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未来を生きる君たちへ

2011年09月07日 | 洋画(11年)
 『未来を生きる君たちへ』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)デンマーク映画としては、『光のほうへ』を見たばかりながら、評判が高そうなので、映画館に行ってきました。

 映画では、少年のエリアスとクリスチャンとの関係、2人とクラスメイトとの関係、2人とそれぞれの親との関係、両親相互の関係、というような様々な関係が描き出されながら、それらが複雑にもつれ合って進行します。

 まず、クリスチャンは、ロンドンからデンマークへ移ってきて地元の学校に入りますが、クラスメイトから酷いイジメを受けているエリアスと友達になります。
 とはいえ、2人の性格は対照的といってもいほど異なっています。



 クリスチャンは、口をきっと結んで、何事にも自分の信念を貫こうという気構えですが、エリアスの方は、歯列矯正をしていることもあり「ネズミ顔」と罵られ、かなり大人しい性格でもあることから、スウェーデン訛りなどをネタにして絶えずイジメを受けています。

 次にエリアスの父親アントンは、スウェーデン人の医師ながらデンマークに住んでいます。ちょっとした浮気が原因で、妻で医師のマリアンと別居中。ただ、アントンはその浮気を悔いていて、贖罪の意味もあってアフリカに赴き、難民キャンプで医療活動に従事しています(注1)。
 時折デンマークに帰ってきて、エリアスらに会ったりするものの、マリアンとの仲はなかなか回復しません。ただ、アントンとエリアスとの父子関係は良好です。



 さらに、クリスチャンは、母親が癌で亡くなったことから、父親クラウスと一緒にデンマークの祖母の家に住むことになりますが、ただ父親が癌の治療を途中で放棄したから母親が死んでしまったのだと思いこんでいて、親子の関係はうまくいっていません(注2)。

 こうした状況が背景となって、ある事件が発生し、それに対して皆が様々な行動をとる中から、さらに新しい関係が見出されていくところ、その様子が映画ではヴィヴィッドに描かれています。

 興味深い点をいくつも探すことができます。
a.これまで見た2つのデンマーク映画(『誰がため』と『光のほうへ』)ではあまり描かれなかった海の風景を、この作品では随分と見ることができます。

b.エリアスの一家はスウェーデン人ながらデンマークに住み、クリスチャンの一家はそれまでロンドンに住んでいたというように、ヨーロッパの中で随分と人々は移動しているのだなとわかります。

c.エリアス一家がデンマークで生活をしていまるのは、両国が近接していますから理解できるものの、逆にデンマーク人から、スウェーデン人は出て行けなどと言われたり、エリアスのスウェーデン訛りが馬鹿にされるのを見ると、「北欧」と一括されることが多くとも国境というものが厳然とあるのだな、とも思えてきます。

d.アントンは、アフリカの難民キャンプで献身的な医療活動を行っていますが、そのキャンプの貧しさと、デンマークの豊かさの余りの違いに、見ている方まで胸が痛みます。


 とはいえ、問題もあるでしょう。
a.アフリカにおけるアントンの診療所に、続けて腹部に同じような大きな傷跡を持った若い女性が何人も運び込まれてきます。地元民に聞くと、ビッグマンと称する暴れ者(民兵団のボス)が、妊婦の腹部を切り裂いているとのこと。
 ただ、アントンは、そのまさにビッグマンが負傷して診療所に運びこまれてくると、他の患者と同じように治療をしてあげます。周囲の者はそんな必要はないというものの、アントンは、暴力的な復讐をしてはならない、と思い詰めているようです。
 おそらく、長い間そういった地域で厳しい現実をつぶさに見ていると、そうした姿勢になるのも分からないわけではありませんが、あまり現実的ではないような感じもしてきます。

b.アントンの非暴力主義は、彼がデンマークに戻った際に、街で粗暴な男から殴られたときに反撃しなかった姿勢にもうかがわれるところです。



 それを見ていたクリスチャンは悔しがりますが、逆に、アントンは、その粗暴な男の職場に出かけて行ってさらに殴られもするのです。ですが、エリアスたちには、暴力を使った復讐はさらなる暴力を引き起こすだけで無意味だ、ときっぱりとした態度で言うのです(注3)。
 ここまでくると、なんだかキリストの「右の頬を打たれたら左の頬も出せ」を思い起こしてしまい、随分と観念的な感じがしてしまいます。
 現に、上記のビッグマンの場合、治って歩けるようになると、以前のように女性を蔑視するような発言をしたために、アントンは、ただちに診療所から追い出してしまいますが、その途端、ビッグマンは恨みを持つ地元民によって嬲り殺されてしまいます。これは、暴力による復讐をアントンが認めたも同然のことになるのではないでしょうか?
 そして、この事態を知ったビッグマンが率いる民兵団は、どのような手段に出るのでしょうか?


 そして、この作品の一番の山場である事件が引き起こされます。
 すなわち、クリスチャンは、上で述べた町の粗暴な男の振る舞いをどうしても許すことができず、エリアスを誘って、物置で見つけた花火を改造し、強力な爆弾を作り、その男の車を爆破してしまうのです。

 このとき、偶然近づいてきたジョギング中の親子を救おうとして、エリアスは飛び出してしまい、爆風を受けて負傷してしまいます。
 この事件をきっかけに、それぞれの元のギクシャクした関係が微妙に変化していき、より親密なものへとグレードアップするように思われます。

 この映画は、まず様々の人間関係を取り出し、それぞれが持つマイナスの要因を探り出し(エリアスとクラスメイトとの関係〔イジメ〕、エリアスの両親の冷たい関係〔夫の浮気〕、クリスチャンと父親とのわだかまり〔母親の死を巡って〕)、ついで爆弾事件でそれらの関係が微妙に揺らぎ、マイナスの要因が消滅したりプラスの方向へと変わったりし、関係全体が新しい段階に入っていく物語だ、というように捉えることができるかもしれません(図式的にすぎるかもしれませんが)。

 出演している俳優たちが、なかなかの演技を披露することもあり、全体として優れた出来栄えの映画ではないか、と思いました。

(2)この映画を見ると強く印象付けられるのが、クリスチャンとエリアス、アントンとその妻、クリスチャンとその父親などの対の関係です。
 ソウ思って他のデンマーク映画を思い起こすと、『誰がため』で中心的に描き出されるのが、ナチスに協力するデンマーク人を次々に暗殺するフラメンとシトロンの二人組ですし、『光のほうへ』でも、ニックとその弟に専らの焦点があてられています。
 たった3例しか挙げることはできませんが、そのすべてで対の関係に強い光が当てられているというのも、随分と不思議なことだなと思っているところです。

(3)もう一つこの映画を巡って考えさせられるのは、戦争とかテロに対してどのような姿勢を取るべきかという点でしょう。
 アフリカで医療活動を行っているアントンは、絶えずそうした難問を突きつけられていると思われます。そして、彼の考えは、自分たちに攻撃が向けられても、それに対して報復を考えてはならない、暴力を使った復讐はさらなる暴力を引き起こすだけで無意味だ、というものでしょう。

 この点について、評論家の粉川哲夫氏は、次のように述べています。
 「この映画は、あきらかに、テロ→復讐→テロ→復讐と終のない様相を呈しているいまの戦争状況を問題にしている。しかし、もし、「テロ」が実は「テロ」と呼ぶには非常に組織的なものであり、「テロ撲滅の復讐戦争」も、実は復讐などが問題ではなく、戦争をすること自体が問題であるとしたら、どうだろう? テロや復讐は、戦争を永続させるための手段、人々にこの戦争を納得させるための「レジティマシー」の装置にすぎないとしたら、どうだろう? 戦争株式会社にとって、人々が復讐心を持ってくれれば戦争を起しやすいが、そうでなくても、戦争は起こさなければらなないのである。戦争は、もっと国家や組織の本質から生ずるのであって、この映画に登場するアフリカの邪悪な集団から直接派生するわけではない。こういう観点から考えると、この映画は、状況認識が非常に甘いのである」。

 確かに、戦争とかテロといったものを個人的なレベルで捉えて、個々人の意識が変わりさえすれば、世の中は平和になるだろうというような認識は「甘い」のかもしれません。
 ですが、だからといって「戦争は、もっと国家や組織の本質から生ずる」と決めつけてしまうと、現在の世の中を変える術はないのかと、酷く悲観的になってしまいます。
 あるいは、粉川氏は、「戦争株式会社」と言っているところからすると、戦争とかテロは、資本主義体制がもたらすものであって、そうした特定の経済体制を打破しさえすれば、問題は解決出来ると言いたいのかもしれません。
 でも、ソ連とか中国とかの経験から、それもまた「状況認識が非常に甘い」とされるのではないでしょうか?
 大層難しい問題でどう取り組むべきなのか皆目分からないと言うべきですが、アントンのような姿勢は、なかなか成果に結びつかないにしても、それでも必要な一歩なのかもしれないと考えられるところです。

(4)渡まち子氏は、「現代に横たわる戦争やテロの原因は複雑で、簡単には解決しない。それでもこの物語は、個人レベルでの赦しがすべての始まりだと教えてくれる。報復や赦しの是非ではなく、負のスパイラルを断ち切ることで、この世界がどう変わるか。それを知りたくなる」として80点もの高得点をつけています。



(注1)映画の前半の方で、アントンが別居中の妻マリアンに電話をかけるシーンがあります。
 アントンが、「君がいなくて寂しい」と言うと、マリアンは「あなたは自慢の夫だと信じていた。愛し合っていたと信じていた」と言います。それに対して、アントンは、「過ちを犯した。それで窮地に自分を追い込んだのだ」と言うと、マリアンは、「あなたのことを考えているときに、あなたは彼女のことを考えていた。すべてが嘘だった」などと答えます(大体のところにすぎませんが)。

(注2)はっきりしないのですが、クリスチャンの父親クラウスには愛人がいて、そのことを肌で感じ取ったクリスチャンが、母親の死に際のことを持ち出して父親を責めるのでは、とも思えるのですが。

(注3)大体のところにすぎませんが、アントンはエリアス達に次のように言います。
 「やつは馬鹿なのだ。やつを殴れば、こちらも馬鹿になる。やつは殴ることしかできない。やつは相手にする価値がないのだ」。



★★★★☆




象のロケット:未来を生きる君たちへ