもしれませんが、理由のない金は受け取れないとばかりに、惜しげもなく火にくべてしまいます(注11)。
 ネジラは、自分の居場所があると思って戻ってきたにもかかわらず、どうもそうではなさそうな感じを敏感に読み取り、元の夫とヨリを戻すことを考えるものの、はてどうなることでしょう?
 そして、ニハルですが、イスタンブールには行かずに家に戻ってきたアイドゥンを2階の窓から見下ろすシーンがあります。ここでは、アイドゥンの内心の声(注12)が流れるものの、それはニハルには届かず、ただ撃ち殺したうさぎを手に抱えて家に入ってくる夫が見えるだけです。この姿を見たニハルは、自分も逃げ出したりしたら、アイドゥンが解放した馬のように自由になれるのではなく、逆にウサギのように撃ち殺されるかもしれないという恐怖に囚われてしまわないでしょうか?

 こうした自由を求める周囲の声を一身に浴びるアイドゥン自身も、冬の間はイスタンブールで逗留して自由を味わいたかったのかもしれません。ですが、父親の遺産の世界からやっぱり離れられずに、戻ってきてしまいます。
 戻ったアイドゥンは、書斎にこもって、長年の懸案だった『トルコ演劇史』の執筆に取り掛かろうとパソコンに向かいますが(注13)、さあ、この先の生活はどうなることでしょう?

 本作に登場する人物は、誰一人他の人に対して優位性を持たず、皆このゴタゴタした人間世界に絡め取られているように見え、お互いに議論すればするほど混迷を深めていく感じがして、それが雪の降る冬のカッパドキアの風景の中で描き出されると、リアルさを一層増すように思われます。



(3)渡まち子氏は、「ある意味、先読み不能な物語だが、くどくどと理屈をこねて自らの脆さをあらわにする小さき人間と、数億年前に形作られた奇岩の風景が広がるカッパドキアの自然の広大な空間が、圧倒的な対比を成している」として65点をつけています。
 中条省平氏は、「人間と人間とが向き合う緊迫した室内の対話劇と、パッパドキアの建築群や雪原など、開かれた外景との対比が見事な効果を上げている」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「3時間16分の巨編だが、長く感じるどころか、片時も気がそらせない。なぜか。矛盾だらけのアイドゥンの中に、観客は、いつの間にか、知っている誰か、あるいは自分自身を重ねずにいられないからだ。言葉と映像による人間探究、見事だ」と述べています。



(注1)トルコ映画は、これまで『蜜蜂』、『ミルク』、『』の“ユシフ3部作”を見ました。

(注2)監督は、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
 英題は「Winter Sleep」。

 なお、劇場用パンフレット掲載の監督インタビューにおいて、本作について、同監督は「チェーホフの3つの著作が発想源」だと述べているところ、同パンフレット掲載のエッセイ「チェーホフとドストエフスキー―『雪の轍』とロシア文学」において、ロシア文学者の沼野充義氏は、チェーホフの『妻』と『善人たち』を挙げています(このサイトの記事によれば、沼野氏は、「もう1つがよく分からないのですが、おそらく戯曲の「ワーニャ伯父さん」や「三人姉妹」などが考えられます」と述べています)。

(注3)なんと、このホテルには若い日本人ペアも宿泊しているのです(このサイトの記事を参照)。

(注4)この記事によれば、「カッパドキア(Cappadocia)」は「「美しい馬の地」を意味するペルシア語:Katpatukに由来」するとのこと。

(注5)ネジャット・イシレルは、上記「注1」で触れた“ユシフ3部作”の『卵』において、主役のユシフを演じていました。

(注6)イスマイルの弟のハムディが、イリヤスが車の窓ガラスを割ったことに関して、何度もアイドゥンの元にやってくるのですが、アイドゥンは、「こういった話はヒダーエットや弁護士にしてくれ。もうここには来ないでくれ」とハムディに言います。

(注7)同席していたニハルも、「無抵抗を示すことで、悪人は恥じる」と言います。ただ、ニハルは、ネジラが「元夫に謝ろうと思う」と言ったことについては(下記の「注8」参照)、「何も悪いことをしていないのに」と批判的です。

(注8)この議論は、前夜アイドゥンが、自分の書いたコラム記事(家賃滞納のことに触れたもののようです)について、「悪に抗わなかったら、世の中が混乱してしまう」と言ったことに対し、ネジラが「随分と安易に逃げたもの」と批判したことに引き続いて行われました。
 ただ、その後でネジラがニハルに対して、「元夫のアルコール依存が、離婚してから酷くなった。私はどこで間違えたのか。自分の罪と向き合うべき。離婚せずに、私が違った対応をすればよかった。彼に許しを請おうと考えている」と言っていることからすれば、ネジラの私的な感情に基づいたものでもあるようです。

(注9)ホテルで開催された慈善活動関係者のパーティーに関して、ニハルは、「これは内輪の集まり。数ヶ月かけて行ってきた活動の総仕上げの場。あなたは遠慮して欲しい」とアイドゥンに求めます。これに対して、アイドゥンは、「失礼ではないか。男だらけにもかかわらず、主人を除外するとは。私はこんなことをしたことがない」と言い返します。
 夜になって、ニハルの部屋に行ったアイドゥンに対し、ニハルは、「お互いに干渉せずにうまくやってきた。以前のように喧嘩をくり返すのなら、私はここにいられない。イスタンブールに行って仕事を探すかもしれない」と言います。これに対し、アイドゥンは、「私が一度でも引き止めたか?君は恵まれすぎたんだ。感謝の気持というものがわからないのだ」などと応じます。

(注10)こうしたことを象徴しているのが、大変な思いをして捕まえた野生の馬を、イスタンブールへ出発しようとする際に、アイドゥンが解き放してしまうシーンなのかもしれません。
 劇場用パンフレット掲載の監督インタビューにおいて、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督は、「馬たちは人間とは全く関わらず、人に捕まると彼らは、自由のために闘うのです。それは映画の内容にもふさわしいものでした」と述べています。

(注11)上記「注2」で触れたエッセイにおいて、沼野氏は、ここらあたりはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や『白痴』を踏まえていると述べています。

(注12)「イスタンブールには行く必要がないのだ。すがれるのは君だけだ。君から離れることなど出来ようはずがない。君の下僕となってともに生きよう。許してくれ」といったような内容のアイドゥンの内心の声が流れます。

(注13)アイドゥンは、若い頃は舞台俳優として活躍したという設定になっています。



★★★★☆☆



象のロケット:雪の轍